「春眠」 ///真田弦一郎
「……真田」
「なんだ? 」
「……弦一郎」
「だからなんだ? 」
ぼくが名前を呼ぶごとに、律儀に返してくるその声の苛立ちが増した。
でも、だって、信じられないんだ。
保健室のベッドで起き上がったぼくに、真田が手渡してくれたもの。
「……これ、なに?」
いぶかしみつつ、フタをあけたぼくは、なんともいえないいい匂いに包まれていて。
「見ての通り、うな重だが」
「やっぱり、そうだよねぇ……」
手に持っているお重はまだ暖かくて、ウナギはつやつやと光っていて、香ばしい、食欲をそそるいい匂いを振りまいているんだ。
当然、ぼくの腹の虫も反応してしまう。
このまま顔を突っ込んでウナギに溺れたい気分。いやいや、そんな意地汚いことは。
「――で?」
グッとこらえて、うな重から真田へと目線を移して問う。
「この状況で何度も聞くな。食え」
そりゃあ、これが食べられれば嬉しいですが。
「なんで?」
「いい加減、質問は止めろ! 貧血と空腹で倒れたんだろう? 保険医に頼んで特別に出前をとってもらった。払いは俺もちだから心配するな!」
「でも、真田に奢ってもらう理由がない――」
「この間、お前にレポートの資料を捜すのを手伝ってもらっただろう、その礼だ」
「あのくらいのこと、こんないい鰻には値しないよ」
これ、どう見てもスーパーの冷凍品とかじゃなくて、ちゃんとした鰻屋のだよ。一体いくらするんだか。
「俺がいいと言っているんだから構わないだろう。これ以上、ウダウダ言うようなら、俺の手で無理矢理お前の口に押し込んでもいいんだぞ」
そ、そんな怖い顔を近づけるな!
お前の手でこの鰻を握りつぶすなんて、鰻に対する冒涜だぞ。
「……そこまで言うなら、ありがたくいただきます」
いったんうな重を膝の上に置いて、両手を合わせる。
うむ、と言ってすかさず真田が箸を差し出してくれた。
食べ始めたら、やっぱり鰻は空腹の胃にしみるほど美味くて。ぼくは夢中で箸を口に運んだ。
「それで? 今回はなにに昼食代を使ったんだ?」
「えーほね、すいほくかん」
「。食べ物をきちんと飲み込んでから言え」
「ん――、水族館。イルカを見に行ってたんだ」
「イルカ……?」
「そうなんだよ、真田! イルカってすごいんだ。身体に対して脳が占める割合は人間に次いで大きいんだけど、無意識呼吸ができないから、人間みたいに眠れないんだよ。でも脳を休ませるために、泳ぎながら右脳と左脳を交互に眠らせるんだ。それも一分間寝て、呼吸をして、また一分間寝てを三百回とか四百回とか繰り返すんだよ。でもそれって、時間にして五時間から八時間なわけで、やっぱりイルカって人間と似てて、他にも――」
「解った、解った! いいから先に食え。冷めるぞ」
「あ――、うん」
いかん、いかん。夢中になると周囲が見えなくなる癖を忘れてた。
慌てて、ぼくはまた箸を動かし始める。
約束の時間も忘れて、自分の興味のあることに没頭してしまうぼくには、当然ながら友達は少ない。というか、呆れずに声を掛けてくるのは真田くらいだと思う、うん。
「……いつも、ありがとな」
「ん? なにか言ったか?」
小声で呟いた言葉は、真田には聞こえなかったようで。でも、いいや。なんか恥ずかしいし。
「いや……、ごちそうさま。すごく美味しかった、です」
そう言ったら、真田がフッと笑って、ぼくの頭をポンポンと叩いた。
「良かったな。腹がいっぱいになったら、少し寝ていろ。人間だって、イルカと同じく、五時間から八時間の睡眠は必要なんだぞ。どうせまた夢中で本を読んで、寝ていないのだろう?」
ああ、なんでもお見通しで。
「ん、じゃあ、そうさせて、もらう……」
お腹がいっぱいになったせいもあると思うけど、急に訪れた眠気に引き込まれながら、ぼくは呟いていた。
「真田の手、気持ち、いい……」
大きな手に顔を寄せて、目を閉じる。
「そうか、では眠るまで傍にいよう」
ああ、頭を撫でられると、なんでか眠気が増す。
なんでだろう? 今度、調べて、みよ……
「は、少しくらい気を緩めたほうがいい――」
真田がなにか言っていたけど理解できないまま、ぼくは眠りに落ちていた。
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「sugar so sweet」 /// 日吉若 <連載主人公番外編>
「えっと、あの…、どうかな?」
夕食を食べ終えた若と、いつものように離れで待ち合わせたぼくが、彼に差し出したのは、薄いクリーム色のムース。
「暑いから、さっぱりした冷たいものがいいんじゃないかと思って、レモンのムースを作ってみたんだけど、その…、ちょっと……甘いよね?」
全国大会は負けてしまったけれど、若にはまだ来年もあるから部活を続けているし、ぼくはぼくで――来年、氷帝学園の高等部の入試を受けるから、勉強しなくちゃならなくて――夏休みとはいえ、一緒にいられる時間は限られてる。
でも、だからこそ、その時間は大事にしたくて。
「……ん、ああ。そうだな」
ムースを口にいれた若が、少しだけ眉を顰める。
「やっぱり? ゴメン。ムースは砂糖を減らすとぼんやりした味になっちゃって美味しくないから、いつもよりは甘くしちゃったんだ……ゴメン」
「いや、でも……美味い。暑くて食欲落ちてるしな、味が濃いほうがいい」
そう言って、若がもう一口と、スプーンを口へ運ぶ。
「その、無理なら、食べなくても……」
「無理じゃない。美味いって、言っただろ」
フッと、若が目許を弛ませて微笑む。そして小さく呟かれた言葉。
「ありがと、な、」
笑顔と、言葉と、最近の若はよく見せてくれるけれど、全然慣れる気配がなくて、ぼくはドキドキしてしまう。
「ううん、よかった……。お兄さんにも美味しいって言ってもらえたけど、でもやっぱり若には甘いんじゃないかって心配で――」
「おい」
ぼくの言葉を遮って、急に若が鋭くぼくを睨んできた。さっきまでの微笑など跡形もなく。
「アニキに、コレ、食わせたのか?」
「え…、うん。今日は姉さんが出掛けてて、味見してくれる人がいなかったから……」
若のお兄さんとは歳が離れてたからほとんど一緒に遊んだことはないから、そう親しくはないんだけど、今日はちょうど仕事も夏休みだとかで家にいたので、試食してもらった……んだけど。
急に、若がカップとスプーンを床に置く。
「いままでも、俺以外のヤツに、俺より先に、お前の作ったモノを、食わせてたのか?」
「それは……、もちろんそうだよ」
どうして若がそんなことを低い声で尋ねてくるのか解らないけど、ぼくは正直に答えた。
「なんで?」
「だって若に、不味いものなんか食べさせられないよ」
「お前が作ったモノなら、不味くたって食べてやるよ!」
「え…、じゃあ、いままで作ったものも、もしかして美味しくなかった……? 我慢して食べて、たの…?」
若の答えを聞いて、ぼくは急に不安になる。
「どうしてそうなるんだ!」
ガンッと勢いよく若が壁を叩いた。反射的にぼくは目を閉じて身体を竦ませてしまう。
「……悪い」
室内に響く静かな声に、ぼくは恐る恐る目を開ける。
「――驚かせて、悪かった」
若が、ぼくの前で頭を下げる。そして気まずそうに視線を逸らせてから、呟いた。
「……嫉妬した。お前の作ったモノは、全部俺が独り占めしたい」
うわ、若の耳が、紅い。というか、聞いたぼくも、頬が熱くなってしまう。
「それは……その、嬉しいけど、でも…ぼくだって、若に不味いもの、食べさせたくないし……」
「ああ、そうだな、悪かった」
ぶっきらぼうにそう言って、若は再びカップとスプーンを手に取る。それが照れ隠しなんだってことくらい、ぼくにも解るし。
「えっと、でもね。その…味見以外で、他の人の分を作ったり、食べさせたりは、もうしてないから」
以前は、乾とかにもあげてたし、いまでも頼まれるけど、断り続けてる。
「そう、なのか?」
驚いたように、若が顔を上げる。
頬、真っ赤になっていると思うけど、これだけははっきり伝えておきたい。
「うん。だって、ぼくは、若のためにしか、作りたくないから」
言ってしまってから、やっぱり恥ずかしくて俯いてしまう。
「……ホント、コレ、美味いよ」
頭上から聞こえてきた若の声。
次の瞬間、ぼくは顎を掴まれて、若の唇から自分の作ったムースを味わっていた。
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「甘い熱」 ///観月はじめ <連載主人公番外編>
朝、ぼくは珍しく自分で目を覚ました。はじめくんの「朝ですよ、。起きなさい」という優しい声ではなく。
早い時間なのかと思って時計を見ると、いつもより五分遅い時間だった。
コホンッの聞こえた咳に、ぼくは飛び起きて下のベッドを覗いてみる。寝ているはじめくんの頬が赤い。
ぼくは慌ててベッドの階段を下りて、はじめくんの額に触れた。
「熱い――」
ぼくの指先が触れたのは、いつもの体温ではなく。
「ふ、かくです……」
うっすらとはじめくんが瞳をあけ、苦しそうに呟いた。
「はじめくん、喋らなくていいよ。えっと、体温計――寮監の先生のところに行って、救急箱もらってくる!」
ぼくは部屋を飛び出し、先生に事情を話して救急箱ごと借りてきた。
先生もすぐに行くから、先に熱を計っていなさいと言われて、ぼくは慌てて部屋へ戻る。
その途中で、赤澤くんとすれ違った。
「おい、。どうしたんだ? そんなに慌てて」
「は、はじめくんが、熱で――すごく、苦しそうで……」
「観月が? 珍しいな。おい、ちょっと待て」
すぐに部屋に戻ろうとしたぼくは、赤澤くんに腕を掴まれる。
「え、あの…」
早く戻りたくて、離してと言おうとしたぼくを遮るように「いいから」と赤澤くんはぼくの腕を強く引いて、寮内に置かれている自販機の前まで連れて行った。
ポケットから小銭を出して、赤澤くんがボタンを押す。
出てきたスポーツドリンクを手渡された。
「観月に、飲ませてやってくれ」
赤澤くんはやっぱり部長だけあって、よく気の利く人だ。すぐにひとつのことしか見えなくなってしまうぼくは、反省しなくちゃいけない。
「あ――ありがとう!」
赤澤くんに頭を下げて、ぼくは部屋へ戻った。
「はじめくん、お待たせ!」
はじめくんはベッドに寝たまま、苦しそうに呼吸を繰り返していた。
「先生もすぐ来るからね。とりあえず熱を計って――」
救急箱から体温計を取り出し、はじめくんの布団を少しだけめくって、パジャマのボタンに手を掛けた。
はじめくんはそんなふうにぼくに任せっきりというのも珍しい。
それだけ辛いんだろうなと思うと、ぼくの胸も苦しくなる。
体温計を脇の下に挟んで布団を戻すと、ぼくはもう一度はじめくんの額に触れた。
「つめたくて……気持ちがいいです」
気持ちよさそうに瞳を閉じて言ったはじめくんの言葉に、額を冷やしたほうがいいんだと気づく。慌てて救急箱のなかを探すけど、熱を取るシートは入ってなかった。
ふいに赤澤くんが買ってくれたスポーツドリンクのペットボトルが目に入った。
「これ、赤澤くんからのお見舞いだよ」
ペットボトルを、そっとはじめくんの額に当てる。
赤澤にしては気の利いたことを、とはじめくんが小さく呟いたのが聞こえた。
「ちょっと待ってて、タオル濡らしてくるから――」
いつまでもペットボトルを当てているわけにはいかないので、立ち上がろうとしたぼくは、はじめくんに呼び止められる。
「……。それ……、飲ませて、もらえませんか…?」
「あ、喉が渇いてたんだね。うん」
ペットボトルのフタを開けてから、ぼくは気づく。寝ているはじめくんに、どうやって飲ませたらいいのか。
ぼくの枕も使って、身体を少し起こしてもらおうかと考えたときだった。
「できれば……、口うつしで」
そう言って、はじめくんがフッと笑った。
熱のせいか潤んだ目元がいつもと違って、なんだかドキドキしてしまう。
「風邪は……人にうつすと治るっていうでしょう? ……アナタが風邪を引いたら、ぼくが看病して、あげますよ」
ああ――……、どうしよう。
いつだってはじめくんは、ぼくを惹きつけて離さないんだ。
「うん……、はじめくんの風邪なら、うつされたいよ」
ぼくはスポーツドリンクを口に含むと、そっとはじめくんの唇に触れた。
はじめくんの唇はやっぱりいつもより熱い。
口うつしなんて、もちろん初めてで、どうしていいか解らずにいたぼくを誘導するように、そっとはじめくんの唇が開いて、触れてきた舌がぼくの唇をなぞる。
ぼくが薄く唇を開くと、唇は深く重なり合った。
はじめくんの舌を伝って少しずつ、スポーツドリンクはぼくからはじめくんへと移動していく。
「……上手、ですよ。」
唇を離したあと、はじめくんにそう囁かれて、ぼくは嬉しくなる。
観月くんに褒められたなら、ぼくはどんなことだってできるだろう。
もっと飲む? と問うと、はじめくんが頷いて、ぼくたちはもう一度それを繰り返した。
そして――――
その後、先生が来て、医者に行って、はじめくんの高熱は一日で下がったのだけれど、ぼくが寝込むことはなかった。
代わりに、と言ってはなんなのだけれど。
「あの、はじめくん。ちょっと聞きたいんだけど……」
「なんですか?」
「その……、今度は赤澤くんが熱を出してるらしいんだけど、その……まさか、はじめくん、赤澤くんと――」
そこまで口にして、気づく。はじめくんの顔が、半端なく怖い。
「ううん、なんでもない!」
慌てて逃げようとしたけれど、ぼくははじめくんに捕まえられて――、しっかりとお仕置きを受ける羽目になった。
*自分的お題「触れていて」*
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「柔らかな熱」 ///跡部景吾 <連載主人公番外編>
「サン――今日は学食? サロン? 天気ええし、いっそ屋上にでも行こか?」
四時間目の授業が終わった途端、後ろの扉から現れた忍足に、ぼくは苦笑しながら立ち上がる。
「早いな、忍足」
このA組から、忍足のH組はいちばん遠いというのに。
「小テストやったから、さっさと終わらせて出てきたわ。で、どないする?」
「悪い、ぼくたち、榊先生に呼ばれてるんだ。いつ帰れるか解らないから、先に食べてくれ」
「……たち?」
聞き返したのは、忍足ではなく、まだ座ったままでいた景吾だった。
「そう。ぼくと、跡部」
「聞いてねぇぞ」
「伝言頼まれてたの、言うの忘れてた」
「おい――」
不機嫌そうに景吾がぼくを睨みつけたけれど、それを無視して忍足に向き直る。
「と、いうわけだから、きょうの昼食は別ってことで。悪いな」
「残念やけど、そういうことなら仕方ないなぁ。ほな、時間あったら来てや、サロンにいるわ」
「解った」
ひらひらと手を振って忍足を送り出し、ぼくは景吾へと振り返る。
「それじゃあ、行こうか」
「……ったく。で、どこに行くんだ? 音楽室か?」
文句を言いながらも立ち上がった景吾を、いいからとなにも告げずに促した。
着いたのは、部室棟――もちろんテニス部の部室前。
「おい、。ここで監督がなんの用なんだ?」
その質問に答えず、ぼくはロックを解除して室内に入った。景吾を引き入れて扉を閉めてから、ぼくは景吾を見上げて、告げる。
「ごめん、監督に呼ばれてるっていうのは嘘なんだ」
「な――」
眉を顰めた景吾を遮って、ぼくは続けた。
「いま熱があるだろう、景吾。朝からずっと調子が悪かった、違うか?」
「……大したこと、ねぇよ」
チッと舌打ちして、景吾が目を逸らす。
「こんなことくらいで、早退なんてしないからな」
「うん、解った」
景吾なら、そういうと思ってた。誰にも、弱いところは見せたくないんだ。
「なら、ここで少し横になって。短い時間でも、眠れれば少しはラクになると思うし」
「……」
「榊先生に部室の使用許可は取ってあるよ。いちおう解熱剤ももらっておいたけど、飲むか? スポーツドリンクは部室にあるのもらってもいいよな。食欲はどうだ? ゼリー飲料とおかゆと、バナナなら用意してあるけど」
「おまえ、いつの間に……」
景吾が驚いた表情でぼくを見下ろしている。
「二時間目と三時間目の休み時間に」
こんな顔、滅多に見られるものじゃないから、なんだか嬉しくなってしまう。
「ほら、早く横になれよ」
微笑んで、ぼくは景吾の手を引いた。
「……ったく、誰にも気づかれねえと思ったのに」
「悪いけど、ぼくは誰よりも景吾を見てるからね」
「そんな台詞は、もっと色っぽい状況のときに言えよな」
いまじゃ手出しできねぇと呟きながら横になった景吾に、ぼくは用意していたフリースのブランケットを掛けた。
「少し休ませてもらう。五時間目には間に合うように起こせよ」
「ああ」
目を閉じた景吾を残して、ぼくは冷蔵庫からスポーツドリンクを出して、グラスと一緒にテーブルの上に置いた。景吾が喉が渇いたときに、すぐに飲めるように。
「……お前の昼食は?」
不意に声が掛けられて、振り返る。眠ったと思った景吾が目を開いていた。
「パンを買ってあるよ」
「持ってこい」
おかゆやバナナよりパンが食べたいのならと、ぼくは冷蔵庫の上に置いておいた、サンドイッチの紙袋を手に戻ってきた。
「え――」
素早く身体を起こした景吾に腕を引かれ、ぼくはソファの上に座ってしまう。
そして景吾は再び横になった。ぼくの膝の上に頭を乗せる形で。
「えっと、あの……」
「枕になってろよ。ああ、サンドイッチなら、片手で充分だよな」
言うなり、伸びてきた景吾の右手が、ぼくの左手を掴んでブランケットのなかに引き込んだ。
なにが起こったのか――状況を把握したとき、すでに景吾はぼくの手を掴んだまま、ぼくの膝の上で静かな寝息を立てていて。
景吾に握られている手のひらが熱い。
まったく。具合が悪くなると心細くなる気持ちは解るし、傍にいて欲しいなら、いつものようにはっきりとそう言えばいいのに。
ああ――不意に、ぼくは気づいた。
具合が悪くて、気弱になって、逆に言い出せなくなったのかもしれない。
だとしたら。
(早く、いつもの景吾に戻れよ……)
ぼくは景吾に掴まれた手を、優しく握りかえした。
*自分的お題「触れていて」*
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「優しい熱」 ///手塚国光 <連載主人公番外編>
「きょう、熱出したんだ。だから休み」
朝練のときにすれ違ったリョーマから前置きもなくそう言われて、手塚は足を止める。
けれど口にされなかったその主語が誰を指すのかは、互いに解っていること。
「待て、越前。ひどいのか?」
手塚の問いに、越前は渋々といった様子で振り返る。
「少し疲れが出たんだろうって。まだ完全に体力戻ってないのに、誰かさんと試合したくて無理したらしいよ」
批難めいた言葉のわりに、リョーマの口調は手塚を責めるようなものではなかった。
それはきっと、以前ののテニスを知っているリョーマこそが、誰よりも彼の復帰を望んでいるからだろう。
「帰りに見舞いに寄りたいのだが、構わないか?」
手塚がそう言い出すことは、リョーマには予想済みだったのか。くるりと向きを変え、手塚に背を向ける。
「……俺の許可はいらないんじゃない?」
ようやく聞こえるほどの小さな声でリョーマは言うと、手塚の答えを待たずにコートへと歩き出した。
どうやらそれは、リョーマなりの譲歩らしい。
熱を出したのことはやはり心配で、できることならいますぐにでも見舞いに行きたいが、さすがに学校や部活をさぼるわけにはいかない。
無理だろうとは解っていても、手塚が行くまでがずっと眠っていてくれればいいとさえ、手塚は思ってしまった。
教室に行ってもきょうは彼の姿が見えないのだと、朝練を終えて昇降口で靴を履き替えながら、手塚が不機嫌そうに目を伏せたときだった。
「手塚くん、大変!」
慌てた様子で手塚に声を掛けてきたのは、クラスメイトの女子。
彼女の口から告げられた次の言葉に、手塚は彼女を置いて走り出していた。
向かう先は、教室。手塚の席。
たどり着いたそこには、彼女の言ったとおり――がいた。
「どうしたんだ――」
熱があるんじゃなかったのかという言葉を、手塚は飲み込んだ。
上気した頬、潤んだ瞳――体調が悪いのは明白だ。
手塚が駆け寄ると、は両腕を伸ばして手塚に抱きついてきた。まるで、縋りつくかのように。
「国光……、国光……」
必死に手塚の名前を呼ぶの背中に、手塚も手を回して抱きしめてやる。
「どうした? 大丈夫だ、ここにいるぞ」
手塚が優しく声を掛けると、はゆっくりと顔を起こした。
やはりその頬は赤く、瞳からは涙が零れそうなほどだった。
「具合が悪いんだろう? 保健室に行って、少し眠ろう」
手塚がそう言うと、はっと気づいたように、は激しく首を振った。
「イヤ――! 怖い! 寝るのイヤ! 目を開けたら、リョーマがいない。国光がいない。怖い――! コレは夢で、起きたら病院で、なにもなくて――怖い!」
「大丈夫だ、俺はここにいる、ここにいるぞ」
とうとう泣き出してしまったを、手塚はきつく抱きしめた。
どうやら彼はひとりで眠っていて、入院中のことを思い出してしまったのではないかと手塚は推測する。
怖くなって、確かめるために家を抜け出してまで学校に来たのだと。
だが具合の悪いを、いつまでもこうしておくわけにはいかない。
「くに……、みつ……」
だからといって、眠るのが怖いとしゃくり上げながらも手塚の名前を呼び続ける彼を、放っておけるわけもなかった。
学校も部活も休んで、を家へ送り届け、熱が下がるまで傍にいるしかないと手塚が決意したときだった。
手塚の腕のなかで、が身体を震わせる。
「くに、みつ……さむ、い……」
手塚は素早く彼の額に手を当てる。そこはやはり、ひどく熱かった。
「すまない、こんなものしかないが」
手塚は片手でラケットバッグを開けると、レギュラージャージを取り出して彼に着せかける。
もう一刻の猶予もない。
「俺がついてる。だから一緒に――」
帰ろうと彼に声を掛けようとして、手塚は気づく。
はもう泣いてはいなかった。
着せかけられた手塚のジャージの端をギュッと握って、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「国光の、匂い、する……」
「すまない、さっきまで着ていたものだ。なにか、他のものを――」
言いかけた手塚の言葉を、彼のほうが遮った。
「これがいい。国光、一緒」
そう言って、は身体を起こすと、手塚のジャージの袖に自分の腕を通し始めた。手塚も慌てて手を添えてそれを手伝ってやる。
「眠い…」
制服の上から手塚のジャージをすっぽりと着たは、まるで一仕事終えたかのように呟いて、手塚に寄りかかってくる。
「保健室で、少し眠るか?」
手塚が問うと、は素直にこくんと頷いた。
保健室に彼を連れて行き、保険医に事情を離してジャージを着たままベッドに寝かせてもらう。
「なにかあったら呼べ、すぐに来る」
大人しくベッドに横になったに言うと、彼は腕を出して、ジャージの袖口に頬を寄せた。
「国光、一緒」
そしてほどなく、は濡れた睫を伏せた。
保険医にも、なにかあったらすぐに教室まで呼びに来て欲しいと念を押して、手塚は保健室を後にした。
教室へ向かって歩き出し、ふと足を止めて振り返る。
「まさか自分のジャージに嫉妬する日がくるとは思わなかったな」
呟いて、手塚は薄い笑みを浮かべた。
*自分的お題「触れていて」*
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all re-updated 11/06/09