「俺とアイツの話」<海堂side>   ///海堂薫



「ごめん、海堂。ちょっといいか?」
 海堂がクラスメイトのに呼びとめられたのはその日の放課後。あまり話したこともなかった相手とはいえ、彼が物静かで成績もよい人間だというのは知っていたから、海堂も肩にかけたテニスバッグを置いた。
「あ、部室に向かうんだろう? よかったら歩きながらでいいんだ」
 ならばともう一度バッグをかつぎ、歩き出す。も海堂の横を歩きはじめて──海堂はこんなふうに誰かと並んで歩くのは久しぶりかもしれないというくすぐったい違和感を覚えた。
「それで。いきなりこんなこと言い出して変なヤツだと思われると思うけど──」
 そう切り出したの横顔をチラリと盗み見たが、特に焦っていたり慌てていたりする様子もなかったので、海堂は黙って聞くことにした。
「海堂の弁当って、お母さんが作ってるのか?」
 確かに突然の質問だったので驚いたが、前もっていわれていた分、返事ができないほどではなかった。
「……ああ」
「そうか。悪いな、いきなり。実はその……料理を習いたいと言ったら、迷惑かな?」
 その質問には、さすがに海堂も足を止めてしまった。
「ずうずうしいのは承知で言わせてもらうと、ぼくの母は4歳のときに亡くなって、いままで家政婦さんを頼んでたんだけど、その人が娘さんの出産の間しばらく来れなくなって。少しくらいならぼくもできないこともないし、コンビニとスーパーのお惣菜でやってきたんだけど、その……父さんの誕生日くらい、美味いもの食わせてやりたいなと思ったんだ。今日ちょっと見ただけでも、海堂の弁当、すごく美味そうだったから」
 突然聞かされた彼の日常に、海堂はなにも言えなくなってしまう。
「ほんといきなり、ゴメンな。ダメもとだと思って話しただけだから、あまり気にしないでくれると嬉しいんだけど。じゃあ、部活頑張れよ」
 口調と同じようにあっさりとは歩き出してしまう。なにか返事をしたかったのに、なにを言ったらいいのか解らないまま、海堂はの背中を見送ることしかできなかった。それは海堂のなかに、なにか釈然としないものを残した。
 だから、次の日。
 朝練を終えて教室に入った海堂は、自分の席ではない場所を目指して進んだ。
。いつでも構わないらしい――うちの住所と電話番号だ」
 海堂は座っているの机の上に、小さなメモを置く。
 母さんに料理を習いたいって言ってるヤツがいる――どうしたらいいのか解らなかった海堂は、彼に言われたことをそのまま母に話してみた。海堂からすべてを聞いた母、穂摘はわたしにできることならなんでも教えるわよと喜んで承諾したのだった。しかも、なにから教えたらいいかしら、どんな味付けが好きなのかしらと、そのはしゃぎようは海堂が驚くほどだった。
 細い指が、折りたたまれたメモを大事そうに掴む。
「あ──ありがとう……」
 顔を上げて、が微笑む――その表情は、なぜだかいまにも泣き出しそうで。
 その瞬間、ドクンと――自分の胸のなかで音が響いた気がした。
「い、いや別に」
 突然湧き上がった動揺を抑えるために、海堂はそれだけ言って自分の席へと向かう。乱暴にラケットバッグを机の上に置いてから――もうひとつに言わなければいけない用件があったのを思い出す。
 母さんが作った弁当見て美味そうだったと言っていたという話を聞いた母は、二つも三つも一緒だからと、の分の弁当も作って、海堂に持たせたのだ。
「チッ――」
 舌打ちして、海堂は振り返る。海堂の視線に気づいて、は再び笑顔を見せた。
 ドキンと――また海堂の胸が音を立てた。
(なんだってんだ――)
 海堂は視線を前へと戻してしまう。それは、いままで感じたことのない焦燥だった。
(こんなの、俺らしくねぇ)
 海堂は勢いよく立ち上がると、ズカズカとの席へ向かう。
「おい、――昼メシ、一緒に食うぞ」
 それだけ告げると、再び真っ直ぐに自分の席へと戻る。フシューと海堂は不機嫌そうに息をついていたから、他のクラスメイトが海堂に話しかけることもなかったから、海堂は気づかなかった。
 驚いたままの海堂の背中を見つめているが、頬を真っ赤に染めて俯いたことに。

































「ぼくと彼の話」<主人公side>   ///海堂薫



 たぶんこれは賭けだと思う。
 不器用だけど真っ直ぐで一生懸命な彼の姿に一年のときから憧れていて、二年で同じクラスになれたというのに、話すきっかけが見つけられずにいた。けれどようやく、その口実が見つかったのだ。でもそれはかなり唐突なことには変わりなく、彼を不機嫌にさせてしまうかもしれない。それでも――ぼくは彼と話してみたかったんだ。
「ごめん、海堂。ちょっといいか?」
 放課後、真っ直ぐに部活へ向かおうとする彼に、勇気を振り絞ってぼくは声をかけた。ぼくの呼びかけに海堂は振り返って不審そうにぼくを見ていたけれど、肩にかけていたテニスバッグを置いて、ぼくの話を聞こうとしてくれた。
「あ、部室に向かうんだろう? よかったら歩きながらでいいんだ」
 彼がとても一生懸命になっている部活の邪魔をしてしまうのは本意じゃない。だからせめてそれ以外の時間を、共有できたらいいなとは思ってしまうのだけれど。
 再びラケットバックを担ぎなおした海堂と並んで、ぼくは廊下を歩き出した。
「それで。いきなりこんなこと言い出して変なヤツだと思われると思うけど──」
 考えに考えた口実を、ぼくは話し始めた。
「海堂の弁当って、お母さんが作ってるのか?」
 案の定、唐突な質問に海堂は戸惑っているようだったけれど、ちゃんと答えてくれた。
「……ああ」
「そうか。悪いな、いきなり。実はその……料理を習いたいと言ったら、迷惑かな?」
 続けたぼくの質問に、海堂は足を止めてしまった。やはり驚かせてしまったようだ――ぼくは慌てて、頭の中で何度も練習した言葉を口にした。
「ずうずうしいのは承知で言わせてもらうと、ぼくの母は4歳のときに亡くなって、いままで家政婦さんを頼んでたんだけど、その人が娘さんの出産の間しばらく来れなくなって。少しくらいならぼくもできないこともないし、コンビニとスーパーのお惣菜でやってきたんだけど、その……父さんの誕生日くらい、美味いもの食わせてやりたいなと思ったんだ。今日ちょっと見ただけでも、海堂の弁当、すごく美味そうだったから」
 突然こんなことを聞かされて、正直彼は困っているだろう。確かにこれは本当のことで、嘘をついているわけじゃないんだけれど、こんな言い方しかできなくて申し訳ないと思う。海堂が食事をしているときにふと目に入ったとでもいうように近づいて「海堂の弁当って美味そうだなー、オレもこんなの食べてみたい」とか、軽く話しかけられるような性格だったら、どんなに良かったか。
「ほんといきなり、ゴメンな。ダメもとだと思って話しただけだから、あまり気にしないでくれると嬉しいんだけど。じゃあ、部活頑張れよ」
 ゴメンと心のなかで何度も謝りながら、ぼくは用意していた言葉を口にした。少しだけでも海堂と話せて、並んで歩いた――それだけで、満足だ。海堂には迷惑だったろうけれど。
 ぼくは走って逃げてしまいたいのを抑えて、平静を装ってその場を後にした。
 海堂はきっとぼくのことを変なヤツだと認識しただろう。海堂から話しかけられることもないだろうし、ぼくが話しかけるきっかけも、この先また見つけられるかどうか。
 だから次の日、まさかそんなことになるとは思わなかった。朝練を終えて教室に入ってきた海堂が、真っ直ぐにぼくの席へと向かってくるなんて。
。いつでも構わないらしい――うちの住所と電話番号だ」
 座っているぼくの机の上に、海堂が小さなメモを置いた。
(わざわざ、聞いてくれたんだ――)
 あんな勝手な願いなのに、海堂はわざわざ母親に頼んでくれたのだ――ほとんど話をしたこともない、ぼくなんかのために。
(嬉、しい――)
 ぼくのために、海堂が持ってきてくれたメモ。
「あ──ありがとう……」
 これはぼくの宝物だ。しっかりと、でもクシャクシャにしないように大事に受け取って、ぼくは海堂に礼を言った。本当に嬉しくて――泣き出してしまいそうだった。
「い、いや別に」
 それだけ言って、海堂は席へ向かってしまう。少しオーバーに喜びすぎて、驚かせてしまったのかもしれない。
(でも、ホント嬉しい――)
 海堂がくれたメモと、海堂の背中とを交互に見比べてしまう。
(さっそく携帯に登録させてもらうおかな……ってことは、ぼくの携帯に『海堂薫』って名前を登録してもいいんだ……)
 どうしよう――自分でも自分が浮かれまくっている自覚はあるのだけれど、止められない。
 ぼくの視線を感じたのか、海堂が振り返った。
(ありがとう、これからよろしく)
 その気持ちを込めて笑ったつもりだったのだけれど、海堂は不機嫌そうに前へと視線を戻してしまった。
(どうしよう――? やっぱりぼく、浮かれすぎてたかな。母さんが死んだ話なんかしたから、可哀想に思っただけで、本当は迷惑だったのかもしれない――)
 一瞬にしてぼくはパニックになってしまったから、机の横に影ができたのに気づかなかった。
「おい、――」
 掛けられた声が海堂のものだと気づいて、慌てて顔を上げる。でも、ぼくが海堂の顔を見る前に、その言葉は告げられた。
「きょう昼メシ、一緒に食うぞ」
 ――神様? これはぼくの聞き間違いじゃないですよね?
(どどど、どうしよう――!)
 ぼくは再びパニックに陥り、火照った顔を俯かせることしかできなかった。



































「優しい指」   ///滝萩之介



「なんでいるの?」
 ぼくはキャンバスに向かって言った。筆を動かしている左手も止めずに。
「…邪魔?」
 背後から静かな声が返ってくる。きっと綺麗に切りそろえられた髪を、サラリと揺らしているんだろう――見なくても分る。
「答えになってない」
 振り返らずに、ぼくは続ける。
 クスクスと軽い笑い声が近づいてくる。
ってばホント優しいよね。邪魔だって言えば、出て行くのに。はっきり言わないから、ぼくみたいなのにつけ込まれるんだよ」
 細くて長い綺麗な指が、ぼくの視界の隅で椅子を引く。そして――滝はそこに腰を下ろした。
「つけ込まれた覚えはない」
「そう?」
 ふわりとした答えに導かれたように、窓を開け放っていた美術室に優しい風が舞った。
「ん……気持ちのいい風だね。こんな空間を独り占めするなんて、ズルイんじゃない?」
 椅子の背もたれに肘をつき、滝が言う。それでもぼくは、キャンバスの上の筆を止めずにもう一度繰り返した。
「――なんで、ここにいるの?」
「テニス部を辞めたからだよ」
 ぼくの左手の筆が止まる。
「負けた、から?」
「うん、知ってるんじゃない」
 知らない生徒なんていない。滝が負けて、レギュラー落ちしたはずの宍戸が復帰したことを。ぼくは宍戸のことを名前と顔くらいしか知らないけれど、対戦相手に滝を選んだというだけで、宍戸を憎んでしまいそうだ。
「宍戸のように必死になるのも、悪くはないよね。でもぼくは――抗うのは嫌い」
「でもっ、滝は――テニス、ずっと――」
「自分の限界はわきまえているつもりだよ」
 ずっと見てた――これからも見ていたかったのに。でも滝が辞めるというのなら、ぼくが口を出せることじゃない。
「もう…」
 カタンと、滝が椅子から立ち上がる音がして――そして、ぼくの頬を優しい指が拭ってゆく。
「泣かないでよ、。そんな可愛い顔していると……つけ込むよ」
 閉じている目蓋にかかる柔らかい吐息――ぼくは身動きせずに、与えられた温かい感触を受け止めた。


































「優しい嘘」   ///滝萩之介 『優しい指』つづき



 目蓋に与えられた優しい感触は、ぼくの涙を拭うように何度も触れては離れていくのだけれど、一度溢れ始めてしまった涙をぼくは止めることができずにいて。
「困ったね。どうしたらは泣き止んでくれるのかな?」
 すぐ傍で、囁くように聞こえる滝の声は、戸惑っているのでも怒っているのでもなく、楽しんいるような雰囲気だった。そう、いつもと変わりなく。
 ぼくは首を振った。
 解らない――自分でも、どうしたらいいのか解らないんだ。この湧き上がってくる感情を。
「……でも」
 ようやく口から出たぼくの言葉は、上手く声にならない。
「ん?」
 滝の指が、優しくぼくの髪を撫でていく。ぼくは目を開けることができないまま、もう一度声をだした。
「なんでも、する……から、滝は、テニス――続けて……」
 滝の決めたことなら、ぼくが反対できることじゃない。そうと解っているのに、どうしても滝にテニスを辞めて欲しくないという感情が溢れて、止まらないんだ。ぼくにできることならなんでもする、だから――――
……まったく、どうしてキミはそんなに可愛いこと言うかな」
 滝が軽くため息をついたのが聞こえた。
「やっぱり、こんな可愛いをひとりにしておいたら悪い虫に攫われてしまいそうだから、テニス部には戻らずにずっとの傍にいたいんだけど……」
 伸びてきた滝の手がぼくの手から筆とパレットを取り上げ、机に置いてしまった。
「どうやらぼくはもっと悪い虫みたいだから、を手に入れされてもらおうかな」
 突然、肩を引き寄せられて、ぼくは滝の胸に顔を埋めていた。
「続けるよ、テニス。だから、恋人になってくれる、ぼくの?」
 背中に回された腕が心地良くぼくの身体を包んでいた。
…くん? あの絵を描いたの、キミなんだって?』
 文化祭に展示されていたぼくの絵を見たと、滝がぼくの前に現れてから。からかわれているのだろうと、気まぐれだろうと――いつか彼はぼくの前からいなくなるのだから、距離を置いた付き合いをしなくちゃいけないのだと思ってきたのに。もう、自分を抑えることができない。そのまま――滝の腕のなかで、ぼくは首を縦に振った。
「ありがとう……でも、こんなにまんまとつけ込まれちゃうなんて、心配だな」
 クスクスといつもの滝の笑い声が、ぼくの頭上で聞こえる。
「今日ね、テニス部の練習、休みなんだ――辞めてないよ」
 その言葉は、ぼくの耳元ではっきり聞こえたのだから、聞き間違いなんかじゃない。ゆっくりと顔をあげたぼくに、滝は至近距離で微笑んだ。
「ああ、ようやく泣き止んでくれたね」
 辞めない――滝はそう言った。滝はぼくに、嘘をついた?
「どうする、? ぼくと別れたくなった?」
 この先も、ぼくは滝に騙されるのかもしれない。でも――いい。滝がぼくのそばにいてくれるのなら。
 ぼくは滝の腕に支えられたまま、ゆるゆると首を振った。
「残念。別れたいって言ったら、別れたくないって言うまで身体に教え込む気だったんだけど」
 それってどういう意味なんだろうと考え込むヒマは、ぼくには与えられなかった。
「――なんて嘘。の恋人の座だけは、誰にも譲らないからね……覚悟が、必要だよ」
 ゆっくりとふさがれた唇から、ぼくのすべてが滝に囚われていく気がした。



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all re-updated 06/5/28