最終話  それは冷たい雨が白くなる日のこと




 ヒューズからロイのもとへ軍の回線を使った電話がかかってきたのは、その日の夕方のことだった。
『――俺も直接聞いたわけじゃないから事情はよく解らねぇけど、死んだ姉がアームストロング少佐と恋仲で、遺品を届けにきたとか、そんな感じだったぜ』
 が見つかった――だけでなく、がセントラルに行った理由、ペンダントを大事にしていた、もしかしたら病院を嫌がった理由も、それで説明がつくと、ヒューズの言葉を聞きながらロイは思った。
『――で、とにかく今晩はアームストロング家に泊まることになった。少佐が姉さんに貸してた部屋も見せるとか言ってたしな、しばらく滞在するんじゃないか』
「そうか、解った……」
『それだけか?』
「すまなかったな、ありがとう」
『いや、そうじゃなくてだな……ロイ、このままでいいのか? 会いたいんだろ?』
「ああ、だが……少佐のもとにいるのなら、安心だ」
 が選んだのは、ここを出ていくこと。あのアームストロング少佐の傍にいるのなら、はなんの不足もない生活を送れるはずだ。それを無理に自分のもとに引き戻すことは、にとっても、そしてロイにとってもいいことではないだろう。実際、戻ってきてくれと言って帰ってくるとも限らないのだし。
『お前がそれでいいなら、構わねぇけどな。ただ……』
 珍しく言いよどんだヒューズを、ロイは訝しく思いながら促した。
「なんだ?」
『お前、ヘマやったのと違うか? ロイのところに戻る気はないのかって直接聞いてみたんだが……悲しそうな顔してたぞ。自分がいるとお前の生活の邪魔になるからってな』
「邪魔? どうして? ケガをしているというのに家事もやってくれていたんだぞ。迷惑をかけられたのが厭だったのか?」
『おいおい、俺が知るわけないだろう。ああ……女、連れ込んだんじゃないのか? でなきゃ、お前のいないとき女が押しかけたとかな』
「まさか! わたしがそんなヘマするわけないだろうが。それに、ここに異動になってまだ二週間だぞ」
『二週間も一人寝できたのか?』
「おい……」
 額に青筋を浮かべて抗議しようとした瞬間、ロイは気づいた。あのが出て行く前の晩――あのとき、はなにか気づいたのではないだろうか。口紅の跡? 服の乱れ? いや、そんなことはなかったはずだし、それにあの暗闇で気づけるわけも――そうか、香りだ。もう顔も覚えていない相手だが、酒場でも長いこと密着してくどいたことは覚えている。
「ヒューズ、は……」
 悲しそうな顔をしていたというのは、いいように解釈をしてもいいのだろうか? それとも、本当はここでの生活を苦痛に思っていたのだろうか……
「――いや、助かった。ありがとう」
 言葉の続きを口にすることなく、ロイはそれで電話を終わらせた。
 こればかりは、ヒューズに聞いても仕方がない。大事なのはの気持ちと、そしてロイの気持ちなのだから。


 捜し人に出会えた二日後――は再びセントラル駅に来ていた。傍らにいるのは、巨体――軍服ではない、アームストロング少佐だった。
「本当に帰ってしまうのだな、殿。なにかあったらいつでも頼りにして――いや、なくとも構わない、いつでも顔を出すのだぞ。父上も母上も、キャスリンも、すっかり家族がひとり増えたと思っておる」
 連れて行かれたアームストロング家はの想像を超えたとても大きく立派な家で。まるで場違いだと思ったのに、彼はのことを両親に、亡くなった恋人の弟だと紹介した。そんな得体のしれない相手だというのに、両親、そして妹共に、とてもに優しくしてくれた。
 はアームストロング少佐の大きな身体を見上げて、ありがとうございますの意味を込めて頷いた。そして、感謝していることを伝えたくて、そっとアームストロングに手を伸ばして抱きついた。
 姉の住んでいたという別邸も見せてもらった。姉が一部残していったという研究で使っていた品の類が、そのまま保管されていて、は涙を零してしまった。
 どうせならセントラル見物も兼ねて、しばらく滞在していくといいといった少佐に、は申し訳ないと思いつつも、はっきりと明日帰りますと告げた。
 不満があったわけでは、もちろんなかった。が経験したことのない待遇で少々落ち着かないというのもあったが、それよりも、ここで過ごしたことで解ってしまった。がいたいのは――いれるものならいたいのは――ここではないということが。
 やがて発車を告げるベルがホームに鳴り響いた。がそれを聞きとることはできなかったが、アームストロング少佐の瞳から涙が溢れ出したことで、それを覚った。つられるようにの瞳も熱くなって、は何度も手の甲で零れ落ちる涙を拭った。
 そしてを乗せた列車は、ゆっくりとセントラル駅を離れた。その巨体が小さくなり、見えなくなるまで、もずっとホームを見ていた。聞こえないのも、言えないのも解っていたけれど、その姿には何度もありがとうと感謝の言葉を繰り返していた。
 セントラルの空を覆っていた雲は、東に行くほどに厚く暗くなっていくようで、しばらくするとしとしとと雨になって落ちてきた。雨粒が当たって外の景色を濁している窓を見つめながら、はぼんやりと思い出していた。昨日、姉の住んでいた部屋を見せてもらったあと、どこからともなく現れたヒューズに言われた言葉を。
『ロイにはお前さんが無事に見つかったことを伝えておいたぜ。ただ、かなり心配してたみたいだからな、もしイーストシティを通ることになったら、少し顔出すくらいの時間はつくってやってくれよ』
 ひとりになってしまったに行く当てはなく。とりあえずもといたダブりスに帰るつもりだった。でもその前に姉の墓前に、姉の大事な人に会えたことを報告したいとも思った。それならばイーストシティを通っていくのは、遠回りではなく順当なルートだ。それなら――そう、少し立ち寄ってお礼を言うくらいなら――ロイの邪魔にはならないだろうし、当然の礼儀かもしれない。
 勝手に出て行ったことを恩知らずと怒っていて会ってくれないかもしれないが――それなら、このまま会わずに通り過ぎることと同じなのだから、いまさら怖がる必要はない。
(ない――はず、だけど……)
 ロイと会えないのも嫌だと思う自分のわがままさに、は眉を顰めてため息をついた。
 雨が激しく降り出してきたせいか、車内は少し肌寒くなっていた。


 東方司令部の執務室で、ロイは薄暗いままの窓の外をじっと見つめていた。朝から降りはじめた雨は一向に止む様子はなく、時間の感覚をなくしている。 ヒューズから再び電話があったのは今日の昼のことだった。が一時間ほど前に、セントラル発イーストシティ行きの列車に乗ったとのこと。
(この天候からして、少し遅れるかもしれないな……)
 二週間ほど前、このイーストシティへ赴任してきた日のことを、ロイは思い出す。
『お前さんとこに顔出すように言っといたぜ――』
 ヒューズはそう言っていたが、は本当にそうするだろうか。それこそ駅で投函されたイーストシティ消印の手紙だけが届いたりするのではないだろうか。
 ロイの目の前に積み上げられた書類に手が伸ばされることすらなく。ロイはただ何度も時計と窓の外を見直していた。天候も時計も、ろくに変化しない。
「ええい、クソッ!」
 ようやく四時半を過ぎたところで、ロイは立ち上がった。執務室を飛び出すと、下士官のいる大部屋へと向かう。
「ホークアイ少尉! わたしは具合が悪くて早退だっ!」
 いきなり開けられた扉に、いきなり叫ばれた声。
「…って、元気いっぱいそう言われてもなぁ」
 そう呟きながらハボックが扉へと視線を向けたとき、すでにそこにロイの姿はなかった。
「たいそう具合が悪かったようですね」
 リザが怒ることなくそう言ったのは、ヒューズからの電話をロイに取り次いだのが彼女だったからかもしれない。
 拝借している軍用車を、ロイは雨のなかイーストシティ駅へと走らせた。五分もしないうちに辿り着いたロイは、すぐさまプラットホームへ向かう。二週間ほど前、自分が降り立った場所へ。
 そこにはもちろん列車の姿はなく、空の線路を見つめながら、ロイはただ静かにそこに立った。
 ロイのほかにも数人出迎えにきた人々がプラットホームに立っていた。けれどその喧騒よりも、雨音のほうがやけに耳についたのは、雨足が強くなってきたからだったのかもしれない。
 やがて列車は、到着予定時刻を十五分過ぎて、速度を落としてプラットホームへ進入してきた。ロイのいる場所へゆっくりと鉄の塊が近づいてくる。
 そして完全に停車した列車の扉が開くのを見つめながら、ロイは胸のポケットから手袋を取り出し、それを右手にはめた。
 じっと見据えていると、ロイの視界の五十メートルほど先で、捜していた金髪が揺れた。ロイはニヤリと口の端をあげ、その右手をゆっくりと掲げた。


 イーストシティに近づくにつれ、空は暗く、雨も激しくなっていくようで、の気持ちも晴れることはなかった。ようやく辿り着いた終点で、すっかり冷えてしまった身体を動かしてホームへ向かう。
 がホームへ降り立ったとき、それは起こった。
 ふわりと、の頬を優しい空気が撫でた。とても柔らかく心地良く。
 そしての髪を優しく持ち上げ、そのまま流れていってしまうはずの風は、再びの身体を取り巻いた。まるで柔らかく慈しむ小さな竜巻のように。
 驚いて、は風が吹いてきたと思われる方向へ顔を向けた。
 そこに、立っていたのは――――
 は動かなかった。動けなかった。
 やがてゆっくりと近づいてきた人物が、の前に立つ。
「お帰り、
 ロイは微笑むと、両手を広げた。
「『ただいま』は? してくれないのかい?」
 の手から鞄が滑り落ちて。
 その存在を確かめるように、はロイの背中に手を伸ばした。
 ギュッと抱きついてしまいたいのを堪えて、そっとロイの背中に触れた。が触れても消えてしまうことなく、ロイはそこにいた。
 どうして――という気持ちを込めて、は少しだけ身体を離してロイの瞳を見上げた。
「驚かせたか? 空気の密度を変えることで風を作ってみたんだが」
 ああ、そういえばロイさんは錬金術師だったんだ――ぼんやりと思いながらはあまり意識しないまま、首を左右に振っていた。
 確かに驚いてはいた――ロイがいたことに。けれどいまの、を包んだ風のことは…………
 以前にそんな風を感じたことはない。そんな経験はないはずなのに。
(ロイさんに、呼ばれた気がした――)
 ふわりと頬を撫でていった風は、まるでロイに触れられたときのようで。
 だからそのことに驚きはしなかったと告げたら嘘だと思われるのだろうか。
 がただロイを見つめているなか、ロイはゆっくりと話し始めた。
「きみのことは――悪いがヒューズから聞かせてもらったよ。きみの姉さんのこと、アームストロング少佐のこと……正直、きみは少佐と暮らすのかと思った」
 ロイの言葉に、は慌てて首を振ろうとしたのだが。
「ああ、きみがここにいるということは、そうじゃないんだな。それで? 真面目な話、これからどうするつもりなんだ?」
 はロイに掛けていたままだった両手を外し、ポケットからメモ帳を取り出した。
『姉の墓参りをすませてから、以前暮らしていたダブリスに帰ろうと思っています』
 記入し終わったところで、ロイの指がメモ帳の上をトンッと軽く叩いたので、はロイを見上げた。
「きみの考える未来に、わたしと暮らすという選択肢は入っていないのかな?」
 ロイの言葉に、は泣きたくなった。そうできたらどんなにいいか――でも、ロイが大事だからこそ、決めなければいけないこともある。
『ご迷惑を掛けるつもりは――』
 震えを抑えながら記入し始めたの手は、ロイの手に優しく握られることで阻まれた。
「いや、いて欲しいんだ。わたしは一人身だから家のことをやってもらえると助かるし、給料も出そう。一日かかる仕事ではないはずだから、空いた時間はきみの好きに使ってくれて構わない。唯一の条件は――一緒に住むこと。わたしと一緒にあの家で暮らすこと、だ」
 手を掴まれたことでロイを見上げたに、ロイはそう言った。
(どうして――)
 泣いてしまいそうになったは、くちびるを噛んでそれを堪えた。
『どうして、ぼくにそこまでよくしてくださるんですか?』
 ロイの手が離れていっても、まだ震えの止まらない手で、はそう記入した。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「そうだな、その答えはとても簡単で単純なのだが――わたしが教えるよりきみが自分で見つけないと意味がないな。わたしと一緒に暮らせば、そのうち解ると思うが」
 ロイの指がの頬を撫でた。それは、先ほど感じた風とまるで同じ感触で。
「どうだ、ん?」
 は両方の掌をギュッと握り締めて、震えを止まらせた。
『ぼくの存在が迷惑になったときは、すぐにそう言っていただけますか?』
「そんなことにはならないと思うが――いちおう、そう約束しておこう。君も、わたしのことが嫌になったり、気になることがあったら、我慢せずにすぐに教えること、いいな?」
 そんなことはないと思うけれどと思いながら、頷いた。
「決まりだな」
 ロイは落ちていたの荷物を拾い上げ、もう片方の手をの背に回すと歩くことを促した。


 駐車場へ向かうために駅を出ようとしたふたりの足が止まる。
 あれだけ激しく降っていた雨の音はいつのまにか消えていて、小さな白い雪へと変わっていた。まだ降り始めたばかりの雪は、濡れた地面に吸い込まれるように次々と消えていく。
「寒いと思ったら雪か――積もる前に帰らなくてはな。寒くないか、?」
 の肩を抱き寄せて、ロイは尋ねた。ロイを見上げたままコクリと頷いたの、下唇がうっすらと赤く染まっているのをロイは見て取った。先ほど俯いていたときに噛んでいたのだろう。にこれ以上傷をつけることなどしたくなかったのに――ロイが見つめている先で、ふと吹き込んだ風が雪を飛ばした。
 白い小さな結晶が、の紅いくちびるに吸い込まれるように消えたのを見たとき、ロイは素早くの肩を抱き寄せ、くちびるを重ねていた。
 冷たさを感じたのは触れ合った最初の、ほんの一瞬のことで、柔らかい接触はすぐに熱を上げた。
 深追いすることなく、ロイはくちびるを離して、を見つめた。驚いたままのに、ロイは告げる。
「すぐに嫌だと教えないと、いいことにするぞ」
 ロイの言葉に、の頬がうっすらと赤く染まる。はうろたえるように視線を逸らせたけれど、それは拒絶の意味とは取れない。ロイの左手はの鞄を持ったままで、右腕だけではが逃げ出せないほど強く拘束することはできていないのだから。
 その右腕もの身体から離すと、ロイはその右手をの頬にかけた。
「嫌だったら突き飛ばせ――」
 言いながらゆっくりと顔を近づけたロイの身体が突き飛ばされることはなく。
 ふたりのくちびるはもう一度優しく重なり合った。






*あとがき* 更新も進展も遅い話でしたが、頭のなかにあったイメージを大事に形にできたと思います。至らない点は多々あると思いますが、最後まで書き上げられたことがとにかく嬉しいです。そして読んでいただいて少しでも楽しんでいただけていたら、もう言うことはありません。ここまでお付き合いいただきありがとうございました!