澄み切った世界へ手を伸ばす 7
なにが起きたのか、すぐには理解できなかった。
突然流れ出した周囲の景色と、身体に感じる圧力。右に左にとハンドルを切られ、その度に身体が強い力に引っ張られて――反射的には座席にしがみついていた。 クリフがめちゃくちゃなスピードで、乱暴に車を走らせているのだと、揺さぶられながらようやく理解したが、だからといってにはどうしたらいいのか解らない。吹き飛ばされないようにしているだけで精一杯なのだ。 (やめて――!) 必死に顔を動かして、は運転席へ目を向ける。 クリフは、身体を前に乗り出すようにして、握ったハンドルをせわしなく動かしていた。その顔は正面だけしか見ていない。からは横顔が微かに見えるだけなのだが、その瞳はがいままでに見たことのないほど険しいものだった。 やめてと、もし声にすることができても、言えなかっただろう。 恐怖が――からすべてを奪っていた。 いままで一度も怖い目にあったことがないわけではない。 女の子を人質に取っている銃を持った男に向かって飛び出したときも、怖さはあった。 でもあのときは――姉を亡くしたあとで、自棄になっていたというのも変かもしれないが――自分の命よりも、泣いている小さな女の子を助けなければと思ったら、その怖さは押さえ込めた。 けれどいま、はなにもできなかった。ここから逃げたいと思うのに、どうしたらいいのか考えることすらできない。ただ座席にしがみついて、必死に堪えているだけ。 は全身で、死の恐怖を感じるだけの存在だった。 時間の感覚すら、もはやなく。 から見えるクリフは、手を止めることも振り向くこともなく、ただひたすら車を走らせている。揺さぶられながら見える同じ光景に、はもう、このままずっと同じ時間が続いていくような、そんな感覚に陥っていた。 ふと、の視界が捕らえたのは、小さな青色。 車が曲がるときに少しだけスピードが落ちた、その瞬間のこと。 それは、の記憶に直結した。 (ロイさん――ッ!) 混乱していた頭のなかで、は青い色から、軍服を着たロイの姿を思い出していた。 (ロイさん! ロイさん! ロイさん――ッ!) 心のなかで必死に繰り返す。声に出せたとしても、届くはずのないその名前を呼び続けることだけが、にできたことだった。 (このまま――もう二度とロイさんに会えないまま――) 視界が、じわりと歪んだ。 目蓋が熱い。 もう、限界だった。 の瞳から涙が溢れる。 (会いたい――ロイさん、帰りたい――ロイさん――) あとからあとから零れ落ちる涙を、座席にしがみついている両手では拭うこともできないままに、は泣き続けた。 やがて――曲がるたびに左右に振られる引力も、加速するたびにかかった圧力も、徐々に弱くなっていき――がくんと軽く前に押されるような衝撃のあと、車は街外れの空き地に停止していた。 「ごめん……、ごめん……こんなつもりは――泣かせるつもりは、なかった……」 クリフは頭を抱えるようにしてそう呟いたが、まだ身体を強張らせたまま泣き続けているには伝わるはずもなく。 が泣き止まず、なにも言ってこないことに、遅ればせながらには聞こえないのだということを思い出したクリフは、の頬へ手を伸ばした。 頬に生暖かいものが触れた瞬間、は反射的に座席を掴んでいた両腕を離して、できるだけ遠く――扉側へと身体を引いていた。 (出なきゃ――ここから、出なきゃ――!) クリフの手がハンドルから離れ、車は停止していると解った上での思考ではなく、本能的な衝動に近い。もし車が走っていたとしても、きっとは同じ行動に出ていただろう。このままここにいるのではなく、1%でもロイに会える可能性を選んで。 が手探りでノブを探し当て扉を押し開けたのと、が車外に出ようとしていると気づいたクリフがへと腕の伸ばしたのは同時だった。 「ッ!」 掴まれた感触に、体中が竦んだ。はもうクリフに、恐怖と嫌悪しか感じていなかった。 クリフを振り払うために、は全身で扉を押し開けた。 それはが思っていたよりも強い力で――勢いよく開いた扉に引き摺られるように、の身体は車外へと飛び出していた。 トラックはそれなりに車高があって、は頭から地面に落下してゆく――が目を瞑った、そのときだった。 一瞬の強い風が吹いた。 の身体を持ち上げるような強い風が。 それは本当に一瞬のことで、の身体はすぐに地面に落ちたのだが、軽く持ち上げられたことで頭からの落下は避けられ、強打したのは右肩から背中にかけてに変わっていた。 痛かった。体中をつき抜け、痺れるような痛みを感じてはいたが、はすぐに身体を起こそうとした。 少しでもここから離れること、そして――なにがどうして、なぜ、なんてもうどうだっていい――風を送ってくれた人が近くにいるのだ。がいまいちばん会いたい人が。 (ロイ、さん…………) なんとか起き上がったは、視界に入った青い軍服、黒いコート、黒髪で、そして白い手袋を嵌めた――なぜかひどく懐かしく思える姿に向かって、走り出した。 実際には、は身体を引き摺りながらようやく歩いている程度で、駆けてきたロイに抱きとめられたのだが。 ロイの腕のなかへ戻ることができたは、安堵から気を失った。 手を伸ばしてきたの細い身体を、ロイはしっかりと抱きとめた。 「なんで――なんでアンタがここにいるんだ!」 運転席から降りてきたクリフは、驚きと怒りが混ざったような大声をロイにたたきつけた。 「あちこちで物を倒しながら、ずいぶんと暴走してくれたらしいな。市民から通報が入ったんだよ。おかげで別件でこの近くにいた我々にも憲兵から協力要請が入ってね――まさか、君の車だとは思わなかったが」 クリフの質問に淡々と答えていたロイだったが、そこまで言ったあと、眼光鋭くクリフを睨みつけた。 「もう、を誘うのは止めてくれるか?」 その言葉は疑問系ではあったが、口調には有無を言わせない強さがあった。 「……泣かせるようなことをしたのは、悪かったと思ってる。けど――アンタに言われるのは腹が立つ。アンタは一体、のなんなんだ? 恋人じゃないんだろ!」 ロイの迫力に押されつつも反論したクリフに、ロイはあっさりと告げる。 「ああ、確かに恋人ではないが、わたしはを愛しているよ」 微笑みを浮かべながらそう答えたロイは、自分の腕のなかでぐったりと気を失っているの髪をいとおしそうに撫でた。 「な、んで……」 言葉に詰まったクリフの疑問を、ロイは正確に読み取った。 「なんでにそれを告げないかって? 待っているからだ。が彼の意思で、わたしを愛してくれるのをね。もちろん、その間に違う相手に惹かれてしまうこともあるかもしれないが、わたしはそれも受け入れるよ」 「どうして、そんな……」 「言ったろう? わたしは彼を愛しているんだ。だからこそ、彼の――の望みはすべて叶えてやりたいね」 ロイはそう言うと、梳いていたの髪の一房を指で掬って、そこに口づけを落とした。 そんなロイと、ロイに身を預けて安心して眠っているようにも見えるを前にして、クリフはもう自分がなにもできないことを覚った。 「俺の代わりに、に謝っておいてくれるか……? 俺は、もう会わないから」 「分った」 ロイに遅れること数分、その場にたどり着いたハボックと憲兵がクリフを取り囲む。抵抗することもなく、クリフは大人しくその手に手錠を掛けられて連行されていった。 「器物破損にスピード違反。あと誘拐未遂ってトコすかね?」 言いながら近づいてきたハボックに、ロイは「さあな」とだけ答えた。彼のことはもうどうでもいい。 「そんなことより、ハボック。運転を頼む。わたしは急病で直帰だ」 ロイは堂々とそう言い放つと、を抱き上げた。 気を失っていたが再び意識を取り戻したのは、車のなかだった。 もちろんここが車のなかだとが気づいたわけではなく。自分がもたれかかっている青い色が軍服だと、それが解っただけだった。 そしての背中を支えながら、髪に触れている優しく心地良い感触をずっと感じていた。それはの記憶にあるものと同じものだった。 (ロイ、さん……) ほとんど無意識のうちに、は手を伸ばして、頭を預けている青い軍服へと指を這わせた。これが夢ではないのだと確かめるように。 ふと、頬をそっと撫でられる感触があった。 たぶん額の近くで名前を呼ばれた――そう思ったのだが、は顔を上げることができなかった。もしかしたらこれは夢で、顔を上げた途端、ここにいるロイが消えてしまうような気が、どうしても拭えないのだ。 (離れたく、ない――) 逃すまいとするかのように、は触れていた軍服の襟元をぎゅっと握り締めていた。 怯えに反して、消えてしまうことも引き剥がされてしまうこともなく、はそのままの心地良さに浸っていたのだが、次第に意識がはっきりしてくるにつれて、いままでの――自分の身に起こった出来事を思い出された。 めちゃくちゃに連れ回され、このまま死ぬしかないのかと恐怖した。そんななかでが強く思ったのは、ロイのこと。ロイのところへ帰りたい、ロイの傍へ戻りたい――それだけを考えた。 (好き――) 目を閉じても、全身でロイという存在の大きさを感じる。 (ロイさんが、好きだ――) それは、泣きたくなるほどの思いだった。どうしていいか解らなくて、泣きたくなるほど。 もちろん先ほどの恐怖とは違う。けれどやはり、にはどうしたらいいのか解らなかった。 やがて車が軽く揺れ、完全に停止したことを知る。 ポンポンと肩を軽く叩かれたけれど、まだは顔を上げることができなかった。 もうここが現実だということは解っていた。顔を上げても、ロイは消えることなく確かにここに存在しているということも。 けれど今度は――どんな顔をしてロイを見ればいいのか、解らないのだ。 反応を返さないを、ロイがどう思ったのか解らない。 怒っただろうか、困っているのだろうか――そのとき急に、感じていた温もりがから離れてしまう。は慌てて追いかけようと手を伸ばした。それでもまだ顔を上げることはできず、は目を閉じてしまった。 伸ばしたの手は空を切ることはなく、ギュッと握られ、導かれるように引き上げられる。 掴んでいた手が離され、の手が置かれた場所を、は目を閉じたままだったが理解した。 『わたしの首に腕を回してもらえると抱えやすいのだが――』 初めてロイと会った日、あの病院のベッドで、負傷したを抱き上げて運んでくれたロイはそう言った。 あのときは、そこまでさせてしまって申し訳ないという気持ちしか――少しでも彼に負担をかけないようにとしか――思わずに手を伸ばしたが、いまは違う。 自分の手が導かれたのがロイの肩だと気づいたは、もう片方の手も伸ばして、ロイの首に腕を回す。 の意志だった。いまは少しでもロイの傍にいたい――ロイに、触れたい。 その思いが伝わったのかは解らない。けれど力強い腕は、しっかりとを抱き上げてくれた。 こうして何度、ロイに抱き上げてもらっただろう。 初めて会った日、再び会えた雪の日、そして――足を怪我した日も。 (この人が、好き――) とうとう、は泣き出してしまった。こんな気持ちは初めてなのだ。 室内へと入ったロイは、を抱いたまま、ソファへと腰を下ろした。 ロイの膝の上でも、はまだどうしたらよいのか解らず、その胸に顔を埋めて涙を零すばかりだった。 ゆっくりと、髪を撫でてくれる優しい手。 ロイの傍にいたい――それは解っているのに、そのためにはこの気持ちを打ち明けたほうがいいのか、それとも言わずにいるほうがいいのかが解らない。 (どうしよう、どうしたら――) 困惑するの額に触れた、優しい感触。それにも覚えがある。眠る前にときおり、からかうようにロイがくれた“おやすみのキス”だ。 いまは就寝前ではないけれど、の気持ちは次第に落ち着いていった。 少しだけ顔を上げることができたの目じりに残る涙を、ロイがキスで拭ってくれる。 は思わず、ロイの腕へと手を伸ばしてしがみついていた。そうすることでしか、いまの自分の気持ちを表現することができなかった。 ロイはなにも言わなかったが、その唇がゆっくりと近づいてきて、確かめるようにそっとの唇に触れて、そしてすぐに離れた。 は――自らの意志で、その唇を追いかけた。 それは、深いキスになった。 身体の温度が上がってゆくのを、ははっきりと自覚した。 ようやく唇が離れて、ためらいがちにがロイを見上げると、ロイの唇がはっきりと言葉を綴った。 「きみを、愛してる」 動けなかった。 嬉しくて、嬉しくて――でもこれが本当に現実なのか、自分の見ている夢だったりはしないのか――ロイを見上げながら、はギュッと軍服を掴む。 「――愛してるよ、」 もう一度、ロイの唇はその言葉を形作った。 本当なのだ。現実なのだ。ここにいていいのだ。 ロイの傍に――一緒にいて、いいのだ。 はロイを見つめたまま頷いた。自分も愛していると、あなたが大事だと伝えたくて。 紙に書くのももどかしく、ただ頷いただけだったのに、ロイはそれに気づいてくれた。 「もしが、わたしの気持ちを受け入れてくれるのなら、キスを――」 ロイは親指でそっとの唇を撫でた。 「――きみからのキスを、ねだってもいいかな?」 はもう一度頷いて、おそるおそるロイの頬へとその指先を伸ばして、触れる。 そしてゆっくりと顔を近づけて――ロイの唇に、自分の唇をそっと重ね合わせた。 その熱で、ロイへの気持ちを伝えるために。 *あとがき* 長くかかりましたが、ようやく恋人同士になれました。しかしこの後の本題(笑)、この日の夜のお話のほうは、隠しページへと続いてます。読みたい方だけ捜してください。 |