一瞬のめまいを残し狂気は消え去る
少年が持ってきた朝食は味のない粥一杯のみで、お世辞にも美味いと言えるものではなかった。だがその温かさはの心を満たした。
「お前はここの住人ではないだろう」 食事を終え少年がテントから出て行くと、スカーがおもむろに呟いた。は頷いてみせる。 「なぜここにいる?」 その質問に、はスカーの手に一文字ずつ書き込んで答えた。 『荷物を盗られたんです』 「旅行者か? 帰る場所がないのか?」 は首を振ってから文字を綴る。 『大事なものを取り戻さないと』 「大事なもの? 金――ではないんだろうな」 さすがにスカーも、のことをそこまで世間知らずとは思わなかったようだ。小銭にしろ大金にしろ、金が盗まれたのなら戻ってくることはないだろう。 残念ながら、いまはそういう世の中なのだ。中心部を外れてしまえば、イーストシティの治安はいいとは言えない。戦争が終わって落ち着きを取り戻しつつあるはずなのに、貧富の差はますます広がっている。その最たる場所がここだ。 (ロイさんはきっと、気づいてる) でさえ、うすうす感じているのだ。戦争は終わったはずなのに、軍人は一向に減らない。それどころか、軍の勢力は増している。 増大する軍に優先的に物資が回されるため、市場に出回る品々の値段は徐々にだが上がり続けている。 軍人が必要のない世界をつくるために軍にいるんだと、ロイから初めて聞いたときは驚いた。若くして大佐にまで昇進したロイが、そんなことを考えていたなんて。 だが、改めて考えてみれば、それはとても自然なことだ。 軍隊のない、争いのない、平和な世界。みなそれを願っているはずだ。 なのにただの市民のですら、軍のない世界を想像したことはなかった。 軍人はひとつの職業で、街中に軍人がいるのが普通だと思っていた。 そんなふうに思っていたのはだけではないだろう。きっとこの国の多くの人々がそう思っているはずだ。 ロイはきっと気づいている。この国が間違った方向に進んでいることを。 (ロイ、さん……、ロイさん……) はなにかの呪文のように、心のなかでその名を繰り返していた。 『この手で――大勢殺したよ。ヤツの復讐には、正当性がある……』 スカーのことを話してくれたとき、ロイはそう言った。スカーはイシュヴァールの民なのだからと。 こうして目の前にしたスカーは、ロイよりも身体は大きい。その上、国家錬金術師と対等に戦える――いや、殺すことができるほどの力を持っているのだ。 など、さきほど簡単に掴まれてしまったようにあっさりと殺されてしまうだろう。 でも、それでも――…… 老人と、自分がここに来たこと、ここで会った人のことを話さないという約束はした。だが、自分が彼を知っていることを本人に明かさないという約束はしていない。 は勇気を振り絞って、スカーの手に文字を綴った。ゆっくりと一文字ずつ。 『なぜ、国家錬金術師を殺すんですか?』 その言葉を読みとったスカーの雰囲気が、一瞬にして変わる。 「お前……、俺を知っているのか?」 燃えるような瞳で睨まれ、は身動きひとつできずにいた。スカーから視線を逸らすことすらできない。 「軍に知らせる気か?」 その問いに、は必死で答えようとする。ようやくわずかに首を振ることができた。 スカーは真っ直ぐにを睨み付けていたが、やがてその口を静かに開いた。 「イシュヴァールのことは知っているのか?」 スカーは、に敵意がないことが覚ったようだった。かなりの怪我を負ってはいても、など彼の相手にはならないことも解るのだろう。 震える指先では答える。 『聞いた、少し』 文章にする余裕はなく、にできたのは最小限の単語を綴ることだけだった。 「大勢殺された。男も女も、子どもも老人も、俺の……家族も。国家錬金術師とは、単なる殺戮者だ。この世にあってはならない存在だ」 にはスカーの声は聞こえない。けれど彼の口の動き、瞳、その全身から、彼の怒りが伝わってくる。の身体はそうとは気づかないまま震えていた。 (ロイさん、ロイさん――……) その名を心のなかで繰り返しながら、はゆっくりと首を左右に振る。 は指先の震えを必死で抑えながら、スカーの手のひらに一文字ずつ書き始めた。 『ぼくの、大事な人、国家錬金術師』 そう書いた途端、目の前のスカーから空気の震えが伝わってきた。紛れもない怒り。それでもは指を止めずにかき続けた。 『その人が、言った。あなたの復讐は正当だと』 そこまで書くと明らかにスカーの雰囲気が変わった。顔を上げてスカーを見ると、驚いたようにを見返していた。 は深呼吸をして気を落ち着かせると、再び文字を綴り始める。 『彼はぼくにイシュヴァールのことを話してくれました。人をたくさん殺したと言っていました』 実際にその場にいたであろうスカーに、それを語るのは辛いことだった。だが、避けることのできない話だ。 『でも、彼が望んでしたことではありません』 そう書くと、スカーは手のひらをギュッと握った。 が顔を上げると、彼の怒りを表しているようなギラギラとした赤い瞳がを射貫いた。 「なぜ解る? 奴らは自分たちの力を試すように、民を殺した。楽しんで殺していた」 実際にその現場を見ていないには、それがどんなに悲惨な光景だったのかは解らない。だがそれを語るスカーの苦しみが伝わってくるようで、の胸も締め付けられる。 涙のにじむ瞳でスカーを見つめながら、は首を振った。そしてスカーの手を取ると書き始める。 『ぼくの大事な人は、教えてくれました。彼が軍にいるのは、軍を無くすためだと』 軍のない平和な世界。それはスカーが望むものと同じものではないのだろうか。 スカーとロイは、解り合えるのではないだろうか。一縷の望みをかけて、はスカーを見上げた。 その思いがスカーに伝わったのかどうかは解らない。だがスカーはを見て眉をしかめた。 「いまはそういう考えかもしれない。だが人は変わる。権力を握ればなおのこと」 ロイはそんな人間じゃないと伝えようとその手に触れたが、スカーの言葉はなおも続いた。 「強大な力を持った人間は、存在してはいけないんだ」 スカーの腕にグッと力が込められたのを、は触れていた指先から感じとった。 その言葉には彼の覚悟が込められている。 もし国家錬金術師をすべて殺したら、その力を持つ自分のことも自ら抹殺する気なのだろう。 大事な人を失う哀しみなら、姉を失ったにも理解できる。だが家族や同胞を理不尽に殺されてしまった彼の苦しみを理解することはできない。 もし、万が一。 彼のこの手によって、ロイが殺されてしまうなどということになったとしたら。 しかし、もしそんなことになったとしても、の抱える苦しみは、彼と同じものにはならないだろう。 彼の抱える哀しみや苦しみは、彼だけのものだ。 けれど、そのために彼が選ぶ道は、本当にこれしかないのだろうか。 は彼の右腕をじっと見つめた。 入れ墨の施された彼の腕には、新しい傷だけでなく古い傷の跡がしっかりと刻まれている。彼の苦しみ、一生消えることのない傷跡だ。 けれど、それはあまりにも哀しすぎる。 はそっと彼の手のひらに触れ、その指先を動かした。 『殺すこと以外に、あなたの望みはないのですか?』 最後の文字を書いたあと、はゆっくりと顔を上げてスカーを見つめた。 その紅い瞳に、もう恐怖は感じない。 綺麗な色だと思った。とても哀しくて、綺麗だと。 「お前……」 スカーのその瞳が、苦しげに歪められる。そのときだった。 「!」 呼ばれた名に気づくことはできなかったが、押し開けられた布の間からテントに入り込んできた光に気づき、は振り返る。 そこに立っていたのは笑顔の少年だった。 「ほら、見つかったよ」 少年が手にしていたのは、の鞄。 差し出された鞄を受け取って、中を見る。 そこに入っていたのは、大事なノート。 は恐る恐るそれを取り出す。ぱらぱらとページを捲ると、それは確かにのノートだった。 『ロイ・マスタングは将来・の店で働くことをここに誓う』 ロイによって書かれたその約束の文字に触れる。再会できた喜びに、は涙を溢れさせた。 「? 大丈夫?」 少年の慌てている様子に気づき、は顔を上げる。ノートをギュッと抱きしめ、涙を脱ぐうと、は少年に向かって何度も頭を下げた。 「見つけてきたのは俺じゃなくて、じいちゃんなんだけどね」 照れたようにそう言いながらも、見つかってよかったなと少年は笑う。 もう一度鞄の中を見てみると、財布はなくなっていたが、ペンと家の鍵は入っていた。これなら軍に連絡しなくても家に帰れるだろう。 「じゃあ、。途中まで送っていくよ」 少年がそう言ってテントを出る。 大事なノートは取り戻せたのだから、がもうここにいる理由はない。ないのだが。 は振り返ってスカーを見つめた。 「帰るがいい。ここは、おまえのいる場所ではない」 その言葉も態度も、スカーはを拒絶していて、これ以上話すことはできなそうだった。 だが、思い出したというように、スカーはもう一度口を開いた。 「最後に聞こう。お前の大事な国家錬金術師の二つ名は?」 は急いで鞄からノートとペンを取り出し、真っ白なページにそれを書いた。 『焔です』 「なぜそう簡単に教える? それは嘘か」 ノートを見たスカーの問いに、は再び記入する。 『いいえ、真実です。焔の錬金術師、ロイ・マスタング。彼がぼくの大事な人です』 「今回のことを恩に感じ、俺が見逃すと思うのか?」 は首を振って、再びノートに視線を落とす。 ロイの名前を出すことに、迷いはなかった。スカーに知って欲しかった。ロイのことを、ロイが目指しているもののことを。 『彼は軍人です。軍があなたを追っている以上、彼はあなたと戦おうとするでしょう』 にそれを止める術はない。 『でも本当は、戦って欲しくありません。彼にも、あなたにも』 それは、スカーとロイが戦うということだけでなく、ふたりに、これ以上誰かと戦って欲しくないという意味だった。それが無理とは解っていたが。 『あなたは、もっと幸せになっていい方だと――』 思いますと書こうとしたのノートのページは、スカーの手によってクシャリとつぶされてしまう。 がここにいたことすら消すように、そのページは破り取られ捨てられた。 すでにスカーはから視線を逸らしている。もうこれ以上、彼に思いを伝える手段をは持たない。 の唇が震える。 口は開くものの、そこから声が出ることはなかった。 は唇を閉じ、ノートをしまう。 これ以上、ここにいても、スカーを怒らせてしまうだけだろう。 「おい」 テントを出ようとしたは、その腕を掴まれた。 振り返ると、スカーが真剣な眼差しでを見つめていた。 そこに怒りは感じられず、は座り直すと、スカーの次の行動を待った。 の手を掴んでいたスカーの右腕が、そっとの頬に伸ばされる。 硬く太い指先がの頬を伝い、ゆっくりと上がっていく。そして髪に隠れていたの耳へとたどり着いた。 スカーがなにをしているのかには解らなかった。 けれど恐怖は感じない。はスカーのするに任せた。 それは、決して長い時間ではなかったはずだ。 突然、の耳の奥で、パチンとなにかが弾けるような衝撃があった。 それは軽いめまいをもたらし、は両手をついて自分の身体を支える。 感じた左指の痛みに、は思わず顔を顰めた。 「、どうしたの?」 入り口にかけられた布が上げられ、入ってきた光には瞬きを繰り返す。 顔を上げると、すでにめまいは消え去っていた。 (彼は、なにを――……?) スカーはに触れて、なにかしたような気がする。 だが身体の異変はもう感じられない。怪我をしている左指がずきずきと痛むくらいだが、これは元からあった傷だ。 はスカーを見たが、彼は再びから視線を逸らし、を拒絶していた。 「? どうかしたの、帰るんでしょ?」 少年にそう問いかけられ、は頷く。 もうがここでできることはなにもない。 荷物を持って、はゆっくりと立ち上がる。 テントを出たあともう一度だけは振り返ったが、入り口の幕はすでに降りていて、その中にいるはずのスカーを見ることはもうできなかった。 *あとがき* 長く続いてしまいましたが、とりあえずこれでスカー編(?)は終了です。これを考えたときはまさかスカーがロイの復讐心を諫めるとは思ってなくて、本編見たときにすごく嬉しかったです。 |