第十話 ヒカリ




 まさかこんな未来が待っているとは、予想もしていなかった。
「……俺って、ホントに女運悪い……」
 ひとりきりになった病室で、ハボックは自分の動かない下半身を見下ろしながらそう呟いた。
「いや、悪いってレベルじゃねぇか……」
 動かないのは下半身だけではない。上半身ですら、支えてもらえなければ自力で起き上がることもできないのだから。
 上司と一緒に作戦に参加したことに、後悔はない。けれど自分の下半身がもう動かないのだと解ったときの絶望は、どうすることもできなかった。
 未来がない――そう思った。
 こんな身体になってしまった自分には、なにもない。なにもできない。
 取り立てて強い志を持って軍に入ったわけではなかった。けれどロイと出会って――最初はどうしようもない上司だと思っていたのに――彼の理想に触れ、役に立ちたいと、自分もこの国の変革の一角を担うのだと、そう決めていたのに。
 いっそ死んでしまえば良かったのだと思った。そうすれば簡単に諦めがついた。
 未練を断ち切ろうと必死で、退役の手続きまでとったハボックを、ロイは見捨ててはくれなかった。
『置いていくから、追いついてこい。わたしは先にいく。上で待っているぞ』
 その強い言葉は、ハボックの心に一生刻まれることだろう。
『おめえに隠居生活なんて似合わねぇよ!』
 激しい思いを圧し殺していた、ブレダの背中も。
「……その分、男運に恵まれてるってことか? 笑えねぇな」
 呟いて目を閉じたハボックの脳裏に浮かんだのは、ハボックを見つめる蒼い瞳。
 優しい笑顔に、頼りなげに俯く表情、頬を染めて慌てふためく顔に、次から次へと涙がこぼれ落ちる泣き顔。そして再び、抱きしめてしまいそうになる、あの優しい笑顔――――
……。ああ、確かに、男運には恵まれてるよな」
 薄く笑みを浮かべながら、ハボックはゆっくりと手を伸ばす。
 そしてベッドの上に投げ出されるように置いてある、ブレダからの見舞いの品を掴んだ。
 右手、そして左手――握りしめる手は、動きはするが、やはりいままでの自分の感覚とは違っていた。
(でも――戻してみせる)
 ハボックは何度も、自由になる両手を動かし始めた。
「入るわよ、ジャン――ちょっと、なにやってんの?」
 病室に入ってきた母親が、驚きの声をあげる。
「筋トレ。ダチにゃ、お前に隠居は似合わねぇって言われて、上司にゃとっとと登ってこいって言われて……、じっとしてらんねーじゃねぇか」
 気力を取り戻した息子を安堵の眼差しで見つめながら、母親は返す。
「リハビリ、相当きついってお医者様、言ってたわよ」
「耐えてみせるさ。みんな待ってるから――みんなのおかげで耐えられる」
 息子の強い言葉を聞いて、母親は思い出したように尋ねた。
「みんなって――もしかして、ジャン。あなた、お付き合いしている女性、いるの?」
「なんでそうなるんだよ、母さん」
 突然の母親の言葉に拍子抜けして、ハボックは言い返した。それこそ、思い出したくない記憶なのに。
「残念ながら、そんな相手はいねぇよ」
 吐き捨てるように言ったハボックに、母親は首を傾げる。
「あら、じゃあ誰だったのかしら。さっきこの病室の前で立ち尽くしてる方がいたのよ。息子の見舞いでしたらどうぞって声を掛けたら、慌てたように去ってしまったから、てっきり……じゃあ、あなたに片思いしてる人かしら?」
 妙にウキウキとした様子で話す母親とは反対に、ハボックの心は急に冷えていく。まさか、いまごろになって敵が、自分を殺しに来たのだろうか。
「それって、どんな感じのヤツだった?」
 周囲を警戒するように低い声で尋ねるハボックの様子に気づくこともなく、母親は楽しそうに答える。
「綺麗な人だったわよー。肩くらいまでの真っ直ぐな茶色い髪で、色がとても白くてほっそりしていて、瞳は確か、蒼だったかしら――」
 ハボックは両手で必死に自分の身体を起こして、叫んでいた。
「お袋! その人、いますぐ捜してきてくれ!」


(どうして……、逃げ出してしまうなんて――……)
 病院の建物から出たところで、は足を止めた。
『息子の見舞いでしたら、どうぞなかに入って――』
 病室の前で婦人に声を掛けられた途端、どうしていいのか解らなくなり、そのまま駆けだしてきてしまった。
 病院の中庭では、数人の子供が遊んでいた。パジャマを着たままボールをゆっくりと転がしている彼らは、明らかに入院患者だろうに、とても楽しそうに笑っていて、その笑顔が少しだけを落ち着かせた。
 はゆっくりと歩き始め、彼らが見えるベンチに腰を下ろした。
 第三研究所――大総統府直轄の錬金術研究所で起こった襲撃事件のことは、一般市民に知れる事件として公表はされなかった。
 ひとり南方司令部に戻り、日々の軍務をこなしながら、セントラルに呼び戻されるのを待っていたが、その事件のことを知ったのは、偶然に近い。
『ほら、あの焔の錬金術師の大佐、殺人犯を追いかけてて火傷したらしいぜ。焔が聞いて呆れるよな』
 若くして出世したロイを妬む者が多いのは知っていた。こんなふうに移動中に陰口を聞いてしまったことも、実は初めてではない。
 南方ではなかなかセントラルの情勢がすぐに聞こえてくることはないのだが、悪い噂ほど早く広がるというのは本当のことらしい。
 今回ばかりはそれに感謝しながら、は中央司令部へ電話をして詳細を教えてもらおうとしたのだが、ロイは入院中、リザは不在という解答しかもらえなかった。
 電話をして欲しいというリザへの伝言が通じ、リザから連絡があったのは、その日の夜のことだった。
 ロイと――そして、ハボックの負傷を聞いたは、そのまま部屋を飛び出していた。
 セントラル行きの列車はもう終わっていて、相乗り馬車や、通りかかった人の車に乗せてもらったり、歩いたりもしながら、ようやくセントラルの、ハボックが入院しているとリザに聞いた病院にたどり着いたのは、昼前だった。
 看護師に聞いて、病室の前まで来たのに、はその扉に手を伸ばすことができずにいた。
 ハボックのことが心配で、夢中でここまで来てしまったが、が来たからといって、できることはなにもない。
 ハボックにとって、はただの友人だ。友人が友人を見舞うのはなんらおかしい話ではない。
 でも、だからといって、ハボックがいま、に会いたいかどうかは解らない。
 ハボックの脊髄損傷の話は聞いた。下半身が動かせないこと、機械鎧化も難しいことも。
 できることがあるなら、なんでもしたい、傍にいたいと思う。けれどきっと、ハボックが傍にいてほしいのはではない――彼の彼女だろう。
 そんなことを考えながら扉の前に立ち尽くしていたとき、婦人に声を掛けられ、そのまま逃げ出してしまった。
(見舞い……だなんて、花すら持ってないのに……)
 コートのポケットに入っていた僅かな紙幣は、ここに来るまでに花一本も買えないような小銭になりはてていた。
 錬金術師の証である銀時計も持ち合わせていない。
 そういえば、軍も無断で欠勤してしまった。
(なにをやってるんでしょう、わたしは……)
 後先を考えない自分の行動に呆れてしまう。その上、結局なにもできないのだし。
(帰ろう……)
 そう思い立ち上がったものの、の足は動かなかった。
 自分が帰るべき場所が、解らない。
(帰るって、どこへ……)
 この世界に、の帰る場所、帰りたいと思う場所は、どこにもない。
 聞こえていた子供たちの笑い声が、遠ざかっていく。
 目の前の景色が、急速に色褪せていく。
 すべてを失いかけていたを呼び戻したのは、女性の声だった。
さん! あなた、さんでしょう! よかった、ようやく見つけた――」
 反射的に視線を動かした、その先にいる婦人に、見覚えはない。
「息子に――ジャンに、会ってくださらないかしら? 扉の前にあなたが立っていたことを話したら、すぐに捜して連れてきてくれって。ご存じかもしれないけど、あの子、動けなくなってしまって」
 ジャン――その名前は、ひどくの心を揺さぶった。
「店番くらいしてやるから面倒見てくれよなんて、明るく振る舞ってたけど、やっぱり身体のことは相当ショックだったと思うの。親としては、生きていてくれただけで、よかったと思ってしまうのだけど」
「……わたしも」
 口を開いて微かな声を絞り出したの瞳から、涙が溢れる。
「わたしも、そう思います……」
 なにを忘れていたのだろう。
 ハボックは生きて、この世に存在している。
 たとえ彼に必要とされなくても、彼のためにできることがなくても、終わりじゃない。
 この国を脅かすなにかに、ヒューズは殺された。
 だとしたらそれを解明して、この国をより住みやすくすることも、きっとハボックのために繋がるはずだ。
「ジャンが生きていて、よかった……」
 思わず呟いていたの言葉に、ハボックの母親が涙をにじませる。
「あの子ね、初めて弱音を吐いたのよ。『どうしてこんなときに俺の足は動かないんだ! あいつをひとりにしたくないのに』って。ジャンのあんな必死な姿、初めてよ。きっとあなたの前でなら、本音が出せるんだと思うわ」
「そ…んな……」
 本当にハボックがそんなことを言ってくれたのだろうか。
 あいつをひとりにしたくない――そんなふうに、のことを思ってくれているのだろうか。
 だとしたら、の抱えている思いも、無駄ではないのかもしれない。
「ね、だから会ってやって」
 ハボックの母親に腕を引かれ、は歩き出した。


 ごゆっくりどうぞと、ハボックの母親に押し込まれるように病室に入ったは、ベッドの上に上半身を起こしているハボックの姿を見た途端、再び涙を溢れさせた。
「ああ、やっぱり。また泣いてた」
 そんなを茶化すように、ハボックは明るく言う。
「申し訳ないんスけど、ここまで来てくれませんかね? 俺はこのベッドから降りることすらできないんで」
「ジャン!」
 そんな冗談を非難するように彼の名を呼んで、はハボックのベッドに駆け寄り、思わず彼の首に腕を回して抱きついていた。
 すかさず、の背中にも覚えのある暖かな腕が回される。
「よかった――ずっと、こんなふうにアンタを抱きしめたいと思ってたよ。世間体とか常識とか、ヒューズ中佐を思うアンタの気持ちとか、そんなもん全部飛び越えて、俺の腕で抱きしめられたらって。この腕はまだ動いてくれて、よかった」
「バカ!」
 顔を上げたの口から飛び出したのは、およそ彼らしくない罵倒。
「あなたの腕が動かないのなら、その分わたしが抱きしめます! 生きていて――ジャンが生きていて、よかった……」
 最後のほうはしゃくり上げていて、ほとんど言葉にならない。
 けれどだからこそ、それがの本心なのだと、ハボックに伝わる。
 震えている細い背中を、そしてそのまっすぐな髪を、ハボックはゆっくりと撫でた。
「ホント、生きててよかったよ。の口から、そんな大胆な告白が聞けるなんてなぁ」
 それを聞いたは、泣きながら言葉にならない声を漏らして、ハボックの胸を叩いた。
「イテテ。俺、腹もケガしてるんだけど」
 大げさに痛がってみせると、が慌てて身体を起こす。
「ご、ごめんなさい!」
 心配そうにハボックを見下ろす彼の涙は、驚きで引っ込んだようだ。
 自分のために泣いてくれるのなら、その涙も嬉しいと思う。
 けれどやはり、いちばん好きなのは、の笑顔だ。
 だから誰よりも近くで、その優しい微笑みを独占したい。
「手は、怪我してねぇよ」
 ハボックはの前に手を差し伸べる。
 一瞬、驚いた表情を見せたは、その意味に気づいて微笑むと、そっとハボックの手に自分の手を重ねた。
 その手をギュッと握りしめてを引き寄せると、ハボックは再び口を開く。
「唇も――」
 怪我はないと誘おうとしたハボックの眼前で、優しく微笑んだが、素早くハボックのキスを奪った。
「怪我はないようですね?」
 冗談めかしてそう言うの頬は、真っ赤に染まっていて。
(まったく、こんな可愛い人には会ったことないな――)
 ハボックは両腕が自由に動かせることに感謝しながら、の身体を引き寄せ、深く唇を重ねた。

 ふたりの前に立ちはだかる未来は決して明るいものではないだろう。
 でも、困難は乗り越えてゆける。
 互いを愛しく思う、その微笑みさえあれば。




*あとがき* 主人公が錬金術を使うこともなくお話が終わってしまいましたが、恋愛をメインに書きたかったので、これはこれでイメージしたお話がちゃんと書けたと思います。ふたりはこのあとそれぞれの道をいき、すべてが終わってから、一緒に暮らすといいなと思います。