「あーしーわーらー」
 なだめるように、オレは芦原の名前を呼ぶ。
「な〜に〜?」
 その返事は、オレの耳元で聞こえる。
「そろそろ、離してくれないか…?」
「やーだ! だって、離したら帰っちゃうんだろ〜?」
「それは……だから、冴木が……」
「じゃあ離さない〜」
 言ったと思うと、オレにまわされている腕にますます力が込められた。
「芦原〜」
 さっきから何度もなだめすかしているのに、一向に離してくれる気配がない。まずい、まずいよ……この状態で冴木が来たら、どうしたらいいんだー?
 そのとき、チャイムじゃなく、コンコンという控え目なノックの音が――――
 さ、冴木だ――!
「芦原! 冴木が来た!」
「だから〜?」
「だから、じゃなくて! ほら、帰らないから! オレも一緒にいるから、な? だから離してくれ!」
「やーだー」
 ああ、もう! すっかりできあがってるよ! いつの間にこんなに飲んでたんだ!
 この事態を打開できそうな策がひとつだけないこともない。でも、それは――できることなら一生やりたくない。
 コンコン――と、もう一度小さいノックの音がする。
「あ……いま、開けるから!」
 一刻の猶予もない。少しだけ声を上げて扉に向かって叫んで、オレは意を決して少しだけ自由になる顔を振り返らせ告げた。
「芦原――離さないとキスするぞ」
 オレの言葉は伝わったらしい。芦原はきょとんとした目でオレを見返していた。そして次はオレを突き飛ばすか殴る――そしたら避けてやる――はず、と思ったのに、のに――――!
「うん、。しよっか」
 …………へ?
「わっ!! わぁ〜!!」



[all or nothing 5]



 数分後――いや、すぐだから、一、二分後のことだったと思う――芦原の部屋の扉を、オレはへろへろになりながら開けた。
「……すまん、待たせた」
「あの…さん? なにがあったんですか?」
「聞かないでくれ」
 即座にオレは本心からそう答えたが、怪訝そうに眉を顰めた冴木に、それだけではすまないと知る。
「ええっとな、スマン。芦原が――すでにかなり酔っ払ってる」
 オレは身体を少しずらして、冴木に部屋の中を見せる。そこには床にうつ伏せたまま――倒れたといってもいい――気持ちよさそうに寝ている芦原の姿がある。
 先ほど……思惑を外して芦原に圧し掛かられた身となったオレは、ふたり分の体重を支えきれず床に倒れたのだったが、そのとき芦原はすでに帰らぬ人と――じゃなかった、眠りこけていやがったのだ、オレ様の上で。
 力を振り絞ってそこから這いずり出て、ようやく扉を開けたのだ。
「酔っ払っているというか、寝てますよね。気持ちよさそうに」
 ああ、冴木。お前は冷静だな。
「……スマン。お前らはもうちょっと話し合ったほうがいいと思ったんだが――ちょっと目を離した隙に、芦原のヤツ、ひとりで飲み始めてて、このザマだ――っと。とにかく上がれよ。オレが言うのも変だがな」
「あ、はい……」
 たぶんお互いに妙な違和感を感じながら、冴木が部屋へと上がってくる。
「あ、あの、これ――土産と言うか、差し入れというか」
 冴木が差し出したのはコンビニの袋で、なかには缶ビールが数本と、柿ピーやらポッキーやらが入っていた。
「ああ、サンキュ――って、オレが受け取っていいのか?」
「受け取り手があの状態ですから……」
 チラリと冴木は床に突っ伏したまま寝ている芦原に視線を走らせる。
「だよな」
 納得して受け取ると、オレは部屋の奥へ戻り、寝ている主の横のテーブルに、ドカリとその差し入れを置いた。音に目を覚ましてくれたほうが嬉しいのだが、その気配はまるでなかった。
「仕方ない――飲むか?」
「ですね」
 冴木が斜め向いに来て腰をおろす。オレはビニール袋からまだ充分冷えたままの缶ビールを取り出し、冴木に一本渡してから、自分も一本取ると、プルタブを引いた。
「いただきます」
 冴木に一言断ってから口をつけると、冴木が笑う。
さんて、そういうとこ律儀ですよね」
「親しき仲にも礼儀あり、だ。コイツにはないがな」
「ですよね……」
 まさか冴木と、寝こけている芦原の背中を肴に飲むハメになろうとは。
「ですよねって、冴木……お前、一体この男のどこがいいワケ?」
「どこって――」
「いや、やっぱいい。聞きたくない」
さん……」
「お前らの問題だ。オレには関係ない。関係ないからな!」
 言い捨てて、オレは缶を煽る。
 気にならないと言ったら嘘になる。けれどそれ以上に、知るのが怖い。
「……さんは、芦原さんのことどう思ってるんですか?」
 うわぁ、なんでそんな定番な質問をされなきゃいけないんだ? このオレが!
「どうって――手は掛かるが、友達だ」
 恋愛感情なんかコレっぽっちもないと付け加えるのは、あまりにも気持ち悪すぎてできなかった。
「……手は掛かるって、ヒドイなー……」
 呟いたのは、オレでも冴木でもなく。
「芦原さん?」
「芦原? 起きてるのか?」
 オレの問いに、芦原はムクリと上半身を起した。
「最初から起きてるよー。起き上がるのが面倒だったから横になってただけー」
 コドモの言い訳かと突っ込みたくなるような答えだったが、まだ、芦原の目は据わってる。ありありと酔っ払ってる証拠を見せているヤツに、なにを言っても無駄だ。
「はいはい――ほら」
 オレは冴木が持ってきた缶ビールを差し出す。
「冴木の差し入れ。それとも水でも飲むか?」
「……ム。酔ってないもーん」
 芦原はひったくるようにオレの手から缶を取り、そしてすぐに押し付けるように戻す。
「開けて」
「相変わらず爪ないのな」
「キレイにしてるんだよーだ」
 オレだってちゃんと切ってるんだから、プルタブに引っ掛けられないのは芦原が不器用なせいだと思うが、それを言うと不機嫌になるからやめておく。いや、不器用というより、面倒くさがりというか。オレは受け取った缶を開けると、芦原に差出し――差出して――ちょっと待て。右側から突き刺さるような視線が。
「さーえーきー。コレは普通だろ? 友達として普通の行為だろう?」
「でも、オレのときは開けてくれませんでしたよね?」
「お前は『開けろ』なんて言わなかったじゃないか!」
「そうですけど……」
「けど、なんだ? オレはお前のそーゆーはっきりしないところが嫌いなんだ〜!」
「ダメだよ、〜。それが冴木くんなんだから」
 芦原が缶をグイッと傾けながら続ける。
「ほんと、冴木くんてなに言ってるか分からないよね〜」
 あ、冴木、撃沈された…………
 ま、オレから言わせてもらえば、芦原も充分、言ってること分からないけどな。
 とりあえずここは、こんな感じで円満に収めさせてもらおう。
「ほらほら、冴木。オレが柿ピーの袋開けてやるから、拗ねるな」
「別に拗ねてるわけじゃ……」
 またブツブツ言ってる冴木を放って、オレは柿ピーの袋を開けて、冴木に差し出す。……ん? 隣でガサゴソやってるのは――?
「じゃあ、俺はポッキーを開けてあげるよー。はい、。あ〜ん」
 オレは条件反射的に、芦原が差し出したポッキーを咥えていて――ああ! 刺さる! 右側から刺さってますよ〜!
 オレはバキッといい音をたてて、口の中のポッキーを噛み砕くと、冴木に向き直る。
「普通! 普通だろ〜?」
「でもオレは、芦原さんに、缶を開けてって言われたことも、ポッキーを差し出されたことも、ありませんよ……」
「それなら――ほら芦原、冴木も食いたいって! やってやれよ」
「ヤダ。遠いもん」
 芦原、どうしてお前はそう空気を読まないんだ…………
「じゃあほら、冴木! お前が芦原に食わせろ」
 オレは芦原の手の中にあったポッキーを箱ごと奪い取って、冴木に押し付けた。冴木はしばしオレの顔とポッキーの箱を見比べていたが、やがて一本取り出すと、芦原のほうへ差し出した。
「ほれ、芦原。ポッキーだぞ〜」
 オレの声に、芦原は冴木の指先からヒョイと口に咥える。
「ほーら、冴木。普通だったろ?」
「いえ…………あの、よかった、です」
 は……?
 なんなの?
 なんでこのヒト、頬染めちゃったりしてるんですか…?
「わ〜、やっぱり冴木は変だ〜!」
 っていうか、ヘンタイだろ?
「やだなぁ、。俺も最初からそう言ってたじゃないか〜」
さん! 芦原さん!」
「なんだ、冴木?」
「なにさ、冴木くん?」
 振り返ったオレと芦原に正面からじっと見据えられ、冴木はとうとう居心地悪そうに目線を逸らせた。
「なんでも、ないです……」
「なんでもないなら、いいじゃん。飲も飲も」
 オレは芦原が手にしていた缶に自分のを軽くぶつけ「乾杯〜」と声をかけてから傾ける。
「ほらほら、冴木も」
 オレは冴木の手にしている缶の底を押し上げるようにして、冴木に口をつけさせる。そう、ここはひとつ穏便に――穏便にうやむやにしてしまうのだ。あとは、この次の機会にでも、話し合ってもらおう。もちろんオレ抜きで!
 だって、オレには関係ない! 関係ないんだからな〜!




*あとがき*   これはもうまるわかりでしょうが、「芦原さんが可愛くてしかたない〜」のときに書いたお話です。冴木くんがどうにもダメな人なのは、わたしの趣味です(笑)