きみのせなかにてをのばす
「先輩!」
放課後、特別教室棟での清掃当番が終わり、教室へ戻ろうとしていたは、呼び止められた声で足を止めた。爽やかな笑顔を浮かべ駆け寄ってきた相手に、も自然と笑顔を見せる。 「鳳、嬉しそうだな」 「はい。宍戸さんがレギュラーに復帰したんです」 がテニス部に在籍していた一年前、一年の新入部員である鳳と話す機会はほとんどなかったが、そのころから、気持ちのいい話し方をするやつだとは思っていた。 「ああ、そうだってな。忍足から聞いたよ。宍戸の頑張りもすごかったんだろうけど、お前もその練習に付き合ったんだろう? 偉かったな」 「そんなことありませんよ。俺は付き合っただけですから」 鳳のその言葉に、は自分が鳳に抱いている好感の正体に気づく。 テニス部を強くするための敗者切り捨てという考え方――それ自体を正しいとか正しくないとか批評するつもりはない。けれどその世界に身をおくものの常として、『他人を蹴落とさなければ自分が存在できない』『自分のためなら、他人はどうなってもいい』という考えを持つようになるのは、避けられないことだと思う。けれど鳳は、正レギュラーという位置にいて、他の部員からそんな視線を受けることも多いはずなのに、いまだ他人を気遣うこともでき、謙虚さを失わない。それはきっと鳳が、自分というものを確立しているということ。自分を見失い逃げたにとって、それは賞賛に値する。 「お前と宍戸のダブルスは強いだろう。楽しみだな」 「ありがとうございます! これから忍足先輩と向日先輩のペアと試合するんです。よかったら見にいらっしゃいませんか?」 「そうだな――時間があったら」 あまりコートには近づきたくないのが本音なのだが、鳳に対して無下に断ることもできず、は少しだけ微笑んでそう答えた。 「ああ、鳳。岳人は油断しているはずだから、一気に攻めるといいぞ。忍足も本気になるまでには時間がかかるから、その間に取り返せないほど突き放してやるといい。なんて、ぼくが言わなくても、宍戸なら最初の一球から手を抜くことなく勝負を決めるだろうがな」 「いえ、ありがとうございます。俺も最初からスカッドサーブを決めて、宍戸さんの熱意に負けないよう、頑張ります」 楽しそうな鳳の声に、も嬉しくなる。そう、テニスは強くなるためにやるんじゃない。楽しいから、強くなりたいんだ。好きだから、強くなるんだ。 見失ってしまいがちな大事なことを、彼はちゃんと持っている。 「……ほんとに、お前はいい次期部長になりそうだな」 自然と浮かび上がってくる気持ちを笑みに変えて、はそう言った。 「ええっ! ああ、あの――おお、俺なんか! 樺地にも日吉にも負けてますし――」 鳳をどもらせるほど焦らせたのはの告げた言葉のせいだが、間近で見たの微笑みのせいもあっただろう。 「“いまは”だろう? 宍戸の努力を目の当たりにしたんだ。それはお前の力にもなるよ。お前は今後も物事を中途半端に投げ出すことはないだろう?」 「はい――はい! 頑張ります!」 目を輝かせてそう答えた鳳は頭を下げ、来たときと同じく走り去ろうとした。が、その足をすぐに止めて、振り返る。 「そういえば――宍戸先輩が監督に頭を下げたとき、跡部部長もその場に来て、『そこにいるやつはまだ負けてない』って一緒に頼んでくれたんです。跡部部長もただ強いだけじゃなくて、部員をちゃんと見てるんだなぁって、俺、カンゲキしました。俺もそうなれるよう、頑張ります!」 嬉しそうにそれだけ言うと、もう一度頭を下げ、鳳は走っていった。テニスコートへ向かうその背中を見送って、は呟く。 「あいつの性格だけは、真似しないで欲しいんだがな……」 そして教室へ戻るために再び歩き出したの背後から、聞きなれた声が掛かる。 「アーン? 俺様が目標だなんて、口にするだけで100年早いんだよ」 は静かに振り返った。 「立ち聞きとは悪い趣味だな」 「あんなでかい声で喋ってりゃ、聞きたくなくても聞こえるだろうが」 つかつかと近寄ってくる跡部の存在に、鳳は気づいていなかったからこそ言えた言葉だっただろう。もまさか聞いているとは思わなかったが、部活へ向かう途中の鳳とすれ違ったのだ――同じく部活へ向かうであろう跡部がこの場にいても、おかしくはない。 不機嫌そうにの前に立った跡部に、はあからさまに作り笑いだと分かる笑みを浮かべてみせた。 「それで? なにか用ですか、跡部部長?」 のその呼び方に、跡部が顔を顰める。面白くなさそうだった不機嫌さが、持て余すような苛立ちへと変わる。からかうなと怒鳴りたいところを、堪えているのだろう。 でもは、からかいたくてそう呼んだわけではない。 「きみは――やっぱり、すごい人だよ。宍戸のこと、ちゃんと見てたんだね」 向かい合って立つと、が少しだけ跡部を見上げなければ目を合わせることができない。 「お前の言ったことを実行しただけじゃねーか」 跡部の口調から苛立ちは消えていたが、不機嫌さはまだ残っている。それも承知で、は続けた。 「普通はできないよ。人の上に立つことに慣れている人は、特にね。きみは判断力も決断力も、そして柔軟性もある。やっぱり、すごいよ――」 「お前……」 を見下ろす跡部の顔から不機嫌さすら消え、跡部はの腕を掴むと、空き教室へ入り、扉を閉めた。 「――お前、なにが言いたいんだ?」 教室の壁を背に寄りかかるようにして立つと、そののすぐ脇に腕をついて、まるで自分の腕と身体でを閉じ込めようとするかの跡部。決して触れられている箇所はないのに、まるで押さえつけられているような感覚のなか、は顔を上げる。を見下ろしている跡部の顔は、予想よりももっと近くにあった。 「……言葉通りだよ、褒めてるんだけど」 自分の発した声が、やけに大きく響いた気がした。 「そうか――」 言いながら、跡部が決まり悪げに目線を逸らせた。どうやら、の言葉になにか裏があるとでも思ったのだろう。 「ごめん、生意気な口の聞き方したほうがよかったのかな」 鳳に触発されて素直になるなんて、柄でもないことはやはりしないほうがよかったようだ。 「そんなんじゃねーよ」 クスリと笑ったの言葉を、ぶっきらぼうに跡部が否定する。 少し困った、戸惑っているような跡部の表情は、がその名前を口にする前に、消える。そして――を見下ろしていたのは、真っ直ぐな跡部の瞳。 「、俺の傍にいてくれ――」 掠れるような跡部の熱い声に、はゆっくりとまぶたを閉じた。跡部の声を、その言葉を――かみしめるように、は微動だにせずただじっと立っていた。 「」 焦れるようにその名前を呼んだのは跡部のほうだ。 「跡部がなにを言っても、ぼくは変わらないよ」 ゆっくりと瞳を開いたが、跡部に淡々と告げる。 眉を顰め、口を開きかけた跡部を遮って、は続けた。 「ぼくの意志だ。きみのことを見るのも、きみのことを考えるのも、きみの……そばにいるのも。跡部になにを言われても、ぼくは自分の意志で決める」 一年前、は自分を見失った。けれど機会はあって、もう一度ここに戻ってくることができた。今度はもう、なくさない。どんなに悩んで、辛く苦しい思いをすることになっても、自分で決める。後悔しない、納得のいく答えを、見出してみせる。 「……」 跡部の腕が壁から離れ、の肩に触れる。そのままゆっくりと包むように抱き寄せられ、は力を抜いて、跡部の肩にその額を寄せる。背中に回された跡部の腕は暖かかった。 「けい、ご……」 自覚なく、の唇から跡部の名前が零れる。躊躇いがちだったの両腕も、やがて跡部の背中に回されていた。 電気もついていない空き教室はほの暗い影を落とし、開いていない窓から聞こえてくる校庭で始められた部活動の喧騒も、とても遠い出来事のように響いた。 それはとても静かで、穏やかな時間。 「部活、行かないと――」 なんとなく、はそう口にした。けれど彼は、その身体を起すようなことはしない。 「ああ、そうだな」 の言葉に、跡部も頷いた。けれど彼も、その腕を離そうとはしない。 ずっとこのままではいられないと互いに自覚しながら、どちらも自分の手で終わらせることができずにいた。 「跡部部長! レギュラー同士の試合が始まりますよー。どこですかー?」 静寂を破ったのは、パタパタと走る足音と、複数の声。部活内での試合とはいえ、正レギュラー同士の試合は、今後のレギュラーの入れ替えにも繋がりかねない。跡部が不在のまま始めるわけにはいかないのだ。一年部員の何人かが捜索隊として借り出されているのだろう。 (このままここにいられたら、どんなにか――) 「跡部、もう行かないと」 が、その手を下ろし、身体を起した。 「そうだな」 跡部も、の背中に回していた手を緩め、離す。 (このまま、閉じこもっていることはできない――) 跡部を呼ぶ声はまだ続いている。 壁に寄りかかったを残し、扉に手をかけた跡部は、その手に力を入れる前に、を振り返った。 「。俺は、お前がずっと傍にいたいと思える男になるからな」 跡部が、扉を開ける。跡部はもう振り返ることなく、その教室を出て行った。 残されたは、その扉が閉められるのを、なにも言わずただじっと見つめていた。 扉の向こうで、自分を捜していた部員たちを呼ぶ跡部の声が聞こえる。複数の足音が集まり、やがて消えていった。 再び静寂を取り戻した教室内で、はゆっくりと目を閉じて微笑んだ。 「……そんなの、初めて会ったときからずっと思ってるよ」 END
back to index *あとがき* 跡部は着実に成長しているようで、このまま行けばハッピーエンドですね。ちなみに、書くつもりはないけれど考えていたバッドエンドは、忍足とくっつくというものでした(ま、ありがち) |