きみのとなりでめをとじる(後編)
ゆっくりと近づいてきた彼に、隣で忍足が頭を軽く下げたのに気づいたが、まだは動けずにいた。
「――忍足か。外してくれるか?」 低く響いたその声には有無を言わせない威圧感がある。彼は頂点に立つことに慣れた存在だった。 「ほな……失礼します。サン――また、な」 小声でにもそう付け足して、忍足が隣からいなくなってしまう。それでもまだは、動けずにいた。 「久しぶりだな、――一年ぶり、か?」 彼がスッとあごを動かし、背後の廊下の隅を指す。ようやくは身体の動きを取り戻して、彼の後について廊下の隅へ移動し、窓際へと並んだ。 「うん、久しぶり……きょうは、どうして、ここに――?」 なにを言っていいか解らず、結局最初に浮かんだ質問を口にしていた。 「高等部でもレギュラーを取れたんでな、榊先生に報告に来たんだ」 「そうか――おめでとう。頑張ってるんだな」 お前なら当然だよ、なんて軽口は返せない。確かに彼には才能があるが、その才能を生かすための努力を惜しまないのを、去年はチームメイトとして傍で見ていたのだから。 「ああ。それと――中等部は都大会で負けたそうじゃないか。なにやってるんだ、跡部は? そんなんで今年は大丈夫なのか?」 彼の率いていた去年のテニス部は都大会など優勝し、全国大会でベスト16という結果まで出しているのだから、呆れた物言いになるのは当然だろう。けれどは、口を挟まずにはいられなかった。 「あれは――向こうの戦略にはまっただけだよ。無名校なのをいいことに、全国区のプレイヤーを――」 「下調べを怠り油断するからだ。まあ、いい。それは榊先生とも話したからな。それより、。お前――いつ帰ってきたんだ。監督から聞かなかったら、気づかなかったぞ」 急に自分のことを振られ、は眼を逸らせてしまった。 「ひと月、前くらい」 いまさら、嘘もつけない。テニス部に入ったり、試合を見に行ったり、目立つことをしなければ自分の存在など誰にも気づかれずにすむと思っていたのに。 「連絡くらいしろ」 「ごめん……。みんな、忙しいと思って――」 「言い訳するな」 ピシャリと、威厳のある声が廊下に響き渡った。 「お前――……別に俺たちになんか会いたくなかったんだろう?」 低く告げられた言葉に、の身体が強張った。 そんなことはないと、そういうつもりはないと、それだけでも言いたくて顔を上げたけれど、そこにあった冷たい視線に射すくめられて、再び動けなくなった。 「ケガしたんだってな。だからまた三年だって――?」 淡々とした声――だからこそ、すべてを見透かされているような気がする。 彼の手が伸ばされ、の左まぶたにうっすらと残る傷跡に触れる。その直前では眼を閉じてしまった。 「お前にとっちゃ、どうでもいいんだろう? 俺たちも――テニスも」 「そ…、んな……」 ようやく出てきたのは掠れるような声と、僅かながらの首の動き。触れられている傷跡が熱くて、の嘘を許さない。 「目と指をケガしたことは聞いた。それでもテニスができなくなったわけじゃない。右手もある。目だって、見えなくてもテニスをしているヤツはいるぞ」 知ってる――リハビリ先の病院でテニスを教えていたとき、目の手術をした少年もいた。音の出るボールというのがあって、音を追うことでボールを打つのだ。 「お前は一年前もずっと中途半端なままだったな。なにかひとつでも必死になろうってことはないのか――」 「!」 崩れ落ちそうな暗闇の中にいたに、その声は光を呼び込んだ。目を開けたの、その先にいたのは。 「跡部か、なんだ?」 振り返って声をかけたのはではない。跡部は自分の前任者に軽く目礼した。 技、パワー、スピード――その点でいうなら、彼よりも跡部のほうが若干上かもしれない。それでも去年跡部が彼にほとんど勝つことができなかったのは、跡部のインサイトも凌駕する彼の緻密な計算に基づいた隙のないプレイと、そして――それを導き出す圧倒的なまでの勝利への執念だとは思う。彼を見ていたからこそ、そこまでできない自分が正レギュラーになれるはずはないと思っていたのだから。 「先輩、お久しぶりです。すみません、に話があるんですが」 跡部の声も、いつになく低く響いた。 「――と、言ってるぞ、」 彼の声に動かされるように、は跡部を見た。 「用ならあとにしてくれないか。いま話し中だ」 ほんの少し前とは打って変わって、自分でも驚くほどの冷静な声で返していた。 「大事な用だ」 跡部も怯まない。 「じゃあ、あとでコートへ行くよ。早く部活へ行け。明後日の関東大会でまた負ける気か?」 ひどく冷たい言葉なのに、それはスラスラと淀みなくの口から流れ出た。 「――いいから、来い!」 業を煮やした跡部が、近づいてきての腕を掴んだ。 「離せ! ぼくの意思を無視するのか!」 は跡部を睨みつけて、その腕を払おうと力を込めた。 「クソッ!」 跡部は手を離し、そして――踵を返してその場を立ち去った。 (なんで――なんでこんなことになってしまうんだろう……) 大事なことは言えないのに、人を傷つける冷たい言葉ならいくらでも言えるなんて。 「……ごめん。ごめん、ぼくは――ほんとに、どうしようもないな……」 一部始終を見られていたのだから、なんの言い訳もできない。周りのことをすべてどうでもいいことだと考えている人間だと、これで愛想もつかされるだろう。 俯いてしまったに、聞こえたのは意外な言葉だった。 「安心した」 理解できずに、は思わず顔を上げる。 「にも本気になれることがあったんだな……」 続けられた言葉も、に対して言っているのではなく、確認するような口ぶりだった。 「え…? な、にを――」 解らずにただ見上げていたに向き直ると、彼は頭を下げた。 「、ひどい言い方をして悪かった。俺はお前がロンドンへ行ったのは、テニスよりもやりたいことがあったからだと思っていた。だが、ケガをして帰ってきたと聞いて、テニスもやりたいことも、お前はすべて投げ出したんじゃないかと思ったんだ。去年だって、お前は本気を出せば正レギュラーになれたはずだ」 「そんなことは――」 「それだ! お前の悪いところは」 部員達を一喝していたときの大声が周囲に響き渡った。も反射的に姿勢を正してしまう。 「――なにもかもやる前から諦めるな。どうせ諦めるなら、やってから諦めればいい。それに、ひとりでできないことなら周りに助けを求めろ。なにか力になれることがあるなら、いつでも手伝ってやる。それは迷惑なんかじゃない。自分が他人の助けになれるのは嬉しいもんだ。解るか?」 淡々と語られたそれは、元部長と元部員の会話ではなく。友達が、友達に言ってくれているものだと解って、の目頭が熱くなった。 「う、うん……うん。うん――ありがとう」 胸が詰まって、それしか言えない。 「まぁ、俺に頼る前に、跡部に頼るか。お前が跡部のことが好きだったとは、気づかなかったな」 「え…? あ、あの――」 溢れそうだった涙が、一瞬にして引っ込んだ。慌てるを彼が楽しそうに見ていることにも気づけない。 「誰にでも人当たりの良かったお前が、跡部に対してあれだけ強く接してるってことは、そうだろ? 笑って流すことができないくらい、跡部の態度がお前にとっては大事だってことだ」 「それは――……」 言葉が続かない。そんなことは考えたこともなかった。けれど――もしあれが跡部じゃなかったら、きっとの口からあんな言葉はでなかったはずだ。それだけは解るけれど、でも。 「……そんなに解りやすいのか、ぼくは」 少し不安になって、は尋ねた。 「目の前で見たからな。跡部が気づいているかどうかは解らんが」 「気づかれたら、困るよ」 「そうか? ヤツはおだてられたほうが力を発揮するタイプだと思うがな。試合前にいいのか?」 「そんなの――ぼくがおだてなきゃ勝てないようなら、始めから勝てないよ」 の言葉に、彼が笑う。もようやく気が抜けたように笑った。 「俺は応援されたほうが気が乗る。俺の試合は見に来い」 彼がの肩を軽く叩いて、それが会話を終了させるサインになった。は頷いて小さく手を振ると、卒業した校舎を去っていく彼の背中を感謝の気持ちを込めて見送った。 そして――の足は、まっすぐにテニスコートを目指した。 たどり着いたコート内をざっと見渡しても、跡部の姿は見つけられなかった。反対に、の姿を見つけた忍足が駆け寄ってくる。 「跡部なら、まだ部室やで」 含み笑う忍足に、があの場所で話していることを跡部に教えたのも彼だろうとは思った。 「ありがとう」 忍足にもいつも心配かけてるんだな――言葉とともに微笑んで、はコートをあとにした。 部室の扉の前に立ち、ノックをする。なかからの返事はない。 「だけど」 けれど跡部はここにいるはず――確信しながら、は扉の向こうへ声をかけた。 『――開いてる』 小さくだが、確かに聞こえた声に、はノブを回して室内に入った。奥のロッカールームへ続く部屋の扉が開け放たれたままになっていて、その部屋のソファに、跡部がいた。 「話は済んだよ」 ロッカールームには入らず、開けられた扉の位置で、は跡部に声をかけた。なにをするでもなくただ座っていたらしい跡部は、チラリとに視線を向けただけでつまらなそうに答えた。 「もう用はねーよ」 「そう? じゃあ――」 出て行こうとしたの背に、「待て!」と少し慌てたような声がかかった。 「――座れ」 を見ないまま、跡部は自分の隣を指した。は言われるままに跡部のもとへ近づくと、静かにその隣へ腰を下ろした。 室内に沈黙が漂うなか、跡部がスッとその指先をへと伸ばした。のあごを捉えた跡部の指に逆らうことなく、は跡部のほうへ顔を向けた。目が合う――を見つめている跡部の瞳は冷静だった。 「――泣いてないな」 確認するように、ポツリと跡部が言った。 「うん……」 「なら、いい」 それだけ言って、跡部の視線はから逸らされた。そしてその指も。 離れていってしまった跡部の温もりを、は物足りなく感じた。 解っていた――会話に割り込んできたのは、決して跡部のワガママではないことは。食堂で言った『俺の傍にいればいい』という言葉も、人目なんか気にせずに傍にいていいという意味だということも。それでも、まだ頷けない自分がいる。 (でも……たぶん、もう少し――) 『泣いてないな――』 跡部の声は、ひどく心地良く耳に残っている。 「景吾……」 は跡部の名前を口にすると、その肩に額を寄せて目を閉じた。 「――ありがとう」 いま言える言葉はそれだけ。 でもきっともうすぐ答えは出せるだろうとは思った。跡部に触れることの安心感を、は知ってしまったから。 END
back to index *あとがき* 謎の前部長が大活躍。跡部の台詞少なっ! 前部長の名前変換は無駄かと思ってさせないでみたのですが、読みづらかったらすみません。跡部がちょっとづつ成長してるのが伝わるといーなー(ここに書いてちゃダメだろう) |