きみのなみだにくちづける(後編)
跡部がわざと持久戦を挑んでいるということは、テニスを、跡部のプレイを知っている人間ならもう解っていただろう。そして、それを手塚が受けたことも。そうとは解らない一般生徒でも、さすがに試合時間が一時間半を越えれば、これが普通の試合ではないと気づいたはずだ。
アドバンテージサーバー、この一ポイントを手塚が取れば勝利が決まるというところで、手塚が肩を押さえてボールを落とした。 ベンチに戻った手塚から目線を離して、は気づかないまま左のこめかみあたりを動かせる指先で擦っていた。一瞬も見放せない攻防に、傷ついた左目に疲労が溜まってきているらしい。それでも、なんとしても、この試合から目を離したくはなかった。 何度かマッサージと瞬きを繰り返したは、中断したコートへと視線を向ける。たったひとり、コートにたたずむ跡部の顔からは、とうに余裕の笑みなど消えていた。跡部が見ているのは手塚だけ、この試合だけ。いま跡部の世界にはそれ以外の存在はないに等しいだろう。 (こんなに――こんなに真剣になるなんて……やっぱり、きみはすごい) の瞳が潤んだのは目が痛むせいだけではないのかもしれない。 やがて手塚がコートへと戻り、優劣のつかない試合は、タイブレークとなった。2ポイント先取したほうが勝ち――先ほどよりももっと、一挙一動が見逃せない。ギリギリの緊張感に、ただ見ているだけののほうが圧倒されてしまう。震える指を必死で握り締め、跡部を、そして手塚を見続けていた。 「この試合、いつまでも見ていたいな……」 このまま試合が終わらなければ、跡部をずっと見ていられる。そんなことは不可能だと解っていても、はそう思わずにはいられなかった。この試合が終わるとき――それは、勝者と敗者に別れるときでもある。そんなつらい瞬間が来なければいいのにと、両手を握り締めては祈ってしまった。けれど、時が止まるわけもなく。 「あ――!」 も、そして観衆も息を飲んだ。手塚の放った零式ドロップは戻ることはなく、跳ね上がったところへ、スライディングした跡部が辛うじて返球する。手塚もそのボールを打ち返したけれど、それはネットに阻まれ、跡部のコートへと入ることはなかった。 その瞬間、は視界がぼやけては見ることができなくなると必死でこらえていたものを開放した。 勝利を収めた跡部はぐったりとベンチで顔を伏せていた。溢れてきた涙を手で拭いながら、はその背中をじっと見つめていた。 勝ったのは跡部だというのに、誰も跡部に声をかけようとはしない。 その姿に、団体戦であってもテニスは個人技で、孤独なのだと思い知らされる。敵は目の前にいるだけではないのだと。 跡部が勝ったことで、2対2となった試合は、補欠同士の対戦となった。日吉と――青学は一年生だった。だが、その一年生は圧倒的な可能性を示して、日吉を降した。日吉が弱かったのでも、油断したのでもない。彼が強かったのだ。 そして、氷帝の関東大会敗退が決定した。 氷帝コールが響き渡るなか、はそっとベンチを降りていき、氷帝テニス部のウェアを着ている見知った顔――準レギュラーである三年生を見つけ、その肩を叩いた。 「悪い、頼みがあるんだが」 は言って、周囲の声に消されないよう、そしてほかに聞こえないよう、彼の耳元に手を添えて言った。 「解りました。ちょっと待っててください」 彼は頷いて、さらに下のほうへ降りると、が頼んだものを持ってきた。 「もう部の人間じゃないのに、口出しして悪いな」 「いえ、先輩以外にはできそうもありませんから」 「ありがとう」 受け取って、はその場を後にした。 止みそうにない氷帝コールを聞きながら、が向かったのは駐車場だった。見覚えのある黒塗りのベンツの前で、たたずむ。 不意に運転席のドアが開いて、年配の運転手が降りてきた。 「お久しぶりでございます、さま。景吾さまをお待ちでしたら、どうぞお乗りください」 「……ぼくのことを、覚えていてくださったんですか」 は運転手に頭を下げた。去年――練習後、跡部に何度か送ってもらったことがあったけれど、それ以来跡部の車には乗っていないのに。 「もちろんです。ご学友に限らず、景吾さまが同乗させる方は、あまり多くはありませんので。どうぞ」 後部座席の扉を開けたまま頭を下げられては、否とは言いにくい。それに、結局は車に乗せてもらうつもりでここへ来ているのだから。 「では、すみません。失礼します」 頭を下げて、は車へ乗り込んだ。 は部員から借り受けたものを膝の上に置いて、ただ静かに跡部が来るのを待っていた。 やがてテニスバッグを持たせた樺地を従えて跡部が現れたことに気づいたのは、運転手が外に出てドアを開けたからだった。 「お疲れさま」 車内から跡部を見上げるように、は声を掛けた。 「――」 跡部は名前を口にしただけだった。 「樺地――今日は、もういい。帰って休め」 「ウス」 運転手が樺地から受け取った跡部のテニスバッグをトランクにしまう。その間に、跡部はなにも言わず車に乗り込んでの隣へ腰を下ろした。正直、『出て行け』とか『なんでこんなところにいるんだ』とか、不機嫌そうに言われると思っていたのに。 けれど後部座席のドアが閉められ、運転席に戻っても、跡部はなにも言おうとはしなかった。運転手も行き先を聞こうとはしない。車内に漂う静寂は、が破るしかなさそうだった。 「手当て、させてくれないかな?」 の声に、跡部がようやく目線だけでを振り返った。その膝に置かれているもの――救急箱に気づいたようだ。 「右ひじ、擦りむいてるだろう?」 最後の、勝利を決めたスライディングで。 「大したことねーよ」 「うん。でも……させてくれないかな、ぼくに」 少しの沈黙の後、跡部は黙ってジャージの右袖から腕を抜いた。 「ありがとう」 目線を正面に戻してしまい、跡部はのほうを見ていなかったけれど、は微笑みながら礼を言った。 は、跡部の右腕に触れた。ひじから手首のほうまで赤く擦れていて、所々血も滲んでいるが、それもほぼ乾きかけており、確かに大した傷ではなかった。それでもは消毒薬を取り、傷口に吹きかけて、汚れと一緒に固まりかけた血も丁寧に拭った。ジャージで擦れないように患部にガーゼを当てて包帯を巻いた。少々大げさになってしまったかもしれないが、これはにとって、大事な傷だ。 「終わったよ――ありがとう」 もう一度、は跡部の横顔に礼を言った。 「ありがとう――景吾。あんな試合を見せてくれて」 自然とが口にしたその名前に、跡部が驚いたように振り返った。 「カッコよかった――すべてが。手塚くんに圧倒的な敗北を与えようとしたプライドの高さも、それを覆されても一瞬も諦めずに勝利を追ったことも、そして最後に……手塚くんの志を称えたことも」 跡部の目的は手塚の肩を壊すことにあるのではなく、手塚のペースを乱させてその眼前に弱点などない完璧な自分を見せつけることだと気づき、ただ勝つのではなく完璧な勝利にこだわるそのプライドの高さに、まずは驚かされた。 けれどその思惑どおりに事は運ばず、逆にペースを乱されているのは自分のほうだと気づいても、焦りを抑えて最後の一瞬まで気を抜くことなく勝利を追うその意志の強さに、は感動した。 そして試合が終わって――握手するために伸ばされた手塚の手を、握り返した跡部が高く掲げた。そのとき跡部はすべての立場を超えて手塚を認め、その健闘を称えていた。その判断力、決断力に、は憧れる。 「やっぱり景吾はすごい――すごい人だ。ぼくはもっと景吾のことを見ていたい。近くにいたい――傍にいることを、諦めたくない」 跡部のようにはできない。当たり前だ――跡部とは違うのだから。けれど跡部とて、なにもせずにのうのうと過ごしているわけではない。その逆だ――一瞬たりとも、無駄なことはしていない。 は跡部のようにはできない――でも、なんの努力もしていないのだから、それは当然のことだ。どこまでできるか解らない――けれどやるべきだ。いつか諦めなければいけない日が来るのかもしれない。でもそれならばその日まで、全力を尽くすべきだ。跡部の傍にいたいなら――跡部のことが好きなら。 「傍にいたい」 声が震える。視界がかすむ。でも、言わなくてはいけない。諦めずに。 「好きなんだ――景吾」 胸が苦しい。嗚咽が止まらない。 「泣くな、……」 頬に伸ばされた跡部の指先がひどく温かい。その声もひどく優しい。 「泣くな……」 跡部の望みなら叶えたい――はギュッと瞳をきつく閉じたけれど、溢れる涙は止まることなく。 「ごっ、め……」 謝罪の言葉もうまく口にできない。 「いや――泣け」 不意に耳元で囁かれて、背中に回されていた跡部の腕に引き寄せられるように抱きしめられていた。反射的に顔を上げたの、涙で濡れた瞳や頬を、拭うように跡部のくちびるが優しく触れてゆく。は目を閉じて、離れては触れるその優しい感触にすべての心をゆだねた。この先、なにがあってもこのときを忘れないと誓いながら。 END
back to index *あとがき* 最初の跡部ドリを書きあげたときに、もしふたりがくっつくならこの試合後だろうなとぼんやり思ってはいたのですが、ちゃんとした形にすることができて嬉しいです。でもちゃんとしたキスをすることもなく終わってしまいましたなぁ。これから、か?(笑) |