きみのすがたをみつめてる(後編)




 やがて学園は夏休みとなり、学校の授業から解放されたは、フランス語のほかに、中国語と韓国語を学び始めた。学力、思考力、判断力――すべてにおいて跡部には敵わない自分が、跡部の傍にいるためには、そのほかのことで跡部の役に立てるようになるしかない。そう考えてが出した結論は、語学力だった。
 跡部が将来どんな仕事を選ぶかまだ解らないが、きっと日本を出て世界中を飛び回るに違いない。語学力を身につけておけば、どこへ行っても、どんな職業を選んでも、跡部の役に立てるはずだとは考えた。
 その考えを跡部に話してはいないが、語学の勉強を始めたことは話してある――きっと、跡部にはその理由も解っているだろう。
『傍にいることを、諦めたくない――』
 ははっきりと跡部にそう告げたのだから。
 冷房が効きすぎないように高めの室温を設定した部屋で韓国語の復習をしていたは、突然鳴り響いた電話のコール音に立ち上がった。
「もしもし、ですが」
『私だ』
 受話器の向こうの相手はそうとしか名乗らなかったけれど、にもすぐに解った。
「榊先生――こんにちは」
 まさか榊がの自宅まで電話を掛けてくるとは思わなかったので、驚いてはいた。けれど理由があってかけてきたのだろうから、どうしたんですかと尋ねることはせず、榊からの言葉を待った。
『跡部はそこにいるか?』
 単刀直入な質問だからこそ、榊にはすべてを見透かされているような気がする。けれどそれを嫌味に感じさせないのが、榊の不思議なところだ。
「いませんよ。いまの時間なら、スポーツジムのほうじゃないですか?」
『そこにはもう掛けたのだが、入れ違いで出て行ったらしい』
「そうですか、お役に立てなくてすみません。なにか急用ですか?」
『いや、お前にも教えておきたかったのでな。氷帝学園が――開催地特別枠に選ばれた』
 開催地特別枠――その言葉を聞いて初めて、はそういう制度があったことを思い出した。いままで氷帝学園には縁のないものだったから。
「そう……ですか。おめでとうございますと言うのは変なのかもしれませんが、ぼくは嬉しいです。わざわざお電話いただきありがとうございました」
『もしそこに跡部が行くようなら、お前の口から教えてやってくれ』
「そうですね、もし彼が来たら伝えます」
 通話が切れるのを待って、も受話器を降ろした。
(氷帝が全国大会に――もう一度、景吾が、あのコートに……)
 じっとしていられず、走り回りたいような気持ちを抱えている自分に気づき、は微笑む。さすがにひとり室内でぐるぐる走り回るのは、誰に見られることもないと解っていても恥ずかしいから、そんなことはしないのだけれど。
 が再び机に戻ろうとしたとき再び電話が鳴った。けれど今度は自宅の電話ではなく、携帯電話だ。手にとって、ディスプレイに表示されている名前を確認すると『忍足』だった。
サン、いま平気?』
 もしもし、と出たに、忍足はそう尋ねてきた。
「ああ」
『知っとる? ウチら全国行けるんやで。開催地特別枠に選ばれたんや』
「ああ、聞いた」
『なんや、早いわぁ』
 の答えに、忍足は大げさに残念がってみせた。
「監督がわざわざぼくにも電話してくれたんだよ」
『さすが監督、隙ないなぁ。で、さん――跡部、捜しとるんやけど……そこにおるん?』
 その質問も二度目だと言ったら、忍足は本気で悔しがるかもしれない。
「いや、いないよ」
 余計なことは言わず、端的には答えた。
『……なぁ、サンはどう思う? あのプライドの高い跡部が、OKするか、心配やわ』
 忍足の心配は理解できる。跡部は単純に喜んだりはしないだろう。
「そうだな……でも、大丈夫じゃないかな」
『あらら。サンが言うなら、大丈夫やな。それにしても、アイツどこ行ったんやろ』
「忍足は、いまどこなんだ?」
『ガッコ。とりあえず校舎出たけど――なんや、コートで音が』
「なら、コートを見てみるといい。じゃあ、また」
 忍足の言葉を遮るようにはそう言って、一方的に電話を切った。
「なんなんや……」
 忍足は、あっさりと切られた通話に驚きつつ、言われたとおりにコートへの階段を上る。
「ホンマ、いたわ……」
 そこには、ひとりコートでサーブを打つ跡部の姿があった。
「あ、あれは、越前が関東決勝で、確か最後に見せた……」
 バウンドせずにコートを駆け抜けたスマッシュ。それをこの短期間に、より使用頻度の高いサーブとして習得するなんて。
「は〜……この男も底が見えへんわ。サンもやけど」



 その日の夕方――再びの勉強をさえぎったのは、電話のベルではなく、玄関のチャイムだった。
 玄関へ向かったは、相手を確認することなく扉を開ける。マンションのエントランスは中から解除するか、キーを持っている人間しか開けられない。の部屋番号を押さずにここまで来ることができるのは、このマンションの住人か――が鍵を渡した相手だけなのだから。
 もちろんその鍵を使えばの許可なく部屋の中まで入ることが可能なのだけれど、一度もそのような使いかたをされたことはない。の意志を無視することは、ないのだ。
「久しぶり――景吾」
 がそう挨拶したのは、嫌味でもなんでもない。事実、跡部と直接会うのは一週間ぶり――それも夏休みに入って、まだ二度目だった。
 跡部はもう次の目標に向かって努力を始めている。夏休みだからといって、彼に遊んでいる時間はない。
「上がらないの?」
 ドアの内側に入ったものの、扉を背に佇んだままの跡部に、はそう声をかけた。
「いや、顔を見に来ただけだ」
 端的に答えて、跡部は少し不機嫌そうに視線を落とした。切り出そうとしない跡部に、のほうから両手を伸ばした。そして――そっと身体を寄せ、跡部の身体を包むように腕を回した。玄関の段差があるいま、跡部との身長は同じくらいだ。
 そっと、跡部の肩に額をつけて、囁いた。
「……榊先生から、聞いたよ」
「そうか」
 跡部の返答は静かだった。
 あのあと忍足から電話はなかった。跡部は承諾したはずだ。けれど彼の胸のうちは複雑だろう。
 今年こそ、全国大会で優勝するはずだったのだ。けれど都大会でも、関東大会でも敗れてしまった。思いかげず全国大会に出られることになったけれど、負けた記録はいつまでもついて回る。でも――それでも。
「嬉しい……もう一度きみのプレイが見れる。あのコートに立つきみの姿が」
……」
「きみも嬉しいだろう、景吾? 戦えるよ……真田や、越前と」
 いまだって瞳を閉じるだけで、跡部が彼らとどう戦うのか――その姿が浮かんでは消える。想像だけで、の胸は高鳴るほどだ。伝えたい――それを、跡部に。
「……嬉しい。ぼくは、あのコートにきみを立たせたかった」
 真田と越前の試合を見ていて――それを脇で見ている跡部を見て――はっきりと自分の望みが解ったのだ。
「きみと同じコートに立つよりも、ぼくは――あのコートに立つきみが見たいんだ。きっと、そのためにならなんでもするよ。なんだって――する」
 跡部が、彼らしくいられる舞台に、これから先もずっと立っていられること――それが、それだけがの望み。迷った末にようやく出せた、の答え。
……」
 耳元で囁かれ、顔を上げる。
 言葉はなく、ただ強く引き寄せられ――ふたりの唇は重なった。
 長い――キスになった。は跡部の背中に回した腕にギュッと力を入れて抱きしめたけれど、それはしがみついているといったほうが正確だったかもしれない。の背中にしっかりと回されている跡部の腕がなければ、その場に倒れてしまいそうだった。
「次は勝つ」
 名残惜しそうに離れた唇が、はっきりとその決意を告げる。
「きみは一瞬だって負けてはいないよ」
 そう答えようとしたの言葉は、声にならなかった。
 の唇は、再び触れてきた跡部に酔わされてしまったから。




*あとがき*   ちょっと趣味丸出しで過去話などを入れてみたら終わらず……そしてなぜかあまり甘くなってないような気がします。気持ちが通じ合ってお互いワガママ言わなくなったからか……(汗)