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 跡部は再びあの絢爛なパーティー会場へ戻るだろう、光り輝く彼にとても相応しい場所へ。
 そう思っていたのに、跡部が立ち去る靴音は一向に聞こえてこなかった。それどころか、が横になっているベッドが微かに揺れたような気がする。
 続いて聞こえてきた深いため息と、衣擦れの音。
 が恐る恐る振り返ると、ベッドの端に上着を脱ぎ捨てた跡部が腰を下ろしていた。当然ながら背を向けている跡部の、その表情は見えない。だがその全身から、不機嫌な空気を漂わせているのは間違いない。
 の失態は、跡部の予定外だったのだろう。
 はゆっくりと身体を起こした。少しの間だけでも横になったせいか、ひどいめまいはだいぶ治まっていた。
「……すまない。でもおかげでだいぶ楽になったから、景吾は、会場に戻って――」
 あの会場を思い出したとき、再びを軽いめまいが襲う。船酔いではなく人酔いだったのかもしれない。
「いや、もういい。挨拶はしたんだ、義理は果たしただろう。俺も疲れた」
 そう言って、跡部がネクタイを引き抜く。
 跡部の口から疲れたという言葉が出たことが信じられなかった。跡部がそんな弱音めいたことを口にするとは。
 本当に跡部も疲れているのだろうか、それとものための方便なのか。
 なにも言えず、ただ跡部の背中を見つめていたに、背を向けたままの跡部から静かな声が零れた。
「悪かった」
 一瞬、なにを言われたのか解らなかった。
「……え?」
 の口から、自然と問い返す言葉が漏れる。左手を上げた跡部が、かき上げた髪を握りしめるのが見えた。
「これでも反省してんだよ。強引にお前を連れ回して」
 ひどくぶっきらぼうで、はき出すような口調だったが、その言葉の意味することは。
「――悪かったな」
 再び、低い声で告げられた言葉。
「けい、ご……」
 は、ゆっくりと跡部に手を伸ばした。
 迷惑をかけた自分を、軽率な行動を取った自分を、怒って、呆れているのだとばかり思っていた。けれど、そうではなかったなんて。
 心からわき上がってくるこの感情は――喜びだ。反省している跡部を前にそんなことを口にしたら、それこそ怒られるのかもしれない。けれど、どうしようもなく嬉しかった。
 ゆっくりと伸ばした指先を跡部の腕にかける。触れた一瞬、跡部が微かに身体を強張らせたのが伝わってきた。
 そのまま身体を寄せて、は跡部の背中に額をつける。
「景吾、ありがとう」
 心配してくれて、ありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう。そして――ぼくを選んでくれて、ありがとう。
 言葉にはできない思いが、皮膚を通して伝わればいいのに。体温とは違う熱が、自分のなかに目覚めるのをは感じた。
「――クソッ」
 突然、触れていた背中が消えた。揺れたの身体は、太い腕に抱きかかえられ、そしてそのまま、ベッドの上に倒れ込んだ。

 名前を呼ぶ跡部の声が、ひどく熱い。
 そしてそのまま耳に近づいてきた、熱く柔らかく、濡れた感触。
「……んっ」
 くすぐったくて、思わず身をよじる。けれど背中と腰にしっかりと回された腕が、離れることを許さない。けれどとて厭だったのではなく、反射的なものだ。跡部の唇が耳から離れてしまったとき、ひどく寂しさを覚えた。
 ギュッと抱きしめられているせいでの腕はほとんど動かせなかったが、それでも肘から下の少しだけ自由になる部分を伸ばして、も跡部へと手を回す。
 温かかった。自分のものか跡部のものか解らない鼓動が、心地いい。ずっとこのまま、この小さな世界で時を過ごしたいとさえ思う。
 再び頬に触れてきた柔らかい温もり。は目を閉じたまま、じっとそれを受けていた。
 跡部の唇はの皮膚をかすめるように移動しながら、こめかみに、瞼に、額にとキスを繰り返してゆく。優しい感触が嬉しくもあり、ひどくもどかしくもあった。
「……熱は、ねぇようだな」
 再び戻ってきた耳元で、跡部が囁く。
「いま……熱を、測ってた……のか?」
 跡部の言葉に驚いて、は思わず目を開けて問いかけた。跡部の顔は驚くほど近くにあって、が捉えることができたのは首筋とその柔らかい髪の色だけ。
「いや、触れたかっただけだ」
 あっさりと答えたその声には、先ほどの気落ちした様子など微塵も感じられない。いつもの跡部景吾ともまた違う、落ち着いた、優しいものだった。
「寝ろ」
 背中に回されていた腕が外されたと思ったら、頭を抱えられ、跡部の胸元に押しつけるようにして再び抱きしめられる。
「ん……あ、あの」
「安心しろ。具合の悪いやつを抱く気はねぇ」
 のなかを過ぎった疑問を正確に言葉にして、跡部は否定してきた。
「そうでなくても……お前経験ないだろ? 初めてはいろいろ手間がかかるしな」
 とて、はっきりと抱かれたいと思っていたわけではなかった。けれど跡部が触れてきたら拒めないのは解っていた。やはりそれは、期待していたということに他ならないのかもしれない。
 現に、手間がかかると言われ、の心は急速に冷えていった。跡部を煩わせない程度に、そういった知識や経験は必要なのだろうが、にはなにもないのだ。
「経験、あればよかったな…」
 が思わず呟いてしまった瞬間、は両肩を掴まれベッドに押さえつけられ、険しい瞳の跡部に見下ろされていた。
「ねぇほうがいいに決まってんだろ。気が狂う!」
 何が起こったのか、解らなかった。その剣幕に押されて、はただ跡部を見返すことしかできない。瞬きを繰り返すに、跡部はなおも叫んだ。
「お前が、誰か他のヤツとなんて――想像したくもねぇって言ってんだっ」
 怒鳴りつけられたのは、ひどくあまい告白。
 押さえつけられて感じた肩の痛みさえ、彼の思いの深さを感じさせてくれる。
「本当なら抱きたい、いますぐにでも。だが、こんななし崩しにするようなのはごめんだ。お前にとってもいい経験にならなきゃ、意味ねぇだろ」
 怒りをたたえて睨みつけてくる跡部の、その眼差しも声も――すべてが嬉しい。
 こんなふうに自分のことを、ここまで自分のことを思っていてくれたなんて。
 跡部に好かれているのは解っていた。激しい情熱を向けられていることも。けれどそれはただの執着心で――が傍にいて彼の言うことを聞けば、それで満足するのだと思っていた。
(見えてなかったな……)
 その明るい輝きの裏に隠された、彼の強い優しさ、深い思いも。
 はゆっくりと跡部の胸へと手を伸ばす。
 乱れた襟元から覗く跡部の素肌は、男のから見ても扇情的だ。きっとどんな女性も――いや、男性だって、思わず触れてみたくなるだろう。
 ここにいる男は跡部景吾で、他の誰のものにもならない。決して。けれどが彼に触れたいと思うことを、は臆さずに伝えていいのだ。跡部はそれを、に許すのだから。
 シャツ越しに、跡部の心臓を撫でながら、はうっとりと呟いた。
「ありがとう、景吾。好きだ……」
 跡部が苦笑するように息を漏らす。
「……煽るんじゃねぇよ」
 言うなり、覆い被さってきた跡部がを抱きしめる。
(なにがあっても、景吾を信じる――)
 もう迷わないと、強さを感じさせる温もりのなかでは誓った。




*あとがき*   一日目終了。残りの二日も書きたいんですが、中途半端にするよりはいったんここで終了しておこうかなとも思ってます。でも突発なので書きたくなったら書きます(笑)