きみのなまえをくちにする 7
「――話がある。外せ、忍足」
屋上の重い扉が閉まりきったあと、跡部が低く告げた。 「断る」 忍足の即答が、一瞬信じられなかったのはもだ。 「なんだと…?」 不機嫌に眉を吊り上げた跡部と、うっすらと不敵な笑みを浮かべている忍足とが対峙する。 「忍足――二度言わせるな」 跡部の声がいっそう低く響いた。 「何度言うたかて同じや――ここを動く気はあらへん」 忍足の声は軽やかだったが、その瞳の奥に強い意志を秘めて、跡部を見返していた。 「お前……どうなるか、分かってるんだろうな?」 一触即発のこの事態に、は慌てて立ち上がり、忍足の左隣に立った。跡部を真っ直ぐに睨んでいる忍足を落ち着かせるように、その腕に軽く手をかけると、も跡部を見返した。 「忍足がいると話せない話なら、聞くつもりはない」 チッと跡部は盛大な舌打ちをしたが、やがて渋々と譲歩したようにゆっくりと近づいてきた。そしての前で、その歩みを止める。と忍足の視線を避けるように伏せていた目を、跡部は意を決したように上げ、だけを見ていた。 「――もう一度、テニスをやる気はないか?」 「え……?」 は、動けなかった。 「跡部! 本気で言うてるん? サンの目のことは知っとるやろ? それに――いや、跡部は知らんことやな」 言いかけた言葉を切り、忍足は勝ち誇ったような態度をとる。跡部はそんな忍足にチラリと一瞬だけ視線をやると、またその瞳をへと戻した。 「――その左手の親指が動かないことなら、知ってる」 「な…な、んで――それ、を――」 忍足の腕の上に置いていたの右手に、知らずにギュッと力が込められる。 「調べさせた」 跡部は端的に答えた。 「わー、えげつな」 呆れたように呟いた忍足を、跡部は睨んで黙らせる。 「ラケットを握れなくても、テニスはできるだろう?」 どうして跡部がこんなことを言うのだろう? それに……このような会話を、以前した覚えもある―――― 「……どういう意味?」 は訝しげに聞き返した。 「監督と話して、許可はもらってある。テニス部に入れ、――コーチとして」 「な…………」 「なに言うとんねん!」 驚きのあまり、言葉がでなくなってしまったをフォローするように、忍足が叫んだ。そこでようやく、跡部が忍足のほうへ顔を向けた。 「不服か? にはそれだけの力がないと思うのか?」 「そうやない――そんなことあらへん、けど……」 忍足とての実力は認めている。この氷帝テニス部のコーチになってくれるのならば、忍足にとっても歓迎することだ。けれど大事なのは――俯いてしまったから忍足に伸ばされた右手が、忍足の左腕の上で、ずっと震えているというその事実だった。 「同情なら、いらない。テニスは、やめたんだ――」 確認するように一語一語はっきりと言うの手が、忍足の腕をギュッと掴んだ。忍足はその手を握り返したかった。いや、必死で立っていると分かるその身体ごと、抱きしめたかった。 「嘘を吐くな」 「嘘じゃない。もう、面白くなくなった。好きじゃないんだ――」 俯いたままのに、跡部は右ポケットから一枚の写真を取り出し、その眼前に突きつけた。 「これ…は――」 顔を上げたの瞳は、驚きに見開かれている。忍足も顔を近づけ、その写真を覗き込んだ。 それは、集合写真のようなものだった。を真ん中に、様々な人種の子供達が周りを取り囲んでいる。写真に写っている子供達もも、みんな笑顔で、そして――子供達の手には、ラケットが握られていた。 「リハビリ先の病院で、ガキにテニス教えてたそうじゃねーか」 静かな跡部の言葉に、忍足がもう一度写真を見ると、端にいる子供は車椅子に座っていた。 「……こんなんまで調べたんか。優秀やなぁ、跡部の部下は」 忍足のからかうような呟きにも、跡部は反応しなかった。跡部は、ただだけを見ていた。 「テニス、嫌いになったなんて嘘だろう? やれよ、――」 命令口調な言葉とは裏腹に、跡部の声はひどく優しかった。 (ダメだ――もう、ダメだ…………) の瞳から、堪えていたものが溢れ出した。忍足の腕を掴んでいた掌も、力なく落とされる。 「どうして――どうして、そんなこと言うんだ……? どうして……?」 (『勝ってくださいよ、先輩。俺のために――』) 一年前、跡部にそう言われる前から、気づいてはいた。は――跡部のためなら、なんでもしようと思っていることに。けれど、いまは辛うじて叶えることができても、この先――跡部の願いをすべて叶えられるほどの能力が自分にはないことも分かっていた。跡部の傍につき従うようにいる樺地を見るたびに、その思いは強くなっていった。 跡部のためならどんなことでもする――けれどいつか、能力のない自分は捨てられてしまうだろう。そのときに納得して離れるには、の抱えている思いがきっと邪魔をする。だから――だから、なにも言わずに離れた。この思いさえなくせば、跡部の傍にいることくらいはできるかもしれないという希望もあった。けれど………… 「サン――」 ぽろぽろと涙をこぼすに、忍足はなにもできない。けれどなにもできずにいたのは、跡部も同じだった。 「――イヤなら、いい」 ぼそりと呟いて背を向けた跡部を、忍足は信じられない思いで見ていた。本当にこれがあの跡部景吾なのだろうか。こんな力のない声と、覇気のない背中が。忍足は知らないうちに拳を握り締めていた。 「ホンマか? ホンマええんやな? サン――俺がもろても」 「な――! そんな話をしてるんじゃないだろう!」 すぐさま振り返った跡部が、怒気を込めて叫んだ。 「そおゆう話やん。結局、跡部はサンの傍にいる気は、ないてことやろ?」 「違う!」 「なにが違うんや――サン、これで分かったやろ?」 忍足はに向き直ると、その手首を掴んで引き寄せた。理解できない展開と不安に、の涙は止まっていた。 「忘れさしたる言うてんのに、俺とつき合う気はない言うて……アンタはそうやってひとりで抱えていく気なんやろうけど、そんな価値はない。そんなアホらしいこと、俺がさせへん。いい機会やん。いま! ちゃんと失恋しいや!」 忍足の言葉に――忍足に腕を掴まれていなければ、はその場で崩れ落ちていただろう。忍足に支えられたは、力なく首を左右に振っていた。その瞳からは、再び涙がこぼれ始める。 跡部はただ、その光景を見ていることしかできなかった。そんな跡部に、忍足が冷ややかな視線を向ける。 「ここまで言うてもまだ分からんのか…? ジブン、かなり頭悪いんと違うか?」 「なんだとぉ!」 条件反射的に叫んでから、跡部も混乱する思考を整理しようとした。は、なにを泣いているんだ――? 弱々しく首を振り続けるに、忍足が先ほどとは打って変わった優しい口調で言った。 「サン――死ぬかもしれへんと思ったとき、いちばん会いたなったヤツの傍におるために、帰ってきたんやろ…?」 忍足がにそう告げた言葉が、跡部にひとつの結論を出させた。いままでの忍足の言葉からも推測はしていたのだが、それが導き出せなかったのは、跡部にとってありえない答えだったからだ。 「俺――、なのか?」 信じられないまま呟いた跡部の声に、がすぐさま顔を上げた。 「違う! 違う! 跡部のことなんかじゃない!」 泣いたままの顔で、必死に叫ぶ。 「――」 「違う!」 どうして気づけなかったんだろう? いままで自分は、なにを見ていたんだ――跡部は、ゆっくりとに近づいていった。 「――」 なにも見ていなかった――見えていなかった――はこんなにも、真剣な瞳で自分を見ていたのに。 「ちが――」 引き寄せられるままに近づいていった跡部は、そのまま――忍足から奪うように、を抱きしめた。 「な…っ! 離せ! はな、せ…!」 息をするのも苦しいかもしれないほど抱きしめて、跡部はその耳元で囁いた。 「愛してる――」 一瞬で、が身体を強張らせたのが、触れているすべての細胞から伝わってくる。 「愛してる、――俺の傍にいろ」 「嘘だ……」 跡部の肩に押し付けられた唇から、弱々しい声が聞こえる。 「本気だ。お前だけだ」 「――嘘だ。ぼくは、お前なんか嫌いだ」 力の入らない指先が、必死で跡部の身体を押し戻そうとしている。 「お前の嘘は、もう信じない」 「嘘じゃ――嘘じゃ……」 「サン、命かけたんやし、素直にならなあかんよ」 忍足の声が、の背後で明るく響いた。 「サンには、幸せになってもらいたいんや。たとえ相手がこんな――…。こんな男で、ホンマ幸せになれるん?」 「忍足!」 睨みつけた跡部に、忍足は大げさに肩を竦めて見せた。 「はいはい、フラレ男くんは退場させていただきますよって」 遠ざかっていく忍足の足音に、が顔を上げる。 「待って、忍足!」 押し戻そうとするのではなく、跡部の腕を掴んで体勢を立て直そうとしているのを見て取って、跡部はを抱きしめる腕を緩めた。 「ありがとう、忍足。でもぼくは――ぼくは別に、幸せになりたいわけじゃないよ。跡部のことは――見ていられれば、それで満足なんだ」 の言葉に、跡部は自分の頬が緩むのを感じる。まさかの口から、そんな言葉が聞けるとは。しかも、自分の腕の中で。 「――可愛いこと言ってくれるじゃねぇか」 そしてもう一度抱き寄せようとした跡部の腕から、の身がするりと抜けていた。はそのまま一歩後ろへ下がると、泣いた跡の残る瞳で、跡部を見上げて微笑んだ。 「だから、跡部と恋愛ごっこする気はないから」 の言葉が理解できなかった跡部は、手を伸ばすのが遅れた。その隙には身を翻し、屋上の扉へと向かう。そこには、扉を開けて待っていた忍足がいた。と忍足は扉をくぐり、屋上には跡部だけが残された。 「可愛いカオしてよーやるわ」 並んで階段を下りながら、忍足が噴出すのを堪えるように言った。 「これで一生、跡部はサンのこと追いかけるな」 まだ泣きはらした跡の残る赤い目で、が微笑んでいた。 「一生は無理だろう、忍足。でも……できる限り追いかけてもらうのも、悪くないな」 そんなふたりがちょうど一階分の階段を降りきったところで、屋上の扉が開く音が聞こえた。 「! 忍足!」 不機嫌な跡部の叫び声に、と忍足は目を合わせた。 「とりあえずいまは逃げておこう」 「賛成や」 ふたりは笑いながら階段を駆け下り始めた。 先のことは考えない。 だって大事なのはいまだから。 学校という枠に守られた大切な一年を、大切に過ごそう。 後のことはそれから考えればいい。 焦ることはない。 だって――跡部のことは、一生見ていくつもりなのだから。 END back to index *あとがき* いわゆる恋人同士になるハッピーエンドでないことに不満を覚える方もいらっしゃるかもしれませんが、はじめからこのラストにしようと決めてました。跡部の、恋愛に関しては未熟な部分を書いてみたかったといいますか。これからの跡部の成長次第で、ハッピーエンドにもバットエンドにもなると思います。 なにはともあれ、お疲れさま>忍足(笑) |