きみのまぶたにふれてみる(後編)
忍足から受け取った鍵がどこのものか、跡部も気がついていたようだ。どちらからも言葉を交わさないままでも、ふたりの足は部室へと向かっていた。
たどり着いた扉の前でが鍵を鍵穴へと差し込んで――一歩後ろに控えていた跡部を振り返った。 「――入っていいか?」 先ほど部外者だと言われたことに腹を立てていたわけではないのだが、やはり部外者である自分が跡部を招き入れるように扉を開けるのには抵抗を感じた。 「あーん? いいんじゃねぇの?」 跡部の口調は、いまさらなに言ってんだとでもいうようなもので、なぜだかそれに少しだけほっとして、は扉を引いた。先に跡部を入れ、続いても室内に入る。 扉をゆっくりと静かに閉めたの背に、跡部の低い声がかかる。 「ふたりきりになるのを避けてたお前が、宍戸のためには――か?」 「なにを言ってる……?」 が振り返ると、跡部は壁に寄りかかって腕を組んだまま、じっとを見つめていた。目を逸らしてしまいそうな気持ちを必死で奮い立たせ、跡部と視線を合わせたままは続ける。 「学校でふたりきりになれるほうがおかしいだろう? こんなふうに――わざと状況を作らなければ」 の言葉に、跡部は皮肉そうに笑う。 「その“わざと”作った貴重な時間でなにを言いたいんだ? えぇ? 俺は事実しか言ってねぇーよ。お前がなにを言ったって、宍戸の負けは変わらねぇだろうが? それとも、お前が頼めばなんとかなるとでも思ってやがるのか?」 「そんなこと思うわけないだろう。ぼくがテニス部を知らないとでも?」 「じゃあなんだ?」 「……彼が負けた事実は変わらない、それは解ってる。でもぼくは――ぼくはただ……」 跡部の目を見たまま続けることはできず、とうとうは眼を伏せて言葉を切ってしまった。けれど跡部が先を急かすことはなく、少しの沈黙のあと、が呟いた。 「……きみの口から、あんな言葉を聞きたくなかったんだ」 「あんな? 事実だろうが?」 「そうだけど、でも――宍戸は、このままで終わるヤツじゃないと思う。きっと挽回するための努力を必死にしているはずだ――」 「だから? いまさら足掻いたって遅せーよ。勝つための努力なら、負ける前にしなきゃ意味がねえ。負けなきゃ必死になれないようなヤツは、氷帝にはいらねぇんだよ」 「敗者切り捨て……」 は呟いた。その厳しい掟は、確かに理にかなっているのだ。『あとで』などという甘えはない。『いま』全力を尽くさなければ、意味がない。 「そうだ。よく解ってんだろーが」 「でも――」 は、伏せていた眼をゆっくりと上げた。 「でもそれは監督の方針だろう? 跡部はそれに、黙って従うというの?」 の言葉に、跡部の目付きが不機嫌そうに鋭く変わる。 「……キサマ、なにが言いたい?」 大抵の人間なら、跡部にこんなふうに凄まれたら、躊躇してしまうだろう。けれどは、戸惑うこともなく、跡部を見つめ返しながら静かに答えはじめた。 「確かに氷帝テニス部の監督は榊先生だ。先生の方針が絶対だと思う。でも――だからって、そのまま鵜呑みにすることが、いいことだとは思えない。特に――テニス部の頂点に立っている人間が」 一歩一歩、壁を背にしていたが、ゆっくりと跡部のもとへ近づいていく。跡部の正面に立ったは、その身長差から跡部を見上げることになる。それでもただ跡部だけを見ながら、は続けた。 「跡部――解って欲しいんだ。ミスをしない人間はいない。負けたことから、学べるヤツもいる。確かに、負けなければ解らないというのは未熟なんだと思う。でも未熟だからこそ、それを乗り越えることで成長できると思う。これから先――きみはテニス部以外でも、他人より上の立場になるはずだ。だから解って欲しい。負けた人間が――そのあとどうするのかが重要なんであって、それを見届けた上で、その人間に対する評価を下して欲しい。跡部……みんながきみのように行動できるわけじゃないんだ。一度負けた人間を、負けたという事実だけで、否定しないで欲しい――」 まるで祈るようなの言葉に、跡部が静かに告げた。 「それは、お前のことか――?」 「え……?」 「一年前――テニス部から、俺の前から逃げ出した、お前のことかって聞いてるんだよ」 「そ……」 言葉が、でない。 そんなことを言われるとは思っていなかった。そんなつもりで話し始めたはずではなかった。 でも――考えてみれば、そうなのかもしれない。跡部に否定された宍戸に、無意識に自分を重ねていたのかもしれない。 だとしたら、どうだ? 逃げ出した、敗者である自分は、なにを学んだ? どう行動した? そしていま、なにをしている……? 「そうだ……ぼくはきみに意見できるような人間じゃなかった」 ぼくは逃げ出した――そして戻ってきた。けれどそれは、成長したからじゃない。もう一度跡部に会いたい――そんな自分のエゴからだ。跡部のことを思うなら、帰ってくるべきじゃなかった。こんな気持ちを抱えたまま跡部の傍にいたら、いつか迷惑をかけることになる――そこまで解っていても、回避することを選べないでいる。そんな自分が、なにを言える……? 「……ごめん」 ようやく絞り出した声は、か細く震えた。 「ごめん、ぼくは――違う。ぼくはなにも学んでない。ぼくを、否定してくれて構わない。でも……宍戸のことは、榊先生の判断だけでなく、きみの目で見た、きみ自身の判断を下して欲しい。勝手だけれど、きみにはそういう人間でいて欲しいんだ――」 跡部を見上げることなどとうにできず、その姿をの一部を視界に入れることすらできず、は目を閉じた。ここから、逃げ出さないようにするのが精一杯だった。 「……ホント勝手だな」 聞こえてきた跡部の声に、はギュッと手を握り締めた。罵られても、殴られても構わない――カツッと足音が響き、跡部が一歩近づいたのが解る。 「お前こそ解ってねぇ」 頭上から聞こえてきた跡部の声は、が覚悟していたものとは違い、静かで穏やかだった。 「俺の前から逃げ出したのは間違いだった――それに気づいて戻ってきたのが、お前の答えってことだろう?」 「ぼくの……答え……?」 跡部に言われたことがすぐには理解できず、は呟いた。 「そうだ。もう二度とこんな――つらい思いはさせねぇ」 「あ……」 頬に触れられた感触に、が反射的に瞳を開ける。顔を上げられずにいるの頬をゆっくりと跡部の指先がたどっていき、そして再びは眼を伏せた。その伏せた瞼の上を、跡部の指がゆっくりと滑っていく。の左眼にうっすらと残された傷跡をなぞるように。 「あと、べ……」 耐え切れずに、は跡部の名前を口にする。 「言えよ、――俺のことが好きだって。俺はもう――お前を手放す気はないぜ」 手放す気はない――跡部の口から、そんな言葉が聞けるなんて思ったこともなかった。好きだと――跡部のことが好きだと言ってしまえたら、未来は変わるのかもしれない………… 「跡部……」 認めて、どうなる――? 好きだ、よかったね、で終わる話じゃない。いま触れられている指先の温もりをもっとと望んでしまっているように、一度その温かさを手に入れてしまったらもっともっと多くを望んでしまう。そしてそこから離れることなど、できなくなってしまう………… 「そんなつらそうな顔、するな――」 跡部の言葉とともに、の身体が引き寄せられるように抱きしめられていた。 なによりも望んでいた温もり――けれど、なによりも知りたくなかった、知っては、いけなかった―――― 「……、泣かせたかったわけじゃねぇ。泣かせたくは、ないんだ――」 耳元で聞こえる跡部の囁きに、は自分が泣いていることに気づく。もう、押さえ切れない――は、跡部の肩に顔を埋めた。 「――」 耳元で囁かれる優しい声と、髪を撫でていく優しい指――そして、ときおりこめかみに触れていく優しい感触――跡部の腕の中にいるのでなければ、立っていることもできなかっただろう。 「――」 何度目かに呼ばれた名前に、がゆっくりと顔を上げる。いままでに見たこともないほど近くに跡部がいる現実に、驚いたが身体を強張らせる。けれど跡部の腕から逃れるほどの力も出せずに、再び呼ばれた名前に力が抜けていく。 「跡部……跡部……」 なにか言おうとしていたわけても、言いたかったわけでもない。ただ、跡部の名前だけが口から零れる。 「――」 囁いた跡部の唇が耳に触れ、こめかみに触れ、そして、涙の跡の残る目元に繰り返し触れていった。 「景吾って呼べよ、――」 手足も意識もすべて――どこか自分からは遠く隔てられた場所にあるかのように掴めない。抗うことのできない熱に浮される―――― 「……」 「けい、ご……」 お互いの名前を口にした唇が、自然と引き寄せられる――そのときだった。 『おふたりさーん、五時間目の授業始まるでー』 明るすぎる声と、ドンドンと扉を叩く音が、ふたりの空気を消し去った。 「煩せぇ、忍足! サボりだ!」 を抱いたまま、跡部が扉に向かって叫ぶ。けれどそれはを現実に引き戻すのに充分だった。 「そんなわけにはいかないだろう――離せ」 いつもの口調を取り戻して、が跡部の胸を押す。その一瞬の変わりように虚をつかれた跡部の腕から、は易々とその身体を抜き、踵を返して扉へと向かう。 「――! おい!」 跡部の制止も聞かずに、はドアノブに手をかけた。その手を一瞬止め、振り返る。 「跡部――ありがとう」 なにに対しての礼なのか、口にしたも解らなかった。言われた跡部も、不機嫌そうに顔を顰めたままだ。けれど、それ以外になにか言うべき言葉も見つからなかった。なにも言わずに立ち去るのが、イヤだっただけなのかもしれない。 跡部の言葉を待たずに、は扉から抜け出した。 「うーん。やっぱお邪魔やったかなぁ?」 通路に出ると、にやけ顔で立っていた忍足が悪びれた様子もなく言ってきた。 「うん、そうだな。いいタイミングでもあったし、悪いタイミングでもあった」 は答えて、そして歩き出す。の言葉と、その目元に残る涙の跡に気づいたのだろう――忍足が慌てて追いかけてきた。 「え? あ、ホンマ? あちゃー」 「いや、助かったよ、忍足。ありがとう」 足音で忍足が着いてきているのは解ったから、は振り返らずに言った。 「逃げ道は、まだ残しておかないと」 口には出していたが、それは忍足に向けていった言葉ではなかった。 まだ、もう少し時間が欲しい。なし崩しに流されるのではなく、自分の意思で決めたという覚悟の持てる時間が。 「いつまで逃げられるか、もう解らないけれど」 言葉の内容とは裏腹に、は嬉しそうに微笑んでいた。 END
back to index *あとがき* 自分では思っていたより色っぽい雰囲気にできたと思うのですが、思っていたよりお話が……進行してる? この人たちもうすぐくっついちゃうのか?(ドリームにおいてあるまじき発言です) |