光射す部屋 (後編)
次の日の昼休み――すでにお弁当もたいらげてしまったあと、リョーマは自分の席で目を閉じた。昼寝ができるような気分ではなかったが、なにかをする気分ではもっとなかった。
しばらくして、ザワッとクラスがどよめいたことにもリョーマは気を留めなかったが、「越前! 越前! 大変だぞ! 起きろよー!」と、堀尾に肩を揺さぶられては、目を開けないわけにはいかなかった。 「大変だぞ、越前! ――部長が呼んでる」 どうせまた大げさに騒ぎ立てているだけだろうと思っていた堀尾から告げられた言葉に、今回ばかりはリョーマも驚いた。 「え…?」 「いーからほら! これ以上、待たせるなって!」 堀尾に引っ張りあげられるように立ち上がり、押された先――開けられた教室のドアの向こうの廊下に、確かに手塚国光が立っていた。 「なんか、用スか?」 三年が一年の教室に来ることはそう珍しいことでもないとはいえ、相手がこの、生徒会長でありテニス部部長である手塚国光だというのは、堀尾が飛び上がってもおかしくない事実だった。 「越前、話がある。ついて来い」 手塚はそれだけ言って、リョーマに背を向けて歩き出してしまう。正直行きたくはなかったが、ここでクラスメイトの視線に晒されるよりはマシだと判断した。 手塚の歩みが止まった場所の上に書いてあったのは、『生徒会室』の文字だった。なんでこんなところに――とリョーマが思ったのを読んだわけではないだろうが、「ここなら邪魔が入らない」と言って、手塚は扉を開けた。 手塚に続いて足を踏み入れた生徒会室には、もちろんいままで入ったことはなく、リョーマは少しだけ興味を抱いて周囲を見回す。ぐるりと壁を囲んでいる棚には、なにかの資料のようなものがぎっちりと詰まっていて、室内は意外と狭かった。いくら気兼ねなく話せるからといって、こんなところで手塚とふたりきりというのは、あまり歓迎したい事態ではない。ただでさえ――昨日のことを思い出してしまうのだから。この人に嫉妬した、醜い自分の行動を。 「なんスか? 話って」 さっさと終わらせてしまいたく、リョーマは手塚の背中に声を掛けた。 「昨日、と一緒だったそうだな」 手塚の言葉に、リョーマはギクリと身体を震わせたのだが、言ってから振り返った手塚には気づかれなかったようだ。 「そのとき、なにか変わったことはなかったか?」 手塚の質問を、リョーマは頭の中で繰り返した。つまりこれは――手塚は昨日のことを知らないという意味だ。 「なにかって?」 リョーマはとぼけて返した。 「いや、気づかなかったなら、いい」 話はそれだけだと言わんばかりに再び手塚は背を向けた。どうしようかと迷ったのは一瞬だった。目の前の人物は、リョーマが欲しい情報を握っている―――― 「あの人――泣いてた」 リョーマは手塚の様子を伺いながらゆっくりと口にした。 「昔のこと、思い出したって」 「そうか……」 答える手塚の声はいつもと同じく平静そのものだったが、その両方の拳がなにかを抑えるように震えているのをリョーマは見逃さなかった。 「ねぇ、なにがあったの? 二年前」 「悪いが、俺の口から話せることではない」 リョーマの問いに、手塚は鋭く返してきた。けれどはじめから、簡単に教えてもらえるとは思っていない。 「ふうん、俺は話したのに」 「それとこれとは別だ」 不機嫌そうに言い放つ手塚にも、怯むつもりはなかった。 「じゃあ、センパイ本人に聞こうっと――」 「越前!」 すでに直接聞いて、話してもらえなかったことは、教える必要もない。 「同じ図書委員だし、会う機会は多いんだよね。気にならないわけないじゃん」 「興味本位で探っていい話題じゃない」 「そんなふうに言うから、逆に気になるんスよ」 一歩も引こうとしないリョーマに、手塚は軽くため息をつきながら眼鏡を押し上げた。 少しの沈黙のあと、手塚が口を開いた。 「二年前に――の家族がひとり、亡くなったんだ」 「……へぇ」 相づちを打つのが遅れた。あんな泣き方をしていたんだ――なにかあるとは思っていたけれど。 「もうひとつだけ教えてくれない? その、死んだ家族って――誰?」 それを聞かれることは予測の範囲内だったのだろう。その姿は不機嫌そのものだったが、それほど躊躇わずに、手塚は答えた。 「――の従兄弟だ」 「ふうん、イトコ……ね」 知りたかった事実の重大さを、リョーマはかみ締めていた。 その日の放課後は、委員会があるわけでも掃除当番でもなく、すぐに部活へ行けるはずなのに、コートへ向かうリョーマの足取りは重かった。 手塚から聞き出した事実を、あれからずっと思い返している。どうしたらいいのか、どうしたいのか――ひとつだけ分かっているのは、もうこれ以上あんなふうにを泣かせたくないということだけだった。 「そういえば……」 昨日のの姿を思い返して――リョーマは気づいた。先ほどまでの歩き方が嘘のように、リョーマは反対方向へ駆け出していた。 たどり着いた図書室には、相変わらず人気がなかった。カウンターにも誰もいない。少し席を外しているだけだろうが、そのほうが好都合だった。 リョーマは真っ直ぐ奥の部屋へ向かうと、その扉を押し開けた。差し込む光だけの薄暗い室内を、昨日と同じく静かに歩く。 「確か……この辺」 三つ目の棚の、が立っていたあたりを、じっと見回す。棚にズラリと並んでいるのは、この学校の卒業アルバムだった。昨日、拾うときに見た数字は、いまより五年前のものだったはずだ。 年号の書いてある背表紙にひとつづつ指を滑らせながら捜していったリョーマは、目当てのものを見つけ、引き抜いた。巻末にあった卒業生名簿に、という名字の人物がいるのか捜してみる。従兄弟ならば、名字が違う可能性もあるとは思いながら。 不意に感じた人の気配に、リョーマは振り返った。 「越前くん…」 そこにいたのは、驚いたような、困ったような――曖昧な表情を浮かべただった。 「また、思い出しにきたの?」 リョーマは手にしていたアルバムを少しだけ掲げて見せて言った。 「それ――」 の顔は、曖昧に浮かべていたものすら消えて、凍りついてしまったように強張っていた。 「部長から聞いた。二年前に死んだイトコって、このなかにいるんだ?」 アルバムを手にしたまま言うリョーマに、は瞳を閉じて頷いた。 「…うん」 伏せられた睫の先を、涙が伝う。 「――ごめんね」 謝りながら、は慌てて目元を拭う。 泣かせたかったんじゃない。謝らせたかったんじゃない。泣いて欲しくない。けれど―――― 「いいじゃん、泣いたって。それだけ、好きだったんでしょ?」 「え――…?」 リョーマの言葉に、擦るように頬に当てていたの手が止まる。 「でも、だって、あの……」 「なに?」 「その……気持ち悪く、ないの?」 「どうして?」 「だって……その、男の人だよ。ぼくは――男の人を……」 リョーマはアルバムを閉じて、に差し出した。 「どうしてそれが気持ち悪いの? 男だって女だって、人を好きになるのはフツーのことだと思うけど」 は躊躇うように、差し出されたアルバムとリョーマを見比べていたが、やがてその手を伸ばした。 「そう――…」 アルバムを手にし、が呟く。の瞳から、再び涙が溢れ出した。 リョーマはそっとの首筋へと手を伸ばし、強くなりすぎないように気をつけながら引き寄せた。はされるがまま、リョーマの肩口に顔を埋めた。 時おり震えるの肩が、が泣いていることをリョーマに知らせていた。自分の小さい身長を、いまほど恨めしく思ったことはなかった。よりも背が高ければ、しっかりと抱き寄せられるのに。 「……ありがとう、越前くん」 少しして、がゆっくりと顔を上げて、その身体を恥ずかしそうに離した。 「リョーマ」 離れていくことを寂しく思いながら、すかさずリョーマは口を挟んだ。 「名前で呼んでくれない? そのほうが呼びやすいでしょ?」 というより、呼んで欲しい。 「……リョーマ、くん」 おずおずと名前を口にしたに、不満気に呼びかける。 「リョーマ!」 「……リョー、マ?」 「そ」 満足気に頷いてみせると、も、まだ赤みの残る目で微笑んだ。 「ありがとう――リョーマ」 言い直したに、リョーマはニヤリと笑ってみせる。 「別に。下心あるし」 「え――?」 聞き返したには答えず、リョーマは本棚を背にその場にしゃがみ込んだ。不思議そうに見下ろしているに、自分の隣の床を指し示す。は軽く笑いながら、リョーマと同じように腰を下ろした。大事そうに、アルバムを抱えながら。 「テニス部だったんだ――」 膝に乗せたアルバムをじっと見つめながら、が沈黙を破って呟いた。 「ぼくは一人っ子だったから、五つ年上の彼のことは兄さんみたいに思っていて――兄さんみたいに思っていたと、思っていたんだ。彼が女の子と一緒にいるのを見るまでは……」 淡々と話すの横顔を、リョーマは静かに見つめていた。 「こんな感情を持つのは間違ってる――忘れなきゃ、消さなきゃって思ったら、彼とうまく話せなくなってしまって――」 辛そうに顔を歪めて、は言葉を切った。 「それでも彼は優しかったよ――中学校で、なにかあったんじゃないかって、かえって気遣ってくれて……。でも、優しくされるたびに、この気持ちが知られたらと思うと、怖くて――顔を合わすことすらできなくなった……」 アルバムを持つ、そのの手が震えていた。 「このままじゃダメだって、分かっていたのに――思えば思うほど、なにもできなくなって、そんなとき――ランニング中の彼に、酔払い運転の車が――」 とうとう――堪えていたものが堰切れるように、の瞳から涙がこぼれ出した。 「ぼくがこんな気持ちさえ持たなければ、もっと彼と話せたのに。もっと楽しく過ごせたはずなのに――。謝りたいのに、もう謝ることもできない。忘れなきゃいけないのに、でも…忘れることなんて、できない――」 顔を伏せたが、静かに泣き続ける。昨日と同じ――声を抑えることで、気持ちまで押さえ込もうとしているような、そんな泣き方だった。 「ねぇ……忘れなくたっていいじゃん」 リョーマは、そびえたつ本棚を見上げながら呟いた。外から差し込む光のほとんどはその棚にある本に遮られてはいるけれど、暗闇になることはなく、濡れたの頬を照らしている。 「確かにさ、いまからはなにもできないけど。でも死んじゃった人の思い出ってこれから増えることないんだし。覚えててもらったほうが、オレなら嬉しいけど。大事に思ってくれてたんなら、なおさらね」 その頬に手を伸ばせないのをもどかしく思いながら、リョーマは続けた。 「どうせ生きてたら、覚えることなんかいっぱいあって、イヤでも昔のことなんて忘れていくんだから」 「でも……」 戸惑うように言葉を切って、はまた俯いてしまう。けれど再び、その顔は上がる。 「……いいのかな?」 薄い光に照らされながら、は静かに、そう呟いた。その目元はまだ濡れていたが、もう新しく溢れてくることはなさそうだった。 「いいんじゃないの」 当たり前のように答えるリョーマに、は濡れた頬を拭いながら微笑んだ。 「二年前に越――リョーマに会えてたら、こんなに悩まずに済んだのかな?」 「どうかな? そうやって悩んだからいまのがいるんでしょ? 俺、いまのが好きだし、そうでなければ、出会ってても意味ないよ」 そう――二年前から出会えていたらと思わないこともなかった。けれど、気づいた――大事なのはいまで、そして、これからどうするかなのだ。死んだイトコには少し悪い気もするけれど、でも、二年間傍にいてなにもできなかった人たちには、遠慮なんてする気はない。 「ただ――そんな顔で泣かれるのは、やっぱ心配だから、早くたくさん新しい思い出を作るのに、協力させてもらうよ」 そう言うと、リョーマは素早く、まだ泣きあとの残るの頬にキスをして立ち上がった。 「とりあえず、都大会見に来て」 「え――越前くん!?」 慌てた声を上げるを可愛いと思いながら、リョーマは再び呼び方を訂正する。 「リョーマ! で、返事は? 」 意図したわけじゃなかった。呼びたいと思っていたら――いつのまにか口にしていた、の名前。 「……分かった。見に行く。無様に負けたりしたら、承知しないからね」 「誰に言ってんの?」 不敵に笑って、リョーマはに手を差し出した。差し出されたの手をしっかりと握る。 一緒にそのアルバムをしまうのだ。 これ以上、ここでを泣かせない。 きょうはふたりで、この部屋を出るのだから。 END
back to index *あとがき* 部長も好きだったんだろうなぁと思いつつ、若さゆえ(?)の無鉄砲さで、この勝負は越前の勝ち。 |