穏やかな風
「おはよう手塚。都大会予選の青学の試合って、何時から始まるんだ?」
「……見に来るのか?」 朝練を終えて教室へ入った手塚は、目が合うと笑顔を見せて近づいてきたにそう問われて、驚いて問い返した。手塚は知っていた──が二年前に事故で亡くなった従兄弟に恋心を抱いていたことを。テニスが嫌いなわけではなく、むしろそれまではよく練習や試合を見に来ていた。けれど元青学テニス部レギュラーだった従兄弟を思い出させる青いジャージを見るのが辛いらしく、あのとき以来テニス部に顔を出す回数は減り、試合を見に来ることも全くなくなってしまったのだった。 手塚は心から驚いていたが、もちろんそれが顔に表れることはなかった。それに気づいているのかいないのか、は恥ずかしそうに微笑んで頷いた。 「うん。約束したんだ、リョーマと」 『リョーマ』とが名前で呼んだことに、手塚は眉を顰めた。 「越前と……?」 「そうなんだ。でもリョーマってば、人に見に来るように言ったくせに、開始時間を知らないんだよ。集合時間しか聞いてないからって」 聞き返した手塚の意図に気づくことなく、は再び『リョーマ』とその名前を口にした。それはとても自然な口調で、間違えて呼んだとは思えなかった。 手塚も、と越前が同じ図書委員であることは知っていた。そこでふたりが何を話したのかまでは知らないが、どうやら越前がに興味を持ってしまったことも。けれど当のは──なにかふさぎ込んでいるようだったのには気づいたが、どうやらまた亡くなった従兄弟のことを思い出しているらしく、そこに自分が踏み込んではさらに辛い思いをさせてしまうだろうと、手塚は見守ることしかできなかった。あれから──数日しか経っていないというのに。 「あれ、手塚も知らないの?」 考えに没頭してしまっていた手塚に、が不思議そうに聞いてきた。 「いや。開会式が九時からで、青学は第一シードだから……」 知っている知識を答えながら、手塚の胸のうちは穏やかではなかった。けれど手塚にできたのは、なんにせよが笑顔を取り戻したのならいいことだと思い込むことだけだった。 「──センパイ」 昼休み、昼食を食べ終えて図書室へ向かっていたを呼び止めたのは、階段を駆け降りてくる小柄な少年で。 「リョーマ」 は足を止めてリョーマが降りてくるのを待った。 リョーマが『センパイ』と付け足すように口にしたのは、ここが三年の教室のある廊下なため、周囲に三年生が溢れているからだろう。なぜなら、ふたりきりのときは名前で呼ばれているからだ。気がついたらリョーマに『』と呼ばれていて、はそれに違和感じるどころか自然と馴染んでいた。 逆にのほうは最初『リョーマ』と呼ぶことに照れを感じていたのだが、それが無くなるまでリョーマに名前を呼ばされた。何度も何度も──会うたびに、そして電話越しに。 三年と一年では教室も遠く、偶然すれ違うということはまずない。帰りに一緒に帰ろうにも、遅い時間までがひとりで待つことになってしまうし、それに──とリョーマの家は反対方向だった。 「これから図書室当番でしょ?」 リョーマがそれを知っているのは、昨日がメールで教えたからだ。会うことが難しいと解ったリョーマがメールと電話で連絡を取り合うことを提案して、も同意した。声が聞ける電話のほうがいいとリョーマに言われたのだが、やはり電話代を払ってもらっている身でもあるし──それに、電話では口にできないこともメールでなら気楽に伝えられる気がして、最近はのほうからよくメールを送っている。 「一緒に来る?」 「ん。っていうか、もうひとりの当番、オレ、だから」 リョーマはにやりと笑って、歩くことを促した。並んで歩きながら、リョーマは続ける。 「当番、変わってもらった。放課後は練習でできないから、その分昼休みにやるからって」 「そっか……やっぱり試合前は大変だよね」 の言葉を聞いたリョーマは、再び笑いながらを覗き込むようにして言った。 「全然。そんなの、と一緒にいるための口実に決まってるじゃん」 「リョ――」 言葉が続けられなかった。だって、まさか――そんなことを言われるなんて。 「? なに固まってんの」 は知らないうちに足も止めていたらしい。慌ててリョーマに追いつくように歩き出す。 「ごめん、ちょっとびっくりして」 の言葉に、リョーマが少し拗ねたような顔を見せた。 「まったく……まだ俺の本気を分かってないわけ?」 「そういうわけじゃ、ないけど」 新しい思い出を作るのに、協力させてもらう――リョーマがそう言ってを沈んでいた思い出のなかから連れ出してくれたことは、忘れていない。あの日からずっと、忙しい生活のなか少しでもの傍にいる時間を作ろうとしてくれていることも、身を持って感じている。けれど………… 「けど、なに? そういうはっきりしない言い方は好きじゃない」 リョーマの言い方は重苦しいものでも、怒っているふうでもなかった。けれど何気ないことのように言われた『好きじゃない』という言葉は、の胸をいっそう詰まらせた。 「うん……」 「?」 なにも答えられないまま、ふたりはすでに図書室前の人気のない廊下まで来ていた。は預かっていた鍵をポケットから取り出し、その扉を開ける。先にリョーマに入ってもらえるよう、は扉を開けたまま身体を引いた。 室内に入っていくリョーマはすれ違いざま、を真っ直ぐに見上げた。リョーマの大きな瞳に、は捉えられた。 「思ってることあったら、言ってよ。そんなことで俺がを嫌いになるとでも?」 扉に触れていた手が震える。手に力を入れて強く扉を握り締めてから、も室内に入って扉を閉めた。その扉を押し塞ぐように寄りかかったまま、は俯く。 「そこまで――そこまでリョーマに思ってもらえるのが、信じられなくて。ぼくは、特別なにかに秀でているわけでもないし」 思い出を作る――リョーマの言葉を信じられないわけじゃない。信じられないのは、自分。こんなに思ってもらって、それに応えられないのではないかと。人を好きになるという感情が、いまだに後ろめたいものに思えて、踏み出せない。 「そんなの、簡単。笑って欲しいから、だよ」 閉め切られた静かな図書室に、リョーマの声は淡々と響いた。 「ここが好きとか、ここが嫌いとか、そんなんじゃない。が笑ってるの見たい――俺が、を笑顔にしたいんだってば。ねぇ、。テニスできる? できなくてもいいよ。俺が教えるし。今度やろうよ。たくさん、たくさん――楽しい思い出を作ってさ。辛いこと思い出してが泣いても、また笑えるように」 「リョーマ……」 それこそ、泣いてしまいそうだった。リョーマは泣くな、とは言わない。忘れろ、とも。 泣いてもいいと、忘れなくてもいいと言ってくれる。 従兄弟の死にが関係しているわけではないけれど、勝手に恋心を抱いて彼のことを真っ直ぐに見れなくなってしまったことをずっと悔やんできた。従兄弟のことを思い出すときはいつもあのころの、自分を心配して優しい言葉をかけてくれるのに、彼を見ることもできないまま逃げ出していた記憶だけで。でもその前の――彼を好きになった記憶も確かに存在する。 五つ年上の彼のすることは、なにもかも魅力的に見えた。もちろんテニスも。教えてもらったけれど、やはりすぐに彼のように上手くできるはずもなく――拗ねて見るほうに回ってしまった。それでもときどき『壁よりはマシだから付き合えよ』なんて誘ってくれたっけ………… いまはもういない。だからこそ大事な思い出。それを大切にすることが、一歩を踏み出す力にもなるのかもしれない。 「テニス――リョーマの相手にはならないだろうけど、返しやすいボールを打ってくれる?」 顔を上げたに、リョーマは不敵な笑みを見せた。 「さぁね」 「なんだよ、そこは頷くところだろう?」 笑いながら――は図書室の電気を点けた。窓も扉も閉め切っている部屋のはずなのに、穏やかな風が吹きぬけていったように感じたのは気のせいだろうか。 いや、きっと――は思う。 (これが、リョーマと一緒につくる思い出になるのかもしれない――) はその思いを口にはしなかったけれど、そのとき浮かべていた笑みは充分にリョーマを満足させた。 END
back to index *あとがき* ちゅーくらいと思っていたのに、いまいち進展させられなくて残念です。リベンジしたい……(笑) |