声が聞きたい  後編




「え…、嘘?」
「嘘じゃないわよ、もう二ヶ月も前に言ったでしょ?」
 母親に呆れるように睨まれて、はため息をついた。そういえばそうだったと思い出す。次の土曜――都大会の日は、従姉妹の結婚式に出席する予定だったことを。
 そしてその前日の夜、久し振りにふたりの携帯電話は繋がっていた。
「明日は行けなくてゴメン、リョーマ」
『いいよ、仕方ないし。でも次の決勝は来るよね?』
「うん……」
 そう答えはしたものの、ひどく沈んだ声になってしまう。
?』
「ほら、リョーマ。明日のために、そろそろ寝ないと」
 怪訝そうに尋ねてきたリョーマの声を、努めて明るい声で遮って、は電話を終わらせた。
 リョーマの試合を見たくないわけじゃなかった。ただ――ただ少しだけ、怖い。リョーマがの届かないところへ行ってしまいそうで。
 次の日、どこかぼんやりとした気持ちのまま従姉妹の披露宴には出席していた。式が終わったあと、集まっていた親族たちが自然に彼のことを口にしていた。二年前に事故で亡くなった従兄弟のことを。きょうの花嫁は彼の姉なのだから、当然なのかもしれないが。
 明るくて一生懸命で、優しい人だった。テニスが好きな人だった。青学テニス部のレギュラーになってからも自主練習を欠かさなかった。そのランニングの途中で事故に巻き込まれた。
 ずっと好きだった。伝えることはできなかったけれど。そればかりか、そのせいで彼を避けるようになってしまったことを、いまも悔やんでいる。だから彼を思い出させるものの一切を遠ざけてきた――テニスコートにすら、近付かない日々を過ごしてきたのだ。
(リョーマ、いまごろ頑張ってるのかな……)
 テニスが、リョーマとの間を遠く隔てていた。


 次の日の休日は、朝からとてもいい天気だった。
 試合の次の日は練習もなくオフだと聞いていたのだが、の電話は一向に鳴る気配を見せない。
 疲れて眠っているのかもしれないと思うと、やはりのほうから電話をかけることは躊躇われた。
 夕方、買い物に行ってくると家を出たの足は、自然とリョーマの家へと向かっていた。偶然に出会えるかもしれないという可能性を期待して。
 けれど歩き出してすぐ、を追い越していった車の荷台に、会いたかった人物が座っているのを見つけて、は目を疑った。
 けれど間違いなくリョーマだった。しかもその車は、を追い越して三十メートルくらい先で停まったのだ。
 リョーマがに気づいたのだと思った。だから走りだそうとしたは、車から降りてきたふたりの少女の姿を見て、思わず曲がり角の壁際へと身体を隠していた。
(あれは、竜崎先生のお孫さんと、その友達の――)
 壁際に身体を寄せたまま、顔をそっと出して様子を窺う。自分が怪しい行動をしているという自覚はまるでなかった。
 会話の内容までは聞こえてこなかったが、楽しそうな雰囲気は伝わってくる。そしては、桜乃とリョーマがテニスウェアであることに気づいた。
(もしかして、きょうは一緒にテニスしてた……?)
 ふたりの女子に手を振られながら、リョーマを乗せた車はそのまま走り去ってしまった。
 彼女たちがこちらに歩いてくるのに気づき、は慌ててその場から逃げ出した。
(なにをしてるんだ、ぼくは――)
 走りながら、はどんどん哀しくなっていく。
 リョーマはに連絡をしてくれることもなく、テニスをしていたのだ。
 会いたいと思っているのは自分だけなのかもしれない。
 もしかするとがテニスを快く思っていないのに気づいて、リョーマはのことが嫌いになってしまったのかもしれない。
 結局なにも買わずに家に戻ってきたの携帯電話は、その夜も鳴らないままだった。


 次の日の月曜、登校したは、手塚から試合の結果を聞いた。もちろん青学は勝ち続けて、ベスト4――次の週末には準決勝が待っている。
「どうした? 浮かない顔だな。なにかあったのか?」
 手塚に問われて、は軽く首を振る。
「少し、疲れてるだけだよ」
「そうか、ならいいが……。は気を遣いすぎだ。他人の仕事までときどき引き受けているだろう? 嫌なことは嫌だとはっきり伝えてやれ。自分でやらなければ本人のためにもならないんだぞ」
 説教するような手塚の口調だが、を心配してくれているのだと解るから、は微笑んだ。
「ありがとう、手塚。イヤなことはちゃんと断るから、大丈夫だよ」
「……そうか、ならいいが」
 俯いた手塚が眼鏡を押し上げたとき、担任教師が入ってきて、その話は終わりになった。
 けれどなんとなく、手塚に言われた言葉が頭に残っていた。
『嫌なことは嫌だとはっきり伝えてやれ――』
(はっきり、伝える……)
 会いたいと、声が聞きたいと思うばかりで、リョーマにそれをちゃんと伝えていなかった。
『ねぇ、。ホントの声、聞かせて。の、本当の声。俺、に会いたいって言われて、嬉しかった』
 そうリョーマから言われたのは、ほんの二週間前のことなのに。
(ちゃんとリョーマと話がしたい。ううん、それよりも――リョーマの顔が見たいよ)
 は決意して、放課後、テニスコートへ向かった。リョーマの練習を傍で見て、終わったら一緒に帰ろうと誘うのだ。
 まっすぐにテニスコートに向かっていたの耳に、その怒声は突然飛び込んできた。
「おい! 他校のヤツがなにウチでケムってんだよっ、出ていけ!」
 思わず振り返ったが見たのは、テニス部の二年と白い制服をきた学生だった。
 あっという間だった。声をあげる間もなく、白い制服を着た他校の学生に、テニス部員が殴られていた。彼が運んでいた黄色いテニスボールが周囲に散らばってゆく。
 倒れた彼に、白い制服の男はさらに蹴りを入れた。
「なにをしてるんですか――」
 は声をあげて駆けだしていた。
「きみ! 先生呼んできて!」
 もうひとり、ボールの入った箱を抱えていたテニス部員にはそう声を掛け、倒れている部員の傍に近寄ろうとした。
 けれどそのとき、煙草を咥えたままの白い制服の男が、ラケットを振り上げた。
「――ッ!」
 は肩と膝に、強烈な衝撃を受け、その場に倒れ込む。傍らに黄色いテニスボールが転がった。
 ボールを打つ音は休みなく聞こえ、のものではない悲鳴が上がる。もうひとりのテニス部員も抱えた箱を落とし倒れ込んでいた。
「やめてくださいっ!」
 男の視線が、叫んだへと向けられる。再び構えられたラケット。逃げることもできず、は目を瞑った。
 パァンと、のすぐ耳元で響いたインパクト音と、の前を覆った影。
 覚悟した痛みがを襲うことはなく。
 恐る恐るは目を開ける。
「……リョー、マ?」
 そこに見えたのは、青学のレギュラージャージを着た細い背中。
「やっとお目見えかよ。青学一年レギュラーよぉ」
「……アンタのこと、知らないんだけど?」
 を庇うように、リョーマは相手との間に入って、男を睨みつけていた。
 なにが起こっているのか解らなかった。だが事態は確実に悪化していることだけは、そのピリピリとした空気から伝わってくる。
 再び、なにかを叩くような音がした。続いて聞こえた音に、は目を見張る。リョーマの足元に、石が落ちたのだ。
「――リョーマッ!」
! 動くな――!」
 思わず立ち上がろうとしたを、リョーマが制した。途端に、次々と降り注ぐ小石。
 リョーマはラケットで防ごうとしていたが、何発も当たっていた。
「今日はほんの挨拶代わりだ!」
 苛立った声と、立ち去る足音。
「リョーマ、大丈夫!?」
 の声にリョーマが振り返る――と突然、リョーマは落ちていたボールを手に取り、高くトスを上げた。
 リョーマのラケットから放たれたボールが、男の背中を襲う。けれど男は素手でそのボールを受け止めた。
「都大会決勝まで上がってこい」
 そういい残して、男は去った。
 初めて間近でみたリョーマのプレイに、は圧倒され、見とれていた。けれどその頬に滲む鮮血に、は状況を思い出す。
「――リョーマ、早く手当を!」
 立ち上がったは、振り返ったリョーマに右手を掴まれた。
もね」
 リョーマに言われて、は自分の右手を見る。手のひらが擦り切れて血が滲んでいた。
「あ……」
 倒れて手をついたときに擦ったらしい。自身も気づいていなかった傷に、リョーマは気がついていた。
「行こう」
 そのままリョーマに手を引かれ、は歩き出した。
 途中にあった水道で、リョーマは顔を洗い、も手を洗う。
 顔を上げたリョーマから滴るしずくに混じって、新たな血が滲み始める。は思わず顔を顰めていた。
「アイツ、訴えたほうがいい。危ないよ」
 の言葉に、リョーマは腕で顔を拭ってから首を振った。
「ダメだよ、。アイツは俺が――俺の手で倒す。だから次の試合、見に来て。俺がアイツを倒すところ、見て欲しい」
 はすぐに返事ができなかった。あの男がしていたのはテニスじゃない。たとえ試合でも、またなにか卑怯な手でリョーマに傷を負わせたりするかもしれないのだ。
 躊躇っていたを、リョーマはまっすぐに見上げて言った。
「もう、負けないから。俺はもう負けないって、が信じられるようなプレイをしてみせるから」
「リョーマ……」
「もし――もし、だけど。俺が負けそうになったら『負けるな、バカ!』って叱ってよ。傍にいて、オレを見てて。の声が聞こえないと、オレ、淋しいんだけど」
「……ぼく、でいいの?」
 リョーマのまっすぐな告白に、は思わず口にしていた。
「なに? 以外、誰がいるのさ」
「その……竜崎先生の、お孫さんとか」
 目を伏せたの腕を、リョーマが揺さぶる。
「冗談! だけだよ。欲しいのはだけ。オレがに恋してんの、伝わってないわけ?」
 不満そうに睨みつけてくるリョーマの、その気持ちがを微笑ませる。確かに、伝わっていなかったのかもしれない。でもそれは、が気づこうとしなかっただけ。
「じゃあ、今度の試合――」
 言いかけたリョーマの言葉を、は身体を屈めて素早くその唇をふさいだ。
「行くよ。リョーマの応援しに」
 驚いたようにを見つめ返しているリョーマの大きな瞳を覗き込みながら、は遮った言葉の続きを告げた。
「……、意外と大胆だね」
 ニヤリと笑ったリョーマに、は微笑む。
「ぼくだって、リョーマに恋してるんだけど――知らなかった?」
 伸ばされたリョーマの腕が引き寄せる力に、は逆らわなかった。




*あとがき*   BGM 『Dreaming on the Radio』というか、この曲を聞いたら書きたくなってしまったお話です。「きみに恋してんだ☆DJ!」ですよ。なんて可愛い。しかし、早く保健室いきなさいと、突っ込まずにはいられない……