タマゴの音色7




 見ていられなかった。
(若が、負けるなんて――……)
 は、コートに立ち尽くしたまま――両腕で顔を覆って、肩を震わせている日吉の姿を信じられない思いで見ていた。
(あんなに、ずっと、頑張っていたのに――……)
 あの日から、日吉とは会っていない。日吉が訪ねてくることもないし、が道場へ顔を出すことは、姉に止められていた。日吉のことは、毎朝の習慣になっている、カーテン越しの姿を見ることだけしかできないでいた。
『――、あなたはどうしたいの?』
 姉に腕を引かれるように日吉のもとから去ったあの日の帰り道、姉に言われたことを思い出す。
 誤解なのだと、姉の怒りを解こうとは今回の経緯を説明しようとした。けれど姉は、聞く必要はないときっぱり言った。
『わたしはあなたのお姉さんなのよ。あなたが泣いていれば、それがどんな理由であっても、泣かせた相手を悪く思うのは当然でしょう。原因なんてわたしには関係ないの。大事なのはこれからよ。――あなたはどうしたいの? あなたが泣かないでいられるためには、どうしたらいいと思うの? どうしたいのかはっきり解って、それを実行できるまで、若くんに会うのは禁止よ。いいわね?』
 そう姉に言われてから、もずっと考えてきた。
 これから、どうしたいのか――――
 すぐに日吉に会って謝りたいという気持ちはあった。けれどただ謝るだけでは、なんの解決にもならないのだと――姉の言うとおり、これからのことを考えてからではないと――どう振舞っていいかもわからなかった。
 ずっと、考えた――だけど、これしか浮かばなかった。
(若に、会いたい――)
 会わなくてもいい。遠くからでも若を見ていたい、テニスをするところが見たい、応援したい――震える声で、が姉にそれを告げると、姉は本当に困った子ねと笑いながら、携帯電話を取り出した。
『もしもし、鳳くん? ちょっとお願いがあるんだけど――』
 姉がいつのまに鳳の連絡先を聞いていたのかにも驚いたけれど、そのあとの展開に、はもっと驚かされることになった。
――そこにいるのは、じゃないのか?」
 応援席を離れて、行く当てもなく目に付いたベンチに腰掛けていたは、馴染んだクラスメイトの声に顔を上げる。
「乾――……」
 思わずは立ち上がった。そこにはさっきまでコートにいた青学テニス部のレギュラー陣がいて。
「やはりだったか。どうして氷帝の制服を着ているんだ? 突然転校したというデータはないんだが……」
 言われて、は自分の格好を思い出す。姉の電話で呼び出された鳳は、紙袋を持ってやってきた。
『俺のだと、去年のでも大きいと思ったんで、宍戸先輩が一年のとき使ってたやつを借りてきました。でももう入らないサイズだから、返さなくてもいいそうです』
 袋の中に入っていたのは、氷帝学園中等部の制服一式で。
『コレを着て氷帝の生徒になって、若くんを応援してくるといいわ』
 どうして姉にはの望むことが解ってしまうのか――それを尋ねると『お姉さんだからよ』と姉は笑った。
 姉に、そして鳳に感謝しながら、氷帝の制服に袖を通し、こっそり氷帝の応援団にまざっていたのだが――氷帝の相手は青学だったのだ。いくら青学のテニス部で知っているのはクラスメイトの乾だけだとしても、会ってしまうかもしれないという可能性に、はまったく気づいていなかった。
「どうしたんだい、?」
「えっと、あの、その……」
 近づいてきた乾に、どう答えていいのか解らない。
「乾。くんて、よくお菓子差し入れしてくれる? 乾と同じクラスだって聞いてたけど、実は氷帝だったの?」
 優しげな微笑で乾にそう尋ねながら近づいてきたのは、ちゃんと話したことはないけれど、も知っている――同じ三年のレギュラー、不二だ。
「えー、アレ? あのお菓子、美味しいんだよね! きみが作ってたんだ、ありがとー。でも青学じゃなかったの? 残念だにゃー」
 またひとり近づいてきた髪が跳ねているレギュラーも知っている、菊丸だ。
「乾と同じクラスのなら、料理同好会の代表のだろう? 代表を降りたとの届出も出ていないが」
 生徒会会長でもある手塚――あっという間に、は青学のレギュラーに囲まれてしまった。
「えっと、あの……」
「で、。青学のはずのきみが、どうして氷帝の制服を着ているんだい? 青学の――俺たちの応援に来てくれたんじゃ、ないのかな?」
 逆光のなかで、乾の眼鏡のレンズがキラリと光った。

     *     *     *

 試合が終わり、誰もいなくなったコートを取り囲んでなお氷帝コールが続くなか、氷帝のレギュラー陣もコートをあとにした。
 会場出口へと向かうみなの足取りは重くはなかったが、やはり会話をするものはいなく、静かだった。そんななかで、鳳が日吉の肩を掴んで囁いた。
「日吉……ちょっとまずいことになってるみたいだ。俺が行ってもいいんだけど、どうする?」
 鳳が指差した先には、青学レギュラーたちがいた。負けた相手の横を通りすぎるのがイヤだなどというのかと鳳に返そうとしたとき、その中心にいるのが氷帝の生徒だと気づく。なぜ青学のレギュラーが氷帝の生徒を囲んでいるのかとよく見ると――――
「――ッ!」
 日吉は走り出していた。
 どういう状況なのか解らない。けれどのあの顔は、とても困っている顔だ。
 日吉は手を伸ばしての手を掴むと、有無を言わさず青学レギュラー陣の前から連れ去った。
「わ、わか、し……もう……」
 会場を出て、しばらく歩道を走ると、日吉の掴んでいた腕が急に重くなった。足を止めて振り返ると、が必死に呼吸を繰り返している。
 追ってくる人影はなかったが、この場で座るわけにもいかず、日吉はの腕を掴んだままゆっくりとした歩行に切りかえた。しばらく行ったところで小さな公園を見つけ、をベンチに座らせる。
「待ってろ」
 言い残して、日吉は自動販売機まで飲み物を買いに行った。スポーツドリンクのペットボトルを二つ買うと、にそのひとつを手渡した。
「あり、がとう……」
 日吉もの隣に座って、スポーツドリンクを飲み始めた。
「……制服、どうしたんだ?」
 の唇からペットボトルが離れたのを見計らって、日吉は尋ねた。
「鳳から――氷帝の応援したいって言ったら、貸してもらえることになって――でも鳳のサイズは合わないだろうからって――先輩の宍戸って人の、昔使ってたやつを貸してくれた」
 に会ったら、聞きたいことがたくさんあった。鳳といつ会って、親しくなったのかもそのひとつだ。以前の日吉なら、の言葉を遮ってそれを尋ねていただろう。でもいまは――の話を聞くほうが大事だとわかる。
「あの……応援、したかったんだ。でも、青学のままじゃ、応援できないと思って……」
 俯いてしまったに、日吉は思い出す。青学のの応援はいらないと以前言ってしまったことを。日吉の言葉を、はずっと気にしていたのだ。本当に、なにも気づいていなかった。
「……ゴメンね」
 呟かれたの声。
「ゴメン、ちゃんと謝りたくて」
 俯いているの首筋、肩――こんなに細かっただろうか。一緒に遊んでいたころは、日吉のほうが背も低く身体も小さかったのに。いつのまにかこんなに逆転してしまっている。誰より、近くにいたはずなのに。
「……ない」
「え?」
 日吉の声が聞き取れなかったらしく、が顔を上げる。
「その必要はないって言ったんだ」
「でも……」
 日吉の言葉を聞いて、が顔を曇らせる。違う――そういう意味じゃない。は悪いことはしていないのだから、謝る必要はないと言いたかったのだが、やはり自分は言葉が足りないのだ。
(未熟すぎる――)
 なのにどうして、はこんな自分の傍にいてくれるのか。
……俺のこと、好きなのか?」
 日吉の言葉に、の黒い瞳が揺れた。
「……ゴメン」
「どうして謝る?」
「だって若が好きなのは姉さんだし、ぼくは男だし……」
 の伏せられた瞳から、長い睫を伝って涙が零れ落ちてゆく。
「若の喜ぶ顔が見たくて、ずっと嘘ついて……」
『若くんがそうさせたのよ!』
 その言葉の意味が、いまならよく解る。泣いているを見て姉が激怒した意味も。日吉が――ほかの誰でもなく日吉が――こんな顔をさせてはいけない相手なのだ、は。
「悪かった」
 日吉は立ち上がって、に向かってきちんと頭を下げた。
 日吉が悪かったのだ――いままでのことも、そして今日のことも。
「応援してくれたのに、勝てなくて悪かった」
「そんな、こと――」
「次は勝つ」
 日吉は頭を上げた。黒い瞳に涙をいっぱい溜めて日吉を見上げている――そのの瞳に、日吉は誓う。
「だから、次も応援してくれないか」
「わか、し……」
「これから、のこときちんと見たい。こんな俺でもまだ嫌いにならないでいてくれるなら、また――応援して欲しい。お菓子も、いままでどおりの作ってくれたものが食べたい。それから……いままで、ありがとう。美味かった」
 日吉はもう一度頭を下げた。けれどいつまでも聞こえてこないの答えに、日吉は頭を上げる。
 は――泣いていた。これ以上、泣かせたくなかったのに。
……」
 日吉はの前で膝を折って、その泣き顔を覗き込んだ。
「ごめん、嬉しくて……」
 溢れる涙を拭いながら、が微笑んだ。
「うん……応援する。ずっとしてる。若――」
 そう、その笑顔が見たかったんだと思った日吉の視界から、の笑顔が消えた。
「……大好き」
 耳元で囁かれたその言葉に、日吉の心臓がドクンと跳ねたのは、触れ合っている頬からに伝わってしまったかもしれない。


 数日後――開催地特別枠によって、氷帝の全国大会出場が決まった。
 引退する予定だったレギュラーも再び練習へと戻ることになり。
「おはよー」
 レギュラー専用の部室に入った慈郎は、着替えている日吉のほうからまた甘い香りがしているのに気づき、目を見開く。見れば鞄から、小さな紙袋がはみ出していた。
「ひよしー、ちょうだい!」
 元気いっぱい慈郎がねだると、日吉はわざわざ鞄から取り出して慈郎に見せつけた。
「申し訳ありませんが、これは差し上げられません。俺の幼馴染みが、俺だけのために作ってくれたものですから」
 そして再びラケットバッグのなかにしまうと、お先にと日吉は部室を出て行く。
 残された部室のなかで、「えー!」と不満の声を上げた慈郎の肩を、ポンと叩いたのは鳳で。
「馬に蹴られますよ、ジロー先輩」
 ニッコリ笑ってそう言った鳳に、その意味が解らずとも尋ね返したレギュラーはいなかった。けれどその後、日吉からお菓子をもらおうとする人間はいなくなったらしい。




 *あとがき*  長くかかった上にまだちゃんと恋人同士にはなっていなそうですが……全国大会で日吉と戦うのが乾という偶然に、どうしましょうと心配してます(笑)