「倉田さん! あのオーダー、あれはどういうことですか!?」
 わ〜、倉田、渡辺先生にまで噛み付かれてるよ。
 さすがにココまでいろんな人に非難されたりしてると、倉田が可哀想になってくるな。
 面白いオーダーだと思うんだけど……確かに日本でやってる大会だから勝ちたいってのはあるんだろうけど、そう熱くなんのはやめにしようよ。コドモにはいろいろ経験させとけばいいんだって。
 早く大盤解説に戻られたほうがいいですよーと渡辺先生に言って、倉田を助けてやるかと思ったオレの耳に入ってきたのは――韓国語。
『あのレセプションでのトラブルが、ずっと尾を引いていたとは――』
 あ、この声は安太善だ。
『――それで進藤が大将になったのか。熱いなーっ!』
 会話の相手はセクハラ魔人<命名>楊海氏じゃないか。
 そういえば古瀬村さんがやたら打倒高永夏に燃えてたけど、レセプションで進藤となにかあったってことか?
「ばか。助けろよ」
 頭上から降ってきた不満そうな声とともに、オレの頭が叩かれる。
「倉田――」
 いつもならすぐに「オレには関係ないだろ」とか言い返した上で殴り返しているところなのだが、そのときのオレは、いま耳にしたばかりの会話が気になっていた。
「――レセプションで進藤と高永夏って、なんかあったの?」
 オレの問いに丸い目をますます丸くした倉田の向こうで、ガタンと椅子から立ち上がる音が聞こえた。
 へ? 楊海氏がオレを見てる!?
くん――キミ、韓国語も分かるの?」
「あ……」
 楊海氏の流暢な日本語に、思わずオレは反応してしまった。いまさら、できませんよ〜などと言い出せる空気ではない。
 そしてさらに、認めたくはないが、倉田はオレより読みの深い棋士だ。一瞬にして、この状況を――自分の思惑が崩れたことを――覚ったらしい。
「ばか〜!!」
 オレは口を尖らせたクマに、再び叩かれるハメになった。



[a life less ordinary3]



「進藤の立ち上がり、問題ナシだな」
「だからなんだよ…」
 叩かれた頭を擦りながら、オレはモニターを満足そうに見つめている倉田を睨みつけた。モニターに見入ってるヤツは気づきもしない。憎らしい。
 大体オレが韓国語が分かるのを、なんで隠しておく必要があるんだ。しかもそれがバレたからってオレが怒られる筋合いはないはずだ! まったく! これっぽっちも! 理不尽すぎる!
 見てろよ、倉田――すぐに倍にして返してやる。盤上と食事上では負けるから、それ以外のなにかでな!
 しかしさすがにみなが対局に見入っているこの部屋では、なんの機会を見いだせそうになく、オレも黙ってモニターへと視線を移した。
(お、なんだ……進藤って、なかなかいいじゃん)
 高永夏って、確かもう三段だったよな。序盤だけど進藤の黒、悪くないし。これはなかなか面白くなりそうだなー。
「おい。進藤って……いいな」
 オレは隣の倉田を突付いて小声で言った。
「俺が決めたんだから当然だろう?」
 倉田のヤツはモニターから視線を外すことなくそう答えた。まったく、この自信はどこから来るんだか。
 検討室は三台テレビが用意されてて、この三対局が同時に見れるわけなんだけど、社ってヤツも、なかなかいいな。強いっていうんじゃなくて、若い――むき出しのやる気ってヤツがよく伝わってくる感じ。
「あ〜、オレも打ちたくなってきた」
 思わず呟いてしまったオレの言葉に、倉田が振り返る。
「ああ、ならあそこに混じっても違和感ないよな」
 お、お前がそれを言うかっ!
「そーゆー意味じゃ――」
 ねぇよ!と殴りかかろうとしたオレは、突然に聞こえた名前に、文字通り固まった。
「塔矢先生!」
 この部屋に座っていた棋士たちがいっせいに扉のほうを向いて立ち上がる。遅れてオレも振り向いたけど――ほ、本物だ! 本物の塔矢行洋だよ! ナマ塔矢先生だよ! うわ〜、ナマは半年振りだよ〜!
「こちらへどうぞ」
 オレがぼーっと見惚れている間にそう声を掛けたのは――あ、安太善じゃないか。抜け駆けだ! オレも塔矢先生の隣に行きたい〜。
 いや、でも嬉しいかもしれない。テーブルは挟むけど塔矢先生が座ったのは安太善の隣、つまりオレの斜め向かい。顔を上げれば、どうしたって塔矢先生が視界に入る。
「大将が進藤くんとは思い切ったことをしたな、倉田くん」
 いろいろありましてーと思いっきり説明不足な倉田の説明だったけれど、「面白いと思う」と塔矢先生は答えた。やっぱり塔矢先生はなんでも解ってるよなぁ。
 その後、机の上に置かれた盤上で三つの対局の検討が続けられた。安太善も倉田も――流石にセクハラ魔人は悪いか――楊海さんも、塔矢先生の前ではやっぱり熱く語るよなぁ。
 楊海さんは塔矢先生には日本語で話しかけているのだけれど、安太善と話すときは韓国語だ。ふたりが会話し始めると、オレは倉田に小突かれて同時通訳をさせられた。
「『これから、日煥の巻き返しもあると思う――日煥の実力は解ってる』だってさ」
 安太善と楊海さんの会話を倉田に伝えると、向いに座る塔矢先生にも聞こえたのか、先生がチラッとオレのほうを見た。慌ててオレが目礼すると、塔矢先生がにこって――オレに向かって笑ったんだよ〜!
「――塔矢先生どうです?」
 あ、あっ、あっ〜! せっかく塔矢先生がオレのこと見てたのに、話しかけられた先生の視線はまた盤上へ戻ってしまったじゃないか。
 やんはい〜! やっぱりお前は“セクハラ魔人”と呼び続けてやるからな!
 ううっ……いじけているオレは置いてかれたまま、三つの対局とみなの会話は進んでいた。やはりその中心は大将戦なわけで。
「敵愾心? 秀策の悪口?」
 塔矢先生にされた説明を聞いて、オレもようやく事態を把握することができた。へぇ、レセプションで高永夏に秀作の悪口言われて進藤は怒ったって訳だ。なんか解るような――解らないような。
「私も以前言われたことがある。もしこの世に秀策が蘇ったなら、私とどちらが強いかと弟子たちが話していた」
 あ、はいはい! オレそれ知ってます。オレも芦原と話したもん。オレはやっぱり塔矢先生だと思うわけですよ。
「存在しない人間との力くらべですか?」
 セクハラ魔人が軽く笑いながら言いやがった。う〜、塔矢先生に失礼な発言はやめろ!
「……存在しない……いや、まさにそのような人物がいる――」
 え? そのような人物――――?
「ああ、いけない! そこで塔矢にトバれては――」
 いきなり上げられた大声にオレもつい目を向けてしまう。
「塔矢……?」
 オレの呟きを拾った倉田が画面へと身を乗り出した。
「先が見えた! 日煥は投了するだろう――あとは進藤だ! 来い、!」
 へ?
 突然、倉田に腕を掴まれて引っ張られた。ちょ、ちょっと待て! どこへ連れて行く気だ、人攫い! オレは塔矢先生の傍にいたい〜!
 倉田の巨体馬鹿力の前にはオレの抵抗はむなしく、ずるずると対局場まで引き摺られた。
 副将戦は日煥の投了、三将戦は――整地に入ってるけど、どうやら秀英ってヤツのほうが勝ったみたいだ。残るは大将の進藤対高永夏戦だ。確かに見る限りどっちが勝ってもおかしくない勝負だけど――あ、終局する――真剣に盤上を見守る倉田の手が、ようやくオレから離れた。よし。悪いが、俺にはもっと大事なものがある。
 検討室へ戻ろうと、そーっと対局場を抜ける。するとちょうど塔矢先生が歩いてきた。
「やぁ、くん。終局したようだね」
「ええ、まだどっちが勝ったか解らないみたいですけど。先生は――」
 先生の足取りが対局場へ向かっていないことに、オレは気づいた。
「このまま台湾へ向かおうと思っていてね」
「そうですか。あの――そこまで、見送りさせてください」
 断られたらどうしようと思ったけれど、先生は「ああ」と短く答えた。
「あ、あの、芦原が――今日、地方の仕事入っちゃってて、ここに来れないこと残念がってました。先生がいらしたって知ったら、もっと残念がるだろうな」
「そうか――きみたちは仲が良かったね。また――日本にいることも少なくなってしまったが――また、家のほうにも遊びにくるといい」
「ホントですか! ぼく――まだまだですけど、もっともっと力をつけて、いつか先生と対局したいです」
「ああ、楽しみにしているよ」
 塔矢先生に優しく肩をポンと叩かれ――うわぁ、オレもう死んでもいい! いやダメ――塔矢先生と対局するんだから!
 って、ぼうっとしてる場合じゃなかった。もうエントランスまで歩いてきてしまったので、オレは駆け足でベルボーイのところへ行って、タクシーを頼んだ。
「先生、お気をつけて」
「ああ。くん、また会おう」
 もちろんです〜! オレは頭を下げて、タクシーが見えなくなるまで見送った。
「さて、と……」
 対局も終了したようだし、オレがここにいる必要もなくなったよな。このまま帰るか――でも一応、結果だけでも見ておくかな。
 再び対局場に戻ると、その結果はすぐに解った。まだ座ったままだった進藤が泣いていたから。
「おー、大泣きしちゃって。可愛いねぇ」
 オレの声を聞きつけ、泣き顔のまま進藤はオレを睨みつけてきた。
「なんだよ、お前」
「なんだじゃないだろ、失礼なガキだな」
「お前だってガキだろ!」
 おい――いま、なんて言った?
「北斗杯の予選にも出てなかったじゃんか。院生かよ?」
 ちょっと待て。
「院生……?」
「院生でもないのか。じゃあただの見学者にそんなこと言われたく――」
「進藤! こちらは四段だ!」
 オレのコメカミの青筋に気づいたらしく、塔矢アキラが仲裁に入った。
 塔矢アキラとは芦原を通じて何度か会ったこともあるし、韓国語の学校を教えたのもオレだからな。オレの正確な年齢までは知らないと思うが、まぁ誰だってこの空気は読めるはずだ。さぁ、進藤、オレに謝りなさい。
 失礼しましたと進藤が頭を下げてくると思ったオレの予想は、次の瞬間こっぴどく裏切られた。
「へ? 四段…? プロなの? 俺たちと年変わらないのに、四段? すげぇじゃん」
 ピシッっと、そのときオレは堪忍袋の緒が切れた音を聞いた。
「倉田! なんで止める!」
 ギュッと握り締めて振り上げようとしたオレの右手は、いつのまにか横にいた倉田にしっかりと掴まれていた。
「お前は見た目がそうなんだから仕方ないじゃん。ほら、塔矢も進藤も、表彰式行くぞー」
「おい、倉田! ちょっと待て、離せ!」
 倉田のヤツ、こともあろうにオレを荷物のように小脇に抱えやがったっ!
「離せ! 離せってばっ!」
「暴れるなよ、。落とすぞ」
 落とすって、お前……オレを投げる気じゃないだろうな?
 こいつならやりかねない――そう思ったらあまり抵抗できなくなった。この格好で言うのは情けないものがあるが、でも一言、言ってやらなければオレの気がすまない。
「進藤! オレは、お前が嫌いだ!」
 進藤もオレの復讐者リストの上位に入れておくからな! もちろん一位は倉田、お前だ!
「……そーゆーとこが子供だっつーの」
「うるさい、倉田! 早く降ろせ!」
「会場ついたらなー」
 ううっ、こんなことだったら、さっき塔矢先生を見送ったまま帰ってればよかった。
 こうして北斗杯は、オレの心の中にも惨敗という結果を残して閉会することとなったのだった。




*あとがき*  というわけで、塔矢先生大好きな主人公というオチを当初から考えていたのですが、コミックスが出る前だったので細かいところがうろ覚えで書けずじまいでした。今回無事最後まで書き上げることができて嬉しいです。あのころのテンションで書けているかどうか、ちょっと不安ですが。