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さよならを言うまえに8 「ちょっと――なにをやってるんだっ!」 不意に聞こえた声に、背中を圧迫していた力が消えた。 「別に……転んだだけだよ、なぁ?」 低いタカシの声が聞こえたかと思うと、強く腕を掴まれ、無理矢理立ち上がるように引っ張られた。急に立ったせいで、頭がクラクラする。視界も安定せず、呼吸を繰り返すのがやっとだった。 「そうだろう? お前が、勝手に、転んだんだよなぁ?」 掴まれていたの腕が、ギュウッと強く締められる。苦痛をこらえながら、はなんとか口を開いた。 「そ…、です」 「そうは見えなかったけど?」 誰かの声が聞こえる。の知らない声だ。タカシに向かっていくなんて、なんて勇気のある人なんだろうと思う。 「こいつが認めてるんだからそうだろう。じゃあな」 バンッと強くの背中を叩いて、タカシは去っていった。タカシもバスケ部に所属していて、不祥事はまずいと思ったのだろう。けれど、あのタカシに怯まずに強い態度を取れるなんて、声を掛けてきたのはすごい人だと思う。はといえば、背中を叩かれただけで、再びその場に膝をついてしまっていたのだから。 「大丈夫?」 差し出してくれた手はとても綺麗だった。土だらけの自分の手で触れてはいけない気がして、は慌てて引っ込めた。 「あの……ありがとうございました」 膝をついたまま頭を下げて、そして顔を上げる。そこにいたのは、信じられない相手だった。 「青学の……不二くん」 それは、ついさっき、圧倒的な力の差を見せ付けるようにして観月を倒した相手だった。 「君は……? ああ、ルドルフの」 なぜ不二が自分のことを知っているのか驚いたけれど、自分が聖ルドルフの制服を着ていたことをは思い出した。 「大丈夫? 立てる?」 不二はとても優しそうな笑顔で、再び手を差し出してくれていた。は土で汚れた手を制服で拭い、不二の手を取って立ち上がった。は顔を上げて改めて御礼を言おうとしたのだけれど、それよりも先に、不二が口を開いた。 「あれ――キミ、さっき裕太にタオルを渡してくれてたよね? 裕太の友達?」 不二が自分の顔を見知っていたということより、裕太の兄だったのだという事実に、は焦った。 (知られたくない――) 自分がなにもできず、ただ言うなりになるしかない弱い人間だということを。 もうすぐ一緒にいられなくなってしまうのだから、せめて笑顔だけを見せてもらいたいし、自分もそうでありたい。 「あ、あの……裕太くんには、言わないで下さい!」 反射的にそう叫んでしまってから、不二が驚いたように自分を見ていることに気づいた。そうだろう、友達かと尋ねただけなのに相手が慌てれば誰だって不思議に思う。失敗したと気づいたけれど、もう遅い。 「あ、あの――ありがとうございました」 その場を取り繕う術が見つけられず、結局は逃げることを選んだ。頭を下げ、踵を返して不二の前から走り出した。足を動かすたびに、蹴られた腹部や背中が、ズキズキと痛んだ。 「どう、裕太? 姉さんのラズベリーパイの味は?」 好物のかぼちゃ入りカレーを食べ終えて、裕太は次の好物に取り掛かっていた。 「紅茶、もっと飲む?」 不二が聞くと、裕太は無言のまま頷いた。 「そういえば今日、裕太にタオル渡してた制服のコがいたけど、マネージャーかなにかなの?」 自分の分も注ぎながら、不二は今日のいちばんの目的をさりげなく尋ねた。 「え? ああ、先輩?」 「先輩…? ってことは、三年生?」 てっきり裕太と同じクラスか、後輩だろうと思っていたので、不二は驚く。裕太にもその驚きの理由が分かったようだ。 「そうだよ、身体はちょっと小さいかもしれないけど、どんな雑用でもきちんとやってくれる、すごく優しい人だ。頭もすごくいいんだ――テストはいつも上位に入ってるし」 「へぇ……」 「先輩がどうかしたのか?」 あの人を悪く言ったら許さないとでも言いたげな目で、裕太が睨んでくる。どうやら観月と同様、彼にも心酔しているらしい。 「ううん、マネージャーは観月だけだと思ってたから、新しい子が入ったのかなと思っただけだよ」 あんな目に合わされた観月をまだ信頼しているという点では、裕太の素直さが心配になるけれど、あの少年に関しては、確かに不二の目から見ても悪いことができるような人間には見えなかった。 「……ふうん」 その説明で裕太が納得したのかどうか分からないが、それ以上彼についてお互いに触れることはなく、食べ終えた裕太はリビングを去った。 「すぐ戻るから、このままにしておいていい?」 食べかけのパイを置いたまま母にそう言って、不二が向かったのは自分の部屋だった。 鞄から携帯を取り出して、ある番号を選び出す。 「あ、乾? ちょっと、調べてもらいたいことがあるんだけど――」 コンソレーションまでの一週間は、にとってもあっという間だった。 次の日、学校へ行くと、担任に呼び出されて、すでに父から転校の連絡が入っていたことを知らされた。は、頷くことしかできなかった。 蹴られた場所は、帰ってから見ると、うっ血して赤黒く変色していた。同室の木更津に気づかれないように着替えていたけれど、青い痣へと変わってきたころ見られてしまい、階段で転んだと誤魔化した。 観月とは、ほとんど顔を合わせることができなかった。氷帝学園の偵察もし、自分の練習もし、偵察から試合の予想を組み立てる――それを学校の授業の合間にやっていたのだから、当然だろう。 そう――あっという間に――土曜日は来てしまった。が聖ルドルフの生徒でいられる、最後の日は。 はクラスメイトにも、なにも言わなかった。来週の月曜日になったら、転校したことを伝えて欲しいと担任の先生に頼んだ。 けれど、一人だけ――のほうから事情を話しておかなければいけない相手がいると思った。 「転校? 急だな」 驚いた顔で、赤澤はを見下ろしていた。部長である赤澤には、さすがに理由を話して、マネージャーを辞めること、明日中には寮の部屋を片付けて出て行かなければいけないので、コンソレーションには手伝いにいけないということを了承してもらわなければならなかった。 「うん……ぼく、お母さんが亡くなって……お父さんに引き取られることになったんだ。できるならこのまま通いたかったんだけど、お父さんの家はここから遠くて……。最後まで手伝えなくて、ごめんなさい」 「いや……」 人のいい赤澤は困った表情をしていた。の母親が亡くなったと聞いて、なにを言っていいのか分からないのだろう。心の中で、損な役割を押し付けてごめんなさいと謝りながら、は続けた。 「あのね……このこと、誰にも言わないでくれないかな? みんな明日のコンソレーションで忙しいときだから、ぼくのことなんかで煩わせたくないんだ」 「いや、その……まぁ、そこまで言うなら――」 困惑したままだったけれど、赤澤は承諾してくれた。 初めて部室で会ったとき、赤澤の目元が鋭いこともあって怖そうな印象を受けたのだけれど、話してみるととても部員思いの真っ直ぐな人で、部長に選ばれるのも納得がいった。だからほんの少しの間だけしかいなかったのことも、あっさり切り捨てるなんてことはできないと思ってくれているのだろう。これが明後日なら、きっと頷かなかったと思う。でも、大事なのは明日――聖ルドルフが関東大会にいけるかどうかがかかっている、大事な日。彼にとっても、他のメンバーにとっても、なによりも優先しなければいけないのは、明日なのだから。 「あ――いつでも、遊びに来いよ」 を気遣ってくれていると分かる赤澤の言葉が嬉しくて、は笑顔で頷いた。 そうもしかしたら、いつかまたみんなと会えるかもしれない――だとしたらそのときまで、ちゃんと笑顔のを覚えていてもらえたらいい。 母が亡くなってからが笑顔でいられたのは、ここだけ――きっとこれからもそれが変わることはないだろうから。 そして、日曜日。 徹底的に調査したはずの観月の情報も、無残な結果に終わった。なんとか勝てたのは赤澤と金田のダブルス1だけで、柳沢・木更津ペアも、裕太も、そして観月も――氷帝の正レギュラーから勝利することはできなかった。 「やぁ、裕太。残念だったね」 試合終了後の挨拶も終え、帰り支度をしている裕太に声をかけてきたのは。 「何しに来たんだよ、兄貴。笑いにきたのか」 「そんなんじゃないよ、裕太の応援に来てたんだよ。ところで……くんはいる?」 不二の登場に、ぼく達はこのままじゃ終わりませんよと言ってやるつもりで近づいていった観月は、その言葉に初めて気がついた。 「そういえば――くんを見ませんね」 「いまごろ気づいたのか、観月。なら、いまごろ寮で片付けしてると思うぞ。あいつ、転校するんだってよ」 観月に向かって少し呆れたように、赤澤が声を掛ける。 「転校…?」 「ああ、離婚した父親のほうに引き取られることになったらしい。遠いから、学校も辞めるんだと」 まだ寮にいるかもしれないから、みんなの慰労もかねてこれから寮で送別会をやらないかと赤澤が他のメンバーにも提案する。 「それは、ちょっとまずいな……」 「どういう意味だよ、兄貴。送別会やることに、他校の兄貴が口出すなよな」 「そうじゃないよ、裕太」 不二は裕太では話にならないと理解して、観月を呼んだ。 「なんです?」 観月が不機嫌そうに振り返る。 「話していいことかどうか迷ったんだけれど……」 不二はそう前置きしてから、先週のことを話した。が、この会場の人気のない場所で、明らかに体格の違う男に暴力をふるわれているのを見たことを。 「ぼくが止めに入ったら相手はあっさり行っちゃったんだけど、かなりひどく蹴らたりしてたと思うよ。なのに彼、誰にも言わないでくれって頼むからさすがに気になってね。ちょっとうちの情報網に調べてもらったんだけど……」 乾がどうやって調べたのかは知らないけれど、かなり詳しいことまで把握しており、父親の家族の写真まで見せてくれた。 「どうやらくんに暴力を振るっていたのは、父親の再婚相手の子供……つまり、彼の義理の弟なんだよね」 観月は顔をゆがめたまま俯いて、一言も発しなかった。 代わりに口を開いたのは、同室の木更津だった。 「あいつ、身体にいくつも痣ができてた。転んだって言ってたけど……」 観月は突然走り出したが、誰もその背中に制止の声をかけるものはいなかった。 大きな荷物はさほどない。 身の回りの物だけを少し大きめの鞄に入れて、教科書やノートなどの勉強道具と、残りの洋服はダンボールに詰め、宅急便で送ってもらうようにお願いした。あとは使っていた布団を乾してカバー類を洗濯してしまえば、特にすることもなくなってしまう。 朝、着る服に聖ルドルフの制服を選んだ。これが着れるのも、本当にこれで最後なのだから。 なかなか出て行く決心がつかずに、のいた痕跡だけがきれいに片付けられてしまった部屋に座り込んでいた。けれどさすがに、いつまでもこうしているわけにはいかない。 鞄を手に立ち上がったとき、突然部屋の扉が開けられた。 「み――!」 最後まで名前を呼ぶことすらできなかった。突然入ってきた観月は、そのままの勢いでに近づいてきて、のシャツを掴んだからだ。 「あ……」 うろたえているに構うことなく、観月はのシャツを引き抜き、ボタンを外していく。その勢いに押されるまま、は床に倒れこんだ。 「あ、あの……み、みみ、観月くん――っ!」 なにが起こっているのか、にはさっぱりだった。観月はに覆いかぶさるようにして、のシャツを開いた。 「どうしたんですか、これは」 観月の目が、声が――怒っていた。そのとき初めて、は観月の視線が痣の残る自分の腹部に向けられているのに気づいた。 「これは……転んで……」 「いつ? どこでです? 寮内ですか? それとも校舎? どうやって転んだんです?」 「えっ……あの……」 畳み掛けられる質問に、答えることができない。そんなに、観月は静かに言った。 「先週、あの会場に義理の弟が来ていたそうですね。そのときですか?」 知らずに、は息を飲んだ。どうしてそれを観月が知っているのか。誰よりも、知られたくなかった人なのに。 なにも言えずにいたに焦れたように、を押さえつけたまま観月が叫んだ。 「言いなさい! そんなにここを出て行きたいんですか?」 他ならぬ観月に言われたその言葉は、笑顔でいようと、最後まで観月の前では笑顔でいたいと思っていたはずのの決意を簡単に崩した。 視界が、歪む。 「……行きたくない。行きたくないよ――」 は初めて、本当の思いを口にした。 そのまま――観月にいままでのことをすべて話した。 母親が亡くなってしまったこと。再婚した父親が引き取るから転校しろと言われたこと。けれど再婚相手の息子には来るなと脅されていること――先週、蹴られたことも。 いったん溢れはじめてしまった涙はなかなか止まることがなく、ときどき嗚咽交じりになってしまったのだけれど、観月はちゃんと最後まで聞いてくれた。 「どうしてそんなになるまで黙ってたんですか……」 「ごめんなさい……」 呆れたように呟いた観月に、は謝ることしかできなかった。 「観月くんには、テニス、頑張って欲しかったから……」 が俯いて言うと、「怒っているわけじゃありませんよ」と、観月の手が伸びできてそっとの髪を撫でてくれた。 「いいですか、学院にいられるよう、ぼくが理事長と話し合いますから、あなたはなにもせずにここにいればいいんです。分かりましたね?」 その言葉に、再びの涙腺が緩む。 そのとき、ノックの音がして扉が開かれた。 「、まだ――」 立っていたのは赤澤だった。部屋のなかにいる観月とを見下ろして、彼は文字通り飛び上がってうろたえた。 「観月――! まま、まさかお前そこまで……」 には訳が分からなかった。 けれど観月には分かった。のシャツは観月によってはだけられたままで、そしてさらには泣いているのだ――観月に押さえ込まれるような姿勢のままで。 「なに考えてるんですか! バカ澤!」 立ち上がった観月が上げた右手は、きれいに赤澤の頬に跡を残した。 観月に話しただけで――ルドルフを去るはずだったの周囲は嘘のように一変した。 観月の父親が、の後見人になってくれることになったのだ。もちろんこのまま聖ルドルフに通えることにもなった。 観月に教えられて初めて知ったのだけれど、の母は事故に巻き込まれて亡くなったので、保険金と慰謝料がに渡されるということだった。それは奨学生になれなくても高校を卒業するのに充分な金額だった。 そして――これは観月ではなく乾からの情報だったのだけれど――父親とその再婚相手はその金を狙っていたということも。 「まったく……もっと早く相談していれば、こんなことにはならなかったのに」 「ごめんなさい。でも、観月くんの負担にはなりたくなかったから」 荷物をまとめたのならちょうどいいと、はふたり部屋をひとりで使っていた観月のところへ引っ越すことになった。 授業中や、練習中には会えないけれど、練習後から次の日の朝までは、こうして一緒にいられる。 「もうそんな馬鹿なことを考えるんじゃありませんよ、。それに――また間違えましたね」 「あ……ごめんなさい――は、はじめくん」 同室になって最初に言われたのは『名前で呼び合うこと』だったのに、はつい慣れたほうで呼んでしまう。でももちろん、観月のことを名前で呼ぶのがイヤなのではなく、その逆だ。 「あのね、はじめくん――ありがとう」 別れの言葉ではなく、こうして観月の傍で感謝の言葉が言える自分は本当に幸せだとは微笑んだ。 その笑顔が観月を幸せにしていることは、はまだ解っていないようだったけれど。
END
back to index *あとがき* 長々とかかってしまいましたが、ようやく完結です。最後までお読みいただきありがとうございました! このお話で一番書きたかったのはラスト、主人公を剥く観月と、うろたえる赤澤だったのでした。 |