計画笑顔 4
貴方宛のメモが貼られていますよ――と、『R』のマスターからの携帯に連絡があったのは二時間ほど前のこと。
が繋ぎをつけたかった情報屋は、今晩十時に『R』に来るらしい。 (十時か……) 地下の店へと降りる階段の前で、は腕の時計を見る。十時にはあと五分ほどあった。 ここまで来て、なにを躊躇っているのかと思う。だが、今日の十一時が、ヘロイン取引の時間なのだ。 取引場所に向かうのは、望月と早坂、その部下たちだけで、いつものようにには声が掛かっていない。もちろん、そんな現場でにできることはないのだから、それに不満はないのだが。 (そろそろ、警察に情報が流されるころですね) 発信源が特定されないよう、部下のひとりが携帯電話を使って移動しながら通報する手はずになっている。 (無事、成功しますように――) 一抹の不安を抱えつつもそう祈りながら、は階段を下りていった。 ギィッと軋む重い扉を押し開け、は薄暗い店内へと足を踏み入れる。カウンターにはグラスを磨いているマスターがひとり。黒髪をきっちりと撫でつけた細身の男だが、伏し目がちでその表情は読み取れず、国籍も年齢すらも不詳だ。 は数枚の万札を二つ折りにしてカウンターへ差し出した。 滑るようにカウンターの内側へ引き込まれた金は、すぐにコースターと、氷の入った琥珀色の液体に変わる。 マスターからは目を伏せたままだったので、は情報屋がまだ来ていないことを知る。もちろん、この手の人間は遅れてくることのほうが多いのだが、希に先に来ている場合は、酒と一緒にマスターが相手の場所を示唆してくれる。一度会ったことのある相手でも、変装や、それこそ顔を変えている場合もあるからだ。 「どうも」 受け取って、はカウンターの一番端、壁際のスツールに腰をおろした。 店内には他に数人の客がいるようだったが、ここで他人を詮索するのは危険だ。だからこそ、先週あの刑事を見かけたような気がしたが、すぐに店を出たというのに。 (さすがに、今晩はいませんよね……) そうは思いつつも、店内を見回すことなどできない。 は黙って、グラスの酒に口をつけた。口に含むと、ふわりと少々クセのある香りが抜ける。こんな場所で飲むのは惜しいくらい、上物のスコッチだった。 ほどなくして、の隣にニットキャップを目深にかぶった猫背の男が座った。 「どうも」 が軽く目礼すると、男は口の端を上げてにやりと笑って、に身体を寄せてきた。 「……銃、扱ってる噂、出てるぞ」 「え――……」 低く呟かれて、は思わず声を漏らした。 がこの男に頼んでいるのは『望月信用総合調査の黒い噂を集めること』だった。 「アンタも知らなかったってことは……どうやらかなりヤバイことになってるようだな」 男は楽しそうに口元をゆがめる。 素を出してしまったことを内心で舌打ちしながら、はグラスに口をつけた。 「ま、実際。かなりヤバイと思うぜ。俺も河岸を変えなきゃならんかった」 情報屋が身を隠す必要があるほどの真実なのだ、これは。は唇を噛みしめる。 綺麗事で会社経営は成り立たない。金を生み出すためになら、少々強引でも法に触れるやり方をするのがいちばんだ。 だが急成長している望月の会社は、同じことを考える他者から目をつけられやすい。弱みを握られ、会社を潰されることのないよう、は誰よりも早く望月の悪い噂を入手するように努めていたのだが、こんな最悪の形が現れるとは。 「どのあたりで、どんな――までは解りませんか?」 誰を相手に、どんな種類の銃を売りさばいているのかという意味を込めて、は問う。 「んー、そうだなぁ。そうそう、場所を変えたら、話したくなるかもな」 ニヤニヤと笑みを浮かべた情報屋が、身体を寄せてくる。背後は壁で、逃げる場所のないは男と身体を密着させることになってしまう。もちろん、それがどういう意味か解らないと言う気はない。 こういう場所に足を踏み入れるようになってから、そういう目で見られることには慣れてしまったし、操を立てるような相手がいるわけでもない。 だからといって、易々と身体を投げ出すほど節操がないわけでもないのだ。 大事なのは、それがそこまでして手に入れたい情報かどうかということ。 「いささか急なお話ですね。それは……前渡しした分では、報酬が足りないということですか?」 「いやいや。危険手当くらい、別にもらったっていいんじゃねえのか?」 「そうですね……」 はゆっくりと相手の言葉を吟味する。 すぐに値をつり上げてこないということは、大した情報は掴んでいない可能性が高い。 「……危険手当ではなく、成功報酬でということなら、考えてもいいんですが」 あくまで先に情報を提供しろと、は譲らずにそう言った。その意味に気づいていないはずはないのに、身体を離そうとはしない。 「んー、そうだなぁ、それもいいんだけどさぁ」 それどころか、情報屋はニヤニヤと笑ったままの身体へと手を伸ばしてきた。 「いいだろう、少しくらい楽しんだって」 さすがには眉を顰めて不快感をあらわにした。 もったいないが、このグラスの中身を相手にぶちまけてやるしかないかとがカウンターへ手を伸ばしたときだった。 「あー、そろそろ俺との約束の時間なんで、変わってくれないか」 声を掛けてきた男に肩を叩かれ、仕方ないといったふうに振り向いた情報屋は、瞬時に、その男からもからも身体を離し、距離を取った。 その瞳は驚愕に見開かれ、唇は震えている。あきらかに怯えている様子の男は、何も言えないまま、まさに脱兎のごとく逃げ出していってしまった。 残されたのはと、声を掛けてきただるそうに立っている男――笹塚だけだ。 「……また、お会いしましたね」 驚きつつも、は笹塚に目礼した。 「ああ。困っているのかと思ったんだが……、余計なこと、したか?」 笹塚の視線が、走り去っていった情報屋のほうへ向けられる。もちろんその姿はすでにないのだが。 「いいえ、助かりました。お礼に奢らせてください――お約束、でしたし」 「じゃ、遠慮なく」 静かに、笹塚はの隣のスツールへ腰掛ける。さっきまで情報屋がいた場所に。 ほどなくマスターが笹塚の前にグラスを置く。無色透明な液体の入ったグラスだった。 笹塚が注文していた姿をは見なかったし、注文してから出てきたにしては早すぎる。 ここに近付く前に注文していたのか、それとも、彼はここの常連で頼むものが決まっているのか。 (それにしても――) あの情報屋の慌て様は、ひどいものだった。笹塚が刑事だと知ってのことだとは思うが――本当にそれだけなのだろうか。 目の前にいる男は、どうにも謎が多すぎる。 だからといって直接それを尋ねるほど、も愚かではないつもりだ。 互いになにも語らず、ただ静かに杯を重ねていた。 「なぁ……」 不意に、笹塚が口を開いた。 「アンタ、っていったな…?」 「ええ、そうですが」 「下の名前は?」 なぜそんなことを聞かれるんだと思いつつも、は素直に答えた。 「、ですが」 「……確か、こういう漢字を使ったよな?」 笹塚の指先が、カウンターの上で一つの漢字を綴る。 「ええ、そうですが」 どうやら先日渡した名刺は、見もせずに捨てられたわけではないらしい。 「それがなにか?」 再び黙ってしまった笹塚に、は問いかけた。 「いや、ただ……、妹のと、同じ字なんだ」 深い思いに囚われたその横顔に、はそれ以上話しかけることを辞めた。 互いに静かにグラスを傾け、そして、夜が明ける前に別れた。 *あとがき* うわぁ、すみません! なんなの、このオリキャラ祭り! 笹塚が書き足りないと思って付け足したエピソードなのに、笹塚、ちょっとだけ過ぎる……次こそ、今度こそホントに吾代出しますので! |