コイゴコロ(後編)




 縛られた紐で手首が擦れるのも省みず、ようやくは携帯電話をポケットから引き出すことに成功したが、次の問題はどこに掛けるかだった。110番――警察にかけるべきなのだろうが、辛うじて自由になる指先でボタンを押すことはできても、電話を口元まで持ってくることはできない。ボタンを押した後、身体のほうを移動させなければならないのだ――悪戯だと思われて切られてしまう可能性がある。外のどこに見張りがいるのかもわからないのだ。外に聞こえてしまいそうな声を出すことも物音をたてることもできないのだから。
 ならば掛けられる先は、あとひとつしかない。跡部だ。跡部なら、電話が繋がっただけで、からだと気づいてくれるだろう。がまだ無事で、助けを求めているのだと。跡部の携帯の番号など覚えてはいないが、先ほど着信したのをリダイヤルすればいいだけのことだ。警察に掛けるより短くてすむ。
(よし――)
 押したボタンがうまく作動してくれるのかどうか、目で確認することもできない。は慎重にボタンを押し、ゆっくりと携帯電話を壁のほうへ移動させる。そして、自分の身体を動かし始めた。


 掛かってきた電話が知り合いからのものだったら即切ってやろうとディスプレイを見た瞬間、跡部はそれが自分のPHSだと気がついた。
「この番号は――!」
 に渡したはずのPHSだ。慌ててボタンを押して耳に当てたが――跡部はなにも口にしなかった。まだ掛けてきた相手がだという証拠はない。拉致されたときに落としたものを拾った誰かか――それならまだいい――最悪、が持っているのを見つけた犯人、ということもありえるのだから。
 跡部は聞こえてくるはずの声を待ったが、一向に聞こえてはこなかった。
先輩!? 先輩からの電話なんですかっ!?」
「黙れ――!」
 堪えきれず叫んだ鳳を一喝し、跡部は受話器越しに耳をすませた。するとズ…ズ……と、なにかが引き摺られているような音が微かに聞こえてくる。少なくとも、どこかには繋がっている。
 どこかで落ちて、なにかの弾みでボタンが押されたという可能性も捨てきれない。けれどそれでも、この家よりはるかにに近い場所だろう。
に貸したはずのPHSと繋がっている。なのか、そうじゃねぇのかは分からねぇが、じっと聞いて、なにか聞こえたら教えろ。相手がだったら、必ずなにか聞こえてくるはずだ」
 跡部は携帯を鳳に差し出した。
「は、はいっ!」
 飛びつくように、でも壊れ物を扱うように、鳳は携帯電話を受け取り、耳に当てる。鳳にも、確かになにかが擦れるような音が聞こえたが、それ以外はなにも聞こえてこない。けれどなにかあったら僅かな音でも聞き漏らさないようにと、電話をしっかりとにぎり、目を閉じて集中した。
 跡部は鳳の姿を横目で見ながら、もう一台の携帯電話を取り出し、コールした。
「いますぐ俺のPHSの発信先を調べてください。中継ポイントならすぐ割り出せるでしょう。わかり次第、俺と――待機してるSPへ連絡、急行させてください。俺は俺でこのまま移動します」
 三分後、跡部の手にしていた携帯が鳴る。
「晴海? 電波の中継地点は晴海ですね? 引き続き、発信場所の特定をお願いします」
 跡部が通話を切る前に、すでに車はゆっくりと方向転換を始めていた。
「晴海方面に向かいます」
「ああ」
 交わされる会話の横で、鳳は必死に受話器の向こうへ耳を澄ませていた。


 ようやく身体の向きを変えることができたが首を伸ばすと、ぼんやりとした小さな灯りが見えた。携帯電話のディスプレイだ。文字が小さすぎてはっきりとは見えないが、無事に通話中と表示されているようだった。あとは電話の場所まで顔を移動させるだけなのだが――縛られた足を蹴って上に上がることはできても、下へ身体を滑らせていくことは難しい。まして、すでに両腕と両足は痺れて感覚がなくなってきていたのだ。手首の痛みを感じずにすむのは幸いだが、それ以上に重く、苦しかった。でも、ここで諦めたら終わりなのだ。ゆっくりとゆっくりと身体を動かし、電話機まで顔が届いたのは十分以上経過してからのことだった。
「だ…れか、聞こえ…る…?」
 部屋の外に気をつかいながら小声で囁くと、顔の向きを変え、小さな電話機に耳を押し当てた。
 誰か応えて――祈るように目を閉じたの耳に聞こえてきたのは。
『先輩――! 先輩!』
(え……?)
 信じ、られない。もしかしたら、まだ夢を見ているのかもしれない。聞きたいと思った声が、聞こえてくるなんて…………
先輩! 無事なんですね――!』
 目が熱くなるのを、は感じた。そうだ、この声が聞きたかったんだ。
「お……と、り…」
『先輩! 先ぱ――』
 鳳の声が途切れ、聞こえてきたのは。
『俺だ――お前、いまどこにいるか分かるか?』
「……気がついたら、ここに…。ホテルか、マンションの、一室のようだが……場所を、特定できるようなものは……ない」
『そうか。いまこの電波の発信場所を特定させてる――切るなよ』
「ん…」
 無駄なことは一切言わない、それがかえって跡部らしい。そして、再び電話機は戻されたようだ。
『先輩――! 大丈夫ですか? ケガしたりしてませんか――?』
 耳元で囁かれる声は、距離ならばとても遠いはずなのに、いつもよりとても近くに聞こえる。だからこんな状況なのに、安心してしまう。
「ん…、いまのところ、大丈夫、だから……。鳳、頼みが、あるんだが……」
『なんですか!? なんでも言ってくださいっ!』
 安心して――気が遠くなりそうだ。だから、普段なら決して言えないことも――言える。
「声を……声を聞かせていて、くれ」
『は――はい! 先輩! 大丈夫ですから! 必ず助けに行きます! 安心してください!』
 受話器から聞こえてくる声に、は力を抜く。これでもう助かると思ったわけではない。そのときが思っていたのは、鳳の声が、の耳には心地よく響くということ――それだけ。
『先輩! 先輩! いま跡部部長の携帯に連絡が入りました! そこの場所が特定できたみたいです! すぐ向かいますから! もう少しの辛抱ですからね! もう少し我慢してください!』
 声にだけ気を取られていたは、鳳の話す内容に気づくのが遅れた。
「ま…て……。まさか……跡部が、ここに、向かって、いるのか…? ダメだ――鳳! 跡部には来るなと言え。跡部が、ここに来ちゃ、いけな――」
 そのとき、の背後で、バタンッと勢いよく扉が開いた。
「お目覚めですか? 跡部景吾ぼっちゃん」
 壁のほうに向きを変えていたには、入ってきた相手の顔は見えない。けれど向こうからもの目の前にある携帯電話は見えていないはずだ――は必死で身体を動かして、電話機を身体の下に隠そうとした。
「真っ暗ななかにひとりにさせてしまって、すみませんでしたねぇ。でもよく眠れたんじゃないですか?」
 嘲るような声のあと、パチリという音がして、室内の電気がついた。
「おやおや、ベッドの上でずいぶん暴れられたみたいですねぇ。景吾ぼっちゃまは寝相が悪いらしい」
 ゆっくりとその人物が近づいてくる気配がする。電話機はなんとか、動いているうちにボタンの取れたブレザーの下に隠れた。けれど…………
「顔を見せてくださいよ。部下が手荒に扱ったのを、怒っているんですか――?」
 肩に手をかけられ、は意を決して相手を睨みつけた。
「違う――跡部景吾じゃ、ありませんね」
 やはりバレたか――話し方と雰囲気から、拉致を命令した人物だろうと、は確信していたのだ。
「誰なんですか、あなたは?」
 口調は丁寧だが有無をいわせない――上に立っている人間の話し方だとは思いながら、そっけなく答えた。
「縁もゆかりもない相手ですけど」
「さすがに跡部家の車のナンバーも読めないほど、バカを使ったはずはないんですけどねぇ。まぁ、ご学友といったところですか……。さて、連れてきてしまったものは仕方ありません。あなたは、跡部景吾と、取引できるだけの価値はあるんでしょうか?」
 その人物はサングラスをかけていたから、表情までは見えない。けれどニヤニヤと笑っているのが手に取るようにわかった。
「ぼくもそれなりな人間だとは思いますが、跡部とは比べものになりませんよ」
「そう卑下するものでもありませんよ。キミはなかなか面白い――」
 男の口元が、冷酷に微笑んだ。
「その身体の下に、なにを隠してるんです…?」


先輩!」
 急に鳳が叫び、になにかあったのだと知った跡部は、鳳からPHSを取り上げた。微かだが――と、ボスらしい相手の会話が聞こえてくる。が、人違いだとバレた――一刻の猶予もない。跡部がSPに指示を出した、そのとき。
 受話器の向こうで、なにかが倒れるような音がして、そしてしばらくして聞こえてきたのはの悲鳴にも近い叫び声だった。
――! !」
 思わず叫んでいた跡部の耳に聞こえてきたのは、さきほどから微かに聞こえていた男の声。
『わたしの勘が正しかったりすると、この通話を聞いているのは、跡部景吾ぼっちゃま、本人ですかねぇ?』
「そうだ――に、なにをした?」
『ちょっとこの電話機を見つけるために、ベッドから蹴落としただけですが? ああ、いまもわたしの足の下にいますが。声を、聞かせましょうか?』
「待て――!」
 跡部が予想した通り、痛みを我慢するようなうめき声が聞こえ、やがて小さな叫び声が聞こえた。もちろん、その声がだと分からないはずはない。
『あまりにも声を上げないので、少し足先で突いてみたら気絶してしまいました。ヤワですねぇ』
「貴様――!」
『どうやら、彼はあなたにとって充分取引材料になりそうですね。まぁ、それが無理でも、彼はとても綺麗な顔をしてますから、充分高値で売れたでしょうが。ええ、だから顔には傷をつけてませんよ』
「――なにが望みだ?」
 跡部は静かに言った。
『そうですねぇ、とりあえず彼とあなたの身柄を交換したいので、ひとりで指定の場所まで来て欲しいのですが』
「どこだ?」
『話が早くて助かります。そうですねぇ……』
「お前は、遅いな」
 そう言った跡部が指を鳴らすと、跡部家のSPが目の前の扉を壊して一斉に室内へ突入した。


 次にが目を覚ましたのもベッドの上だったが、そこは白く清潔で明るく、病院なんだとすぐに気がついた。
「目が覚めたか――」
先輩――」
「跡部……鳳……」
 身体を起そうとして、やんわりと跡部に肩を押さえられる。
「動くなよ、肋骨が二本折れてる。内臓には刺さってないらしいが」
「その程度ですんでよかったよ」
先輩……」
 泣き出しそうな鳳に、は微笑んで見せた。跡部は手を離すと、病室を出て行く。
「入院の手続きに行ってくるからな。鳳、見てろ」
「は――はい!」
「そんな大げさに――」
 しなくてもと言いかけたの前で、扉は閉じられてしまった。
「大げさじゃないですよ、先輩――床に倒れて意識のない先輩を見たとき、俺、生きた心地しませんでした……」
 辛そうに目を細めて俯いた鳳に、は手を伸ばした。だるさと痛みはあったが、ゆっくりと動かし、座っていた鳳の膝の上に置かれていた掌に、ようやくたどり着いた。
「ありがとう。でももういまはここにいる――大丈夫だから。心配かけて、悪かったな」
「先輩――どうして!? どうして先輩はそんなに優しいんですかっ? 跡部部長は――あなたが誘拐されたって聞いても慌てることなく電話したり、身代金が少ないなんて冗談言ったりして――それに、それに――跡部部長のせいでこんな目に合わされたのに、来ちゃいけないなんて――――」
「鳳、悪いのは犯人だ。跡部は悪くないだろう?」
 鳳の掌の上に乗せられていたの手が、ギュッと鳳の手を掴んだ。その手首には包帯が巻かれている――縛られて擦り切れた跡を隠すように。
「そんなに……跡部部長のこと……。先輩は、跡部部長のことが――そんなに好きなんですか?」
 鳳の手を掴んでいたの手から、力が抜けた。
「違うよ、鳳――」
 静かな病室に、の声は穏やかに響いた。
「ぼくは――好きな人のためなら死んでも構わない。むしろ、好きな人の役に立って死ねるのなら、嬉しいと思う。そして好きな人がぼくのために死んだら――ぼくは迷わずに後を追うよ。でも、跡部のために死ぬつもりはない」
「……、先輩?」
 顔を上げた鳳に、が微笑む。
「跡部に来て欲しくなかったのは――もし跡部がぼくのために死んだとしたら、ぼくはそれを一生抱えて生きていかなきゃいけない。そんなことしたくなかったからだよ」
「俺様がそんなドジ踏むかよ」
 言いながら室内に入ってきたのは、もちろん跡部だった。
「こいつは怖いヤツなんだぞ、鳳。自分の能力を試すためだけに、俺様の傍にいやがるんだからなぁ。いつ翻られてもおかしくねーから、そうならねぇようにこっちも多少気は遣ってるがな。今回だって、助けなかったりしたら、俺様の命が危なくなっただろうな」
 ベッドに近づいて、座っている鳳の隣に立つと、にやりと笑う。もそんな跡部を見上げて楽しそうに微笑んだ。
「やだなぁ、跡部。ぼくにそんなことできる力はないよ。まぁ、確実に、跡部の傍から離れはするだろうけど――跡部はそんなバカじゃないって、知ってるしな」
 伸ばされていたの手は、鳳の掌の上から静かに引いていった。ベッドの上に、力なく落とされる。
「ごめんな、鳳。驚かせて。でもまぁ、これで心配する必要はないって解っただろう? ぼくは、損得でしか動かないからな」
「それは――それは違います!」
 突然、鳳が立ち上がって叫んだ。ベッドの上に投げ出されていたの手を、鳳は両手でしっかりと握り締めた。
「先輩がなにを言っても――どう思っていても、俺にとって先輩は、熱があるのに俺の手当てをしてくれた――辛いのに微笑んでくれたり、優しい言葉をかけてくれる――それがすべてなんです。先輩が俺をどう思っていても構いません! 俺は――先輩が好きです!」
 鳳はそれだけ言うとの手を放し、姿勢を正すと身体をふたつに折ってきっちりと頭を下げた。
「明日、また来ます!」
 そして、鳳は病室を出て行った。残されたふたりは、まるで嵐が通り過ぎたような気分だっただろう。
「まったく……サーブ同様、直球で単純なヤツだな」
 跡部が一息ついて、を見下ろす。
「ま、お前も、随分と単純だったみたいだがな」
 の両方の瞳からは、ぽろぽろと涙が溢れていた。
「さっさとお前のモンにしちまえよ。どこがいいのか解らねーが、番犬の代わりぐらいにはなるだろう」
 跡部の言葉に、次々と溢れてくる涙を拭うこともせず、は困ったようにゆるゆると首を動かした。
「だって……だって、鳳には、宍戸が――」
 もしかするとその言葉がいちばん、今日の出来事で跡部を驚かせたかもしれない。
……お前、それ宍戸に言ってみろ。それこそ殺されるぞ」
 が綺麗だの可愛いだの言われていることは知っていたが、いま初めて、泣いているを綺麗だと跡部は思った。もちろん、それは客観的な感想で、だからをどうこうしたいという衝動はない。鳳の言葉を借りるなら、跡部にとっては、敵にまわしたくないほど怖い相手――それですべてなのだから。
「おい、明日は鳳以外面会謝絶にしといてやる」
 まだ涙が止まらない様子のだったが、顔を上げて、笑みを作った。
「まいったな――イヤな相手に、借りを作った」
 そんなの今回ケガさせた一件でチャラじゃねぇかと言おうとして――やめた。
「お前が鳳とどうなろうと、俺はお前を手放したりしねーよ」
「そう? じゃあせいぜいぼくに見捨てられないようにするんだね」
「ああ、そうさせてもらおうじゃねーか」
 跡部は、鳳とは違って静かに病室をあとにした。
 完全な静けさを取り戻した室内で、は鳳の言葉をなんども繰り返し思い出す。そして、再び鳳に会える明日を思いながら、ゆっくりと瞼を閉じた。




*あとがき*   ちゅーとかないのに、なぜかいままで書いたなかでいちばんラブラブな雰囲気のお話になったような気がします。それにしても、こっちの跡部はオトナだ(笑)