コイゴコロ2(後編)




 俯いてしまったと、目を見開いてを見続ける鳳。冷静なのは跡部だけで、跡部はの肩に手を回して抱き寄せると、耳元に囁いた。
「説明してなかったのか、?」
「うん――」
 跡部は軽くため息をつく。
「鳳、お前なんでこんなところにいるんだ?」
 跡部に名前を呼ばれて、慌てて自分を取り戻したようにはっとして、鳳は跡部に向き直った。
「あ、あの……母が、このバイオリニストが好きで――父と来る予定だったんですけど、急に仕事が入ってしまって。チケットを無駄にするのもなんだからって、借り出されて――あの、先輩は、その……」
「理由はあとでが話すだろうさ。いまは事の最中だ。人目もある。、顔を上げろ」
 その跡部の言葉に、は自分がなぜこんな場所に、こんな格好で来ているかを思い出した。ここで失敗してしまえば、こんな格好をした意味はなくなってしまうのだ。
 は気を取り直して顔を上げた。
「すまん、鳳。いま跡部の用事を片付けている最中なんだ。理由はあとで話す――いや、ちゃんと話がしたい。いいか?」
「え、ええ――もちろんです」
「じゃあ、あとで――電話する」
「解りました。じゃあ、俺、戻ります」
 鳳が跡部とにと頭を下げて、戻っていった。残されたがため息をつく。
「ちゃんと話しておけって言っただろう」
「ごめん、でもまさか、こんなところで会うなんて――」
「それはまぁ、俺も驚いたけどな」
 跡部が右腕を差し出した。
「ほら、席へ移動するぞ」
「うん」
 は差し出された腕を取って、歩き出した。
 手を取り合いながら階段を上っていくふたりの背中を見つめている視線があることに、どちらも気づいてはいなかった。


 跡部が用意したチケットは、ギリギリになって彼女がここに来ることが解ったはずなのに、二階のボックス席だった。随分と人気のあるコンサートのようなのに、どうやってこんな席を用意できたのかという疑問も浮かんだが、聞く気にもなれず、は跡部に腕を引かれるまま腰を下ろした。
 人ごみは苦手だから、ボックス席はありがたかったが、座っても、気分がなかなか落ち着かない。それどころか、ますます悪くなっていくようなのだ。だが、背中には帯があるため、椅子にしっかりと寄りかかることもできない。
「どうした?」
 俯いているに、跡部が問いかける。
「うん……ちょっと気分が。空気に酔ったのかな……」
「なにか冷たいものでも飲むか?」
「ううん、いいよ。もう始まるし」
「とにかく、俺の腕にもたれてろ」
「うん――」
 は、跡部の腕に頭を預けて目を閉じた。そうしていると少し楽だった。少しして、拍手と共に迎えられたバイオリニストが静かに演奏を始める。演奏は耳に心地よく、このまま楽になるかと思った。
 腕にもたれたまま目を開くと、眼下に見える薄暗い一階の客席が目に入る。決して狭くはないホールなのに、どうしての目は見つけてしまうんだろう。
 見慣れた、鳳の後姿を。
 再びは目を閉じた。このまま落ち着くかと思ったのに、不快感は収まらなかった。帯で身体を締めているせいなのかもしれない。
「ごめん、やっぱり冷たい物飲んできていいか…?」
 は跡部に囁いた。
「ああ、じゃあ一緒に――」
「いいよ、大丈夫。すぐに戻ってくるから」
 少し強い口調で跡部の言葉を否定して、は立ち上がった。跡部は訝しげに睨みつけていたが、それ以上はなにも言わなかった。
 演奏中にホールを抜けるなど、礼儀知らずな事はしたくなかったが、どうしようもなかった。幸いボックス席なため、他の人間にはそう気づかれないだろう。
 カーテンで隠された扉を押し開け、フロアへ出る。喫茶コーナーがあるロビーは一階だったが、階段を下りずに、すぐにあったソファーへは腰を下ろした。
(跡部には気づかれたかもしれないな……)
 は気持ちを入れ替えるように大きく深呼吸した。
 どうやら、は跡部と一緒にいたくなかったようなのだ。ただのフリだというのに、跡部の隣で恋人のように振舞うことが、の気分を悪くさせていたらしい。もちろん、まさかそんなことで気分が悪くなるなんて思っても見なかった――鳳が現れるまでは。
 もちろん鳳は話せば解ってくれるはずだ。こんな格好をしていたからといって、のことを嫌いになったりすることもないだろう。それを疑っているわけではない。そうではなくて、自身の問題なのだ。好きな相手の前で、別の男といちゃつく演技をするというのが、自分に負担をかけるなんて、そんなヤワな人間だったなんて――――
(それだけ、好きってことなのか……)
 自分の考えに恥ずかしくなって、は俯いた。とにかくこのままでは跡部が心配して捜しにきてしまうだろう。なにか冷たいものを口にして、気持ちを切り替えて席に戻ろうと思ったとき、の前を影が覆った。
「ちょっと、あなた。話があるんだけど」
 顔を上げた先にいたのは。
「……なにか?」
 努めて平静な声では答えた。跡部の――見合い相手になる予定の少女に。
「跡部景吾とどういう関係なの?」
「どうと、言われても――」
 に話しかけてくるとは予想していなかった。それも、ひとりのときに。どうしたらいい――?
「知らない方にお答えする必要はないと思います」
 努めて高い声でそれだけ答えると立ち上がって、は彼女の脇をすり抜けて歩き出した。やはり彼女は引き下がることなく、を追ってくる。跡部のいる席に戻ろうかと思ったのだが、鍵がかかるわけではない。おそらくついて来るだろう。会場内でこの調子で会話を続けられたら困ってしまう。とにかく当初の予定通りなにか飲むために階段を下りようとしたに、彼女は行かせまいと手を伸ばしてきた。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
 は彼女に掴まれた肩を離そうと身をよじった。けれど履き慣れない草履にバランスを崩した。が一歩足を出した――その場所は床ではなく階段だった。
(落ちる――!)
 時間にすれば一瞬のことだったはずだ。けれどは必死で体制を立て直そうと身体を動かした。けれど着慣れない着物がそれを邪魔し、さらにその重さはの感覚を狂わせた。落ちていく衝撃を覚悟して目を閉じようとしたの視界を掠めた、見慣れた人影。
(鳳――!)
 はそれがなにを意味しているのか解らなかった。ただ、手を伸ばしてしまった。
 完全に平衡感覚を失って転がり落ちるを襲った衝撃は、ほとんどなかったといってもいい。背中は帯で守られていたし、の頭にはしっかりと腕が回されていたのだから。
 身体が静止した、そのとき、は目を開けて事実を理解した。
「おおと、り……?」
 どうして――どうして鳳がここに?
 が慌てて腕をついて身体を起すと、に回されていた鳳の腕が力なく落ちる。
「おお、とり――」
 どうして、どうして鳳は目を開けない?
「や、だ……、鳳――どうし、て……いや……」
 無意識のうちには鳳へ手を伸ばす。
「おおと、り――鳳!」
「揺らすな、!」
 階段の上から鋭く名前を呼ばれて、はっとが顔を上げる。
「あと、べ――」
 跡部の横に女が立っていたが、そんなのはもうどうでもいい。ツカツカと降りてくる跡部に、は立ち上がった。
「跡部! 助けて! 鳳が――!」
 泣き出さんばかりに跡部に駆け寄ったに、正面に立った跡部は、スッと手を伸ばし――次の瞬間、の頬を叩いた。
 パシンッとその音はロビーに反響した。
「見苦しいぞ、! いまお前がしなきゃならないことはなんだ?」
 反射的に叩かれた頬に手を伸ばそうとしていたの手が、跡部の言葉にゆっくりと下ろされる。俯いたは、両手をギュッと握り締めると姿勢を正し、跡部に頭を下げた。
「取り乱して、すみません」
 が倒れたままの鳳の元へ戻ろうとすると、すでにホールの職員が集まっていた。
「救急車、呼びましたから」
 職員に言われ、ありがとうございますとは頭を下げて、鳳の元へ膝をつく。
 が鳳の手を取って呼びかけると、鳳は目を覚ましたらしい。身体を起そうとして安静にしているようにとに怒られているのを、跡部は背後から見ていた。
 やがて救急車が来て、救急隊員が担架を持ってやってきた。自分で歩けると主張して、鳳は担架には乗らず、救急車へ歩いていった。
「鳳に検査を受けさせたいので、先に帰ります」
 走りよってきたは、跡部にそれだけ言って頭を下げると、すぐに救急車を追いかけた。跡部も、もう止める気はなかった。
 ゆっくりと、何事もなかったかのように、跡部は階段を上っていく。その上には、動けないままの少女がひとり立っているのだ。
「席に、戻らねぇのか?」
 跡部は嫌味なほど優しげに微笑みながら少女に声をかけた。
「あの……わたし……わたし――」
「ここでなにがあったのか、聞くつもりはねぇし、誰に言うつもりもねぇよ。知ったら――自分がなにをするか解らねぇしな」
 少女は蒼白な顔をいっそう蒼くし、それこそ落ちるように階段を駆け下りていった。
 その後ろ姿を横目で見ながら、跡部は薄く微笑んだ。
「ま、無事成功――ってとこだな」


 病院で検査を受けた鳳は、打撲も骨折もなく、頭を打って数秒気絶していたことから、脳の検査もしたのだが、すべて異常なしとの結果が出た。それを聞いて、じっと待っていたの膝から力が抜け、その場に倒れこむ。
 慌てて抱きとめた鳳の胸に、は顔を押し付けてぽろぽろと涙をこぼした。
「心配した――心配した――どうしてあんなことしたんだ? お前がテニスできなくなったら、ぼくは、どうしたらいいのか――」
「心配かけて、すみません。偶然先輩が席を立つのが見えて――自分でも分からないんですけど、どうしても話したくて。間に合ってよかった――“好きな人のためなら死んでも構わない。むしろ、好きな人の役に立って死ねるのなら、嬉しいと思う”って、先輩が言ったんですよ。俺も、同じ気持ちです。先輩が無事でよかった――」
 そしてその腕にいっそうの力をいれてを抱き寄せようとした鳳の、その腕の中で、顔を上げたが一喝する。その目元に、涙を浮かべたまま。
「バカ! ぼくに後を追わせる気か!」
 のほうが鳳の背中にギュッと腕をまわし、隙間なく触れ合うように、鳳の肩に頬を押し付けた。
「ぼくが――ぼくが守りたかったのに、そのぼくが鳳を危険な目に合わせてしまうなんて――」
 小刻みに震える肩に、表情は見えなくてもが泣いているのだと鳳には解る。が安心するまでこうして抱きしめていたかったが、それよりも、押さえ切れない衝動に、鳳はの両肩を掴んで少しだけ身体を離した。
「あ、あの……、先輩? もしかして、先輩の好きな人って――その、先輩は、俺のこと――?」
 無理矢理身体を離されたことに拗ねたように、頬を染めたがそっぽを向く。
「……口にしないと、分からないのか」
 呟いたの口調は、やはり拗ねた子供のようで。そんなを初めて見た鳳は、その可愛らしさに嬉しくなってしまう。
「ええっと……言ってもらえないと、いい様に誤解しちゃいます、俺」
 鳳の言葉に、顔を上げたは、目元も頬もまだ赤くしたままで、鳳をキッと睨みつけた。
「誤解じゃない」
 素早くそう言ったが、背伸びをする。触れるだけのくちづけが鳳の唇を掠める。一瞬の感触が、言葉よりも確かにの気持ちを伝えてくれた。
先輩――好きです!」
「は、離せ! ここ、まだ病院――」
 再び抱きしめようとした鳳を、慌てては離そうとした。そう、ここはまだ病院の廊下なのだ。最初に抱きついたのは、のほうだったのだが。
「大丈夫ですよ。特に先輩、いまそういう格好ですし」
 でもこの帯って抱きしめにくいですね、とサラリと呟いた鳳に、さらに顔を赤くしたは抵抗できなくなる。
「ああ、あの、これは――」
「どんな事情があったのかは知りませんが、こんな綺麗な先輩が見れて、俺、嬉しいです。もちろん、いつもの先輩も好きですけど」
 俯いてしまったの表情を見ることは鳳にはできないけれど、きっと真っ赤なのだろう。
 鳳が優しく抱き寄せると、鳳の胸に顔を埋めて、もおずおずと鳳の背に手を伸ばした。
「鳳――遅くなってごめん。守ってくれて、ありがとう」
 その気持ちは、の全身から鳳に伝わった。




*あとがき*   ええっと、あまくした、というか勝手になった気がします。跡部が平手するシーンが書きたかったのです。これで跡部と主人公が恋愛関係にはならないっていうのが、はっきりしたかな〜と。このひとたちは未来の話とか書いてみたいですね。