コイゴコロ3(前編)
帰ってもいいと言われた病院にいつまでもいるわけにいかないことは解っていたが、かといって離れがたく――は鳳へと伸ばした腕を引くことができず、鳳の腕もを優しく抱き返してくれていた。
けれどコンサートはもうとっくに終わっている時間だ。跡部に報告しなければならないし、鳳が会場を出て行ったことは、跡部が鳳の母親へ説明してくれているだろうが――双方に検査結果の報告はするべきだろう。それになにより、こんなことになってしまった鳳を、ちゃんと休ませてやりたかった。 「帰ろう」 ようやく心を決めて、のほうから身体を離し、その言葉を口にした。 「――はい」 鳳も身体を離し向きを変え、歩き出した。ふたりの身体が隣に並んで――不意に、鳳の手が袖の先から少しだけ出ていたの指先を握った。 驚きで、手が固まった。けれどもすぐに鳳の手を握り返した。 いまが着ているのは振袖で、この格好なら堂々と手を繋いでもおかしくはないのだということを瞬時に判断した。もう二度とこんな格好をすることもないだろうし、ならば人目を気にせず手を繋げる機会はもうきっとないのだろうから。 指の先を繋ぐ――たったそれだけの行為が、どうしようもなくの胸を高鳴らせていた。恥ずかしすぎて鳳の顔を見上げることはできなかったけれど、鳳の暖かさは指先からしっかりと伝わってくる。着慣れない着物では自然と歩幅も狭くなり、歩く速度が遅くなる。そんなに合わせて、鳳はゆっくり歩いてくれていた。その気遣いも嬉しかったし、一緒にいられる時間が長くなるのも嬉しかった。 病院の出入り口に近づいて、隅に置かれた緑色の公衆電話が目に入った。の携帯電話は着替えたときに跡部家に置いてきてしまったが、跡部の番号なら覚えている。残念なのは、この手を離さないと電話は掛けられないということだ。意を決してが足を止めると、手を繋いでいた鳳もすぐに気づき、歩みを止め振り返ってくれた。 「電話を……跡部と、鳳のお母さんにも――きっと心配してる」 鳳の前で跡部の名前を口に出すのは、跡部のもとに帰りたいのだと誤解されてしまいそうで不安になる。だから鳳が答える前に、は続けて言った。 「一度連絡を入れておけば、このまま一緒に帰れるだろうし――」 「ええ、そうですね」 を見下ろす鳳は、微笑んでいた。一緒にいたいと願うの気持ちと同じように、鳳もきっと離れたくないと思ってくれている――不安は吹き飛んで、も自然と笑顔になった。 「じゃあ、電話を――」 公衆電話へ向かおうとして、気づく。は手になにも持っていなかった。コンサートホールへ来たときは、跡部に渡された巾着を手首に掛けていた。そのなかにハンカチだの小銭だのが入っていると聞いていたのだが、騒ぎのなかでどこかに置いてきてしまったらしい。の持ち物ではないし、個人を特定するようなものは入っていないはずだから、無くなったとしても惜しくはない。捜せばあのホールのどこかに落ちているだろうが、どうぜ跡部の物だ。ただ、いま一文無しなのは困る。このまま、跡部の家に向かうしかないのだろうか。 「すまない――金を持っていないのを忘れていた」 「そういえば、俺も母と一緒だったんで持ってないんです。検査費は、後日でいいって言われましたし」 「それは跡部に払わせる」 はキッパリと言い切った。鳳に事前に事情を話しておかなかったのはの責任だが、鳳がいなければがケガをしていたはずだ――彼女があそこまで気の強い性格だと調べておけなかったことも、跡部の落ち度であり、充分に跡部に責任があるだろう。だからそれはそれとして、問題なのはいまだった。このままではタクシーにすら乗れない。 もちろん跡部の家に行くのなら着いてから跡部に払ってもらうが、鳳を送っていって鳳に払わせるのは避けたい。先にの家に寄ってもらって、そこで電話も掛けるか―――― 「さま」 不意に呼びかけられた声に、思考を中断させられる。けれどまさかこんなところで知り合いに会うはずもなく、間違いかと思いつつ、は声のしたほうを振り返った。 「波多野さん――」 そこに立っていたのは、も何度か世話になって見知っている跡部の運転手だった。 「景吾さまより言い付かってまいりました。表に車を停めてありますので、どうぞ」 一礼して、運転手は歩き出す。 「じゃあ送ってもらおう」 跡部にしては気が利いてるな――などと思いながら、は鳳に言った。そして運転手のあとに続いて歩き始め――まだ鳳と手を繋いだままだったことに気づく。 はその手を慌てて引き抜いた。 運転手はが男だということも知っているし、ここに迎えに来させられているのだからある程度の事情は聞いているのかもしれないが――それでも、人前でいちゃつく趣味はにはなかった。 急に手を離したことで鳳は気を悪くしたかもしれないが、どう説明していいのかわからず、そのまま並んで歩くことしかできなかった。 運転手が開けていてくれた後部座席に、は頭を下げてから近づいた。着物だと足が開けないので、まず座席に腰掛け、身体の向きを変えながらそろえた両足を車内へと引き上げる。鳳は反対側の扉から乗り込んだ。結果、と鳳の距離は微妙に離れた。 「いまさまと鳳さまをお乗せしました」 運転手は運転席に乗り込むと、すぐに車を発車させることなく、携帯電話を取り出した。そして受話器の向こうへそう報告すると、振り返ってその電話機をに差し出す。 「景吾さまです」 「――ありがとう」 言われなくてもそうだろうとは思っていたが、は手を伸ばしてそれを受け取った。 「もしもし――」 『遅かったな』 電話の向こうの尊大な声が簡潔にそう告げる。 まるで鳳と抱き合っていたのを知られたような気がして一瞬ドキッとしたが、平静を装っては答えた。 「すまないな。鳳は無事だ。今晩はもう帰っていいそうだ」 『そうか。こっちも、少々予定とは違ったが、上々だ。だがその予定外の責任は俺にあるな。その詫びと、今回の件の謝礼もかねて――』 聞こえてきた言葉に、は固まる。 「なん、だって……?」 けれど跡部からの回答はなく。 「おい! ちょっと待て、跡部――!」 呼びかけた電話は、すでに途切れていた。 窓の外の景色が動いている――が話をしている間に、運転手は車を発進させたのだ。なにも聞かずに黙って車を走らせている彼は、跡部からすべて聞いているに違いない。 「どうか、したんですか…?」 躊躇いがちに尋ねてきたのは、少し距離を空けて座る鳳で。 『――ホテルに部屋を用意しておいた。鳳と泊まってこい』 の望みを見透かしたような跡部の言葉を、鳳にどう告げたらいいのか――は通話終了と表示された携帯電話のディスプレイを見ながら小さくため息をついた。 「ご安心ください。さまのお荷物と着替えのほうはお持ちしております。到着いたしましたらホテルのスタッフを予約してありますので、すぐにお部屋のほうで着替えもできますよ」 答えられずにいたを見かねてか、運転手がそう言ってきた。 「部屋…?」 運転手の言葉を聞いて、鳳が再び尋ねてくる。 そう――ホテルに泊まること事態は、なんら悪いことではないのだ。ただ、その運転手のタイミングのよさに、本当にが心配しているのはそんなことじゃないというのを彼に知られている気はしたが、もうここまできたら開き直るしかなかった。 「ああ……ゆっくり休めるようにと今晩は跡部がホテルに部屋をとってくれたらしい。確かに、ぼくも早くこの窮屈な衣装を脱ぎたいしな」 言ってから、失言だったことに気づく。 「あ、いや。鳳が家に帰るほうがよければ――」 この言い方もマズイ。 先に鳳の希望を聞くべきだった――が早く着物を脱ぎたいと言ったのを聞いて、鳳が時間のかかるほうを選ぶはずはないのに。 「いえ、せっかくですから、泊まらせてもらいましょう」 言いあぐねているに、鳳がそう言ってきた。その顔は微笑んでいたが、やはり普段の笑みとは違い気を遣わせてしまっているようで――は頷き返しながら、自分の不甲斐なさをかみしめていた。 前置き長すぎです。エロがないので表に置きましたが、続きは裏ページです。 |