君と、いたい3




 モデルなんて、絶対に無理だと思ってた。
「歩いて」と言われたとき、は歩き方を忘れてしまったくらい緊張していた。
、大丈夫。カイを見て」
 カメラを構えた叔父の言葉に、ぎこちないながらもは自分の左脇にいるカイへ視線を向けた。カイは黒い瞳でをじっと見上げている。
「カイをちゃんと歩かせてあげて。訓練されてるから、リードを持ってる人が歩き出さないと、歩かないんだよ」
「そう、なんだ……」
 は思わず、カイの前にしゃがみ込んだ。
「頭いいんだな、お前」
 手を伸ばして頭を撫でると、カイが嬉しそうに尻尾を振る。そしてその顔をに近づけてきた。
「わわっ」
 冷たい鼻先がの頬に触れ、続いて大きな舌でベロンと頬を舐められる。驚いた反動で、はその場に尻餅をついてしまった。
「……あはっ、はははっ」
 もう、笑うしかない。お返しとばかりに、は両手でカイの頭を撫でまわした。けれどすぐに、なんのためにここにいるのかを思い出して、立ち上がる。
「あ、ごめんなさい! 汚しちゃった……」
 リードを左手で持ったまま、右手でシャツについた土埃をはたく。が着ているのは、迎えに来た叔父から手渡された白い半袖シャツとジーンズだ。シンプルなデザインのものだが、着心地が良い。
「いいんだよ。こーゆー撮影なんだから、あまりにキレイすぎても嘘臭いしね。あ、その服はくんにあげるから、返さなくて良いよ」
 答えたのは叔父の友人で。
 借り物の服を汚してしまって怒られるかと思ったのに、そう言ってもらえては安心する。
「すみません、ありがとうございます」
 は頭を下げて、そして撮影が再開される。
 のなかにあった変な緊張はとれていた。小さいころはよく、母と一緒に叔父に写真を撮ってもらったのだ。そのときのことも思い出して、は叔父のカメラの前で、自然に振舞うことができた。
「お疲れさまー、くん! 今日はありがとう!」
 叔父の友人にそう声をかけられ、はすべての撮影が終了したことを知る。
「ぼく、ちゃんとできてた?」
「ああ。ありがとう、
 叔父にも微笑まれ、はふたりの役に立てたことを嬉しく思った。
「じゃあ、くん。これ御礼ね」
 渡された白い封筒に、は驚く。
「少ないけど、もらって。あの友達と一緒に遊べるくらいの金額はあるからさ」
「あ……」
 あの友達と、叔父の友人が言ったとき、の胸がドクンと跳ねた。
 の心に浮かんだ、忍足の姿。
 会いたいと――忍足に会って一緒に遊びたいと、そう思っていることを見透かされたのだと思った。
「なぁ、これなんの雑誌に載るん? いつごろ発売なん? 絶対買うわー」
 ひょいと顔を出してそう言ったのは、さっき会ったばかりの謙也で。
「全国誌? 情報誌やったら関西と内容違うから困るわ」
 すっかり謙也の存在を忘れていたは、いま言われた友達というのは、謙也のことを指していたのだと気づく。なんだ…と、なぜか少し残念に思ったときのことだった。
「まぁ、ええか。それやったら侑士に送らせたる。くん、友達なんやろ? 侑士、俺の従兄弟なん」
「え……?」
 謙也の口から出た名前に、は顔を上げる。
「い、いま、なんて……?」
 聞き間違いかと、忍足のことばかり考えていたから、そう聞こえただけなのかもしれないと困惑するに、謙也はニヤリと笑って告げた。
「俺の名前な、忍足謙也、ゆうん」
 はそれこそなにも言えないほど驚く。こんな偶然があるなんて。
 そのの沈黙を、信じてないと捉えたのだろうか。謙也は携帯電話を取り出し、そのディスプレイをに見せた。
「さすがにオトコの写真なんて持ち歩かんからあらへんのやけど、コレでいくらか証明になるやろ?」
 そこに表示されているのは、侑士という名前と電話番号――が記憶している忍足の携帯電話の番号と同じ数字だ。確かにこれで、少なくとも忍足と知り合いだということは証明される。
「疑っているわけじゃなくて……驚いただけだよ。だって、すごい偶然」
「ああ、俺も驚いたわ。世間て、狭いもんやな」
 は最初に彼を見たときのことを思い出す。似ているところはないようなのに、なぜか忍足を思い出したのは、その関西弁のせいだけではなかったのかもしれない。
「なぁ、このあと予定あるん? 俺、仲間とはぐれてもうて。ホテルの場所は解ってるんやけど、ひとりでぶらぶらしとるのも退屈やし、一緒にお茶でもせえへん? 侑士の子供のころの話、聞かせたる」
 ニッコリと笑った謙也の、その笑い方は確かに忍足と似ていると、は思った。

     *     *     *

 練習に集中するために、忍足はあえて携帯電話を見ないようにしていたから、そのメールに気づいたのは練習が終わって、ラケットをバッグにしまおうとしたときだった。
 メール着信を示す色の点滅に、からかという淡い期待を抱いてそれを開いた忍足は、表示されている従兄弟の名前に、軽くため息を吐く。
(まったく、今度はなんや……)
 ラケットバッグを肩にかけ、部室へ向かいながらそのメールを開く。好みのコを見つけたという内容のメールに、やはりはぐれた一年の捜索などする気もないんだなと思いながら、何の気なしに、添付されていたファイルを開いてみた。
「なんや、これっ!」
 思わず、忍足は叫んでいた。そこに映っていたのは――小さくたって忍足が間違えるはずはない――の姿だった。
「どうしたんだよ、侑士。なんかあったのか?」
「いや、なんもない!」
 近くにいた岳人に尋ねられ、忍足は慌てて否定する。なにもない、なにも起こっていない――と思いたい。
 がどうして謙也に会うような場所にいたのかはともかく、あんなヤツに声を掛けられて、がついていくとは思えない。だが忍足の知っている従兄弟なら、が断ってもしつこく粘って、を困らせることは明白だ。
 送られてきたメールの時間は二時間も前で、携帯をチェックしなかった自分を呪いながら、忍足はの携帯を呼び出した。
 十回、十五回、二十回……むなしくコール音が鳴り続けるだけで、が出る気配はない。
「クソッ!」
 忍足は通話を切ると、部室ではなく正門へ向かって歩き始めた。
「おい、侑士! 着替えねーの? シャワーは?」
「急用や! また明日な!」
 背後から追ってくる岳人の声に、忍足は振り返りもせずにそう答えて、足早に校庭を横切る。歩きながらもう一度、の携帯に掛けてみたが、やはりは出なかった。
 仕方なく――忍足はもうひとつの番号を選び、呼び出し始めた。
『おー、どないしたん?』
 七回目のコールで出た従兄弟が、のんびりとした声で答えた。
「いま、ひとりなんか?」
 がそこにいるのかと、いきなり問いただしてしまいそうになった自分を抑えて、そう尋ねる。
『いや、ひとりちゃうよ。ナンパしてなぁ』
「謙也、いまどこにおるん?」
『なんでや?』
 クスクスと嫌な笑い声で返す謙也に、忍足は返す言葉が見つからない。
「……これから、そっち行く」
『だからなんでて。まぁ別に、俺は構へんけど……オマエがひとりで、困ることになるんと違う?』
「ええから! どこにおるんか早よ言えやっ!」
 不機嫌に叫んで、校門を抜けようとしたときだった。
「……侑士?」
 名前を呼ばれて、そこに立つ人物を見て――忍足は固まる。
「なんで――……」
『俺は原宿でテニス部のヤツらとメシ食うとる最中やで。ナンパはしたけど、成功せぇへんかった――』
 携帯から聞こえてくる謙也の言葉など、もう耳に入っていなかった。
――なんで、おるん?」

     *     *     *

 校門の前で待っていたは、早足で近づいてくる人物が忍足だということに気づいていた。
 なんて声を掛けようと迷っていたのだが、突然叫んだ忍足に驚いて、ただ名前を呼ぶことしかできなかった。
 驚いてを見返している忍足の手に握られている携帯電話――忍足は誰かと話していたのだと気づく。
「あ……邪魔して、ゴメン。また――」
 軽くバイバイと手を振って背を向けたの肩を、背後から忍足が掴む。
「まっ、ちょお待って、! 違うんや」
「でも、どこかに……」
 忍足が手にしている携帯へ目線をやりながら、は答える。忍足は「ああ」と頷いて、携帯電話を閉じると、ポケットへしまう。
に。に会いに行こ思て、急いでたんや」
 携帯は? と尋ねられ、邪魔にならないようにとマナーモードにしたままだったことを思い出す。取り出してみると、確かに忍足からの着信が入っていた。
「ゴメン、気づかなくて――」
 慌てて謝ると、忍足はを真っ直ぐに見下ろして、微笑む。
「無事やったら、ええねん」
(ああ、この笑顔が見たかったんだ――)
 こうして間近で見ると、謙也には似ていない。忍足は忍足だと、はなぜか安心するようにそう思った。
「あ……えっと、無事って?」
 忍足の言葉を思い出して、は尋ねる。
「謙也と、一緒やったんとちゃうん?」
「うん、さっきまで一緒にいたけど……」
「なんで――」
 話し始めた忍足が、ふと言葉を切る。
「もおちょい静かに話せるとこ、行かへんか?」
 言われて、も気づく。ここが正門前で、夏休みとはいえクラブ活動を終えた生徒たちがちらほら通る。しかも氷帝テニス部の正レギュラーである忍足は、ただでさえ有名人で、人目を引くのだから。
 頷いたは、忍足に手を引かれるままに、門をくぐった。
 忍足は校舎の中へ向かうことはなく、右手の特別教室棟のほうへ歩いていた。特別教室棟へ続く通路の脇には、立ち並ぶ大きな木々の下にベンチがあって、外でランチをとる生徒に人気の場所だが、日も暮れかけたいま、人通りはない。
 その通路の最奥にあったベンチに、は忍足と並んで腰を下ろした。そして、叔父に頼まれてモデルをしたこと、その撮影場所で偶然謙也に声を掛けられたことを話す。
「彼を見たら、侑士のことを思い出して。従兄弟だって聞いて驚いたけど、やっぱりどこか侑士と似た雰囲気があるから、それで思い出したのかなって、最初は、そう思ったんだけど……」
 でも実際に、忍足に会ってみたら、違うと解った。
「そうじゃなくて――ただ、侑士に会いたかった」
 ただ、会いたかったのだ。なにをしても、なにを見ても、どこに行っても――忍足の不在が、心から抜けないだけ。
っ、どないしたんや」
 焦る忍足の声と、頬に触れた忍足の指に、は自分が泣いていることに気づく。
「ごめん――なんだか、ずっと侑士に会いたかったんだって思ったら……わがまま言って、ごめん」
 たった三日会えなかっただけ、四日後には会えると解っていたはずなのに。
「寂しゅうさせたな、スマン」
 頬を拭った忍足の手が、の髪に触れる。
「違う……侑士は、悪くない……」
 忍足が謝ることはない。悪いのはのほうだ。一生懸命練習している忍足を、応援して待っていることもできないなんて。
――は、俺になに言うたってええんよ」
 の髪に触れていた忍足の手がの背中に回り、あっという間には忍足に抱きしめられていた。
「侑士……?」
 の頬に触れているのは、忍足の髪。忍足の顔は、のすぐ横にあって、その唇はの耳元にある。
、好きや。俺は、のことが好きや……せやから、は俺になにゆうたってええ。ゆうて欲しい」
 囁かれるように告げられた言葉に、の身体はビクリと震えた。
「スマン、突然。困らせとうないから、言わんつもりやったのに――」
 が身体を強張らせたのに気づいて、忍足はの身体を離すと、視線を逸らす――眉を顰めて、不機嫌そうに俯くその表情は、本当に後悔している顔だとは知っている。
 あの日屋上で――激情のままにピアスを投げ捨てたに、謝ってくれたときと同じ顔だから。
 ひどい言葉で拒絶し続けたのに、それでも忍足はずっとを見捨てずに傍にいてくれた。が逃げていた自分自身と向き合うことを、助けてくれた。
 あのときからずっと、抱えてきたこの感情――自分ではコントロールできない、この感情の名前は。
 は、そっと忍足に両手を伸ばした。
「ぼくも……好き。すごく、好き。だから――侑士はぼくに、なにを言ってもいいよ」
……」
 驚いている忍足を見上げて、は微笑む。を見返す忍足の顔も、ゆっくりと微笑みに変わっていく。
「ほな、全国大会、見に来てくれるか?」
「うん」
に我慢させたお詫びに、絶対勝つで」
「うん」
……触れても、ええ?」
 忍足の親指がの唇をなぞる。
 頷く代わりに、は黙って目を閉じた。




*あとがき* 謙也とお茶くらいする予定だったんですが、入らず残念! ようやく夢らしくなってきた(遅いよ)と思うんですが、おまけでこの日の夜のお話をちょこっと書こうかなと思ってます。