君を、見ない(後編)




 忍足の腕を振り払って屋上から逃げ出したは、気がつくと一階まで階段を降りてしまっていた。各教室に防音設備もきちんと備わっているこの学園では、授業中の廊下はとても静かなものだった。足を止めてふっと息をついた静けさのなか、忍足の声が追いかけてくる。
『――見られたくないてことか? でもつけてるってことは、見られたいてことやろ?』
(違う……! 違うっ!)
『ジブン、だれかに気づいて欲しくて、つけてるのとちゃうんか?』
(違う……違うっ、違う――っ!)
 耳を押さえても、その声は消えることなく回り続ける。
「ちが……!」
 思わず漏れてしまった声に、はいっそう強く耳を塞いで首を振った。その左手にだけ当たる、硬い石の感触――は左耳に残ったピアスをゆっくりと外した。右手の上に乗せると、掌の上を転がってゆく紅い、紅い宝石。
『――ソレ、に似合うとるなあて思て』
 再び、忍足の声がに語りかけてくる。
(似合うわけない、ぼくになんか……似合うわけ、なかったんだ)

 ――くんもピアス似合いそうだな……そう、ルビーなんか、きっと似合うよ。

 ふと頭のなかに響いたのは忍足の声ではなくて、が大切に思っていた、あの人の声。
(そう言われたときに、気づくべきだった――あの人が見ていたのは、ぼくじゃないってことに)
 はピアスのある右手をギュッと握り締めた。途端、掌を襲った突き刺さるような痛みは不似合いな持ち主に対する戒めのように思えた。
『――大事なものなんやろ!』
 もう一度聞こえてきた忍足の声に、は首を振った。
「大事なものなんかじゃない。だって、これは……ぼくが自分で買ったんだから」
 がふと顔を上げると、昇降口の脇に置かれているゴミ箱が目に入った。なにかに導かれるようにふらふらとは近づいていく。
「ぼくには、似合わないよ……」
 呟いたはゴミ箱の上でゆっくりと手を開いた。
 開いた瞬間に顔を背けたから、落ちていくところは見なかった。


 やがて四時間目の授業の終わりを告げるチャイムが響き、次第に静かだった廊下も喧騒に包まれていく。このままここにはいられないと覚ったは、トイレに駆け込むと顔を洗った。
 ひどい顔だった――泣いたせいで少し腫れぼったくなった目をダテ眼鏡で隠し、は人気のない図書室へ向かうと、その隅で持て余してしまった時間を潰した。
 やがて昼休みの終了を知らせるチャイムが鳴り、ここにもいられなくなったことを知る。忍足と同じ教室へ戻らなければならないことを考えると気が重く、足取りも自然と重いものになったが、にできるのは諦めることだけだった。
 教室に戻ったとき、忍足はいなかった。五時間目の授業が始まっても、忍足は現れなかった。六時間目の授業が始まっても。すべての授業が終わってしまっても、忍足は教室にその姿を見せることはなかった。
 だからといってがほっとしていたわけではなく、忍足がいつ現れるかもしれないという不安のほうが増していくばかりだった。
「侑士ー! 部活行こー!」
 いつものように忍足を迎えにきた岳人の声が教室の外の廊下から聞こえてきたとき、傍目にも解るほどはビクッと身体を震わせてしまった。でもすでに授業が終わって、おのおの移動しようとしている生徒たちのなかでは、とくにを見ている者もいなかったから、誰にも気づかれることはなかったのだが。
 クラスメイトの誰かが廊下に出て、忍足はいないと告げているようだった。『なんでいないんだー!』と騒ぐ岳人の声を耳にしながら、自分には関係ないと、は教室を出ようと立ち上がった――そのとき。
「あー! 侑士! どこ行ってたんだよ! なに? お前、泥だらけじゃんか――」
「ちょお岳人、離して――! ! まだ帰ってへんよな?」
 は、その場から動けなかった。
!」
 名前を呼ばれても、顔を上げることすらできなかった。
 気がつくと、は隣に駆け寄ってきた忍足に左手を掴まれていた。
 手首を返され、仰向けにされたの掌に、忍足の細く長い指が乗せられる。
「すまん――キャッチのほうは見つけられへんかった」
 忍足の細い指が消えると、の掌の上で、小さな紅い石が転がった。

     *     *     *

 忍足が掴んでいたの手を離しても、は俯いたまま微動だにしなかったが――それこそ、がこのピアスを見ている証拠に他ならない。忍足は静かにに語りかけた。
「悪いことしたて思うけど、謝らへん――謝ってすむことやないからな。は俺んことどう思うてくれてもかまへん。俺は最低やった――」
 嫌なら嫌だと言わせてみせるなんて思い上がって――相手の苦痛を、どうして考えもしなかったのか。否――その味あわせた苦痛を、自分が癒やすという思惑を知らず知らずのうちに描いていたにちがいない。
「俺は最低や――こんなことで許されるとは思ってへん。ただ、いまの俺にできることをしたかったんや。理由なんかどうでもええ。でも、このピアスはがつけるんに相応しいて思う。これをつけてるは、とても綺麗やった。そうや、綺麗やからつける――理由なんてそれで充分やろ?」
 忍足の言葉に――俯いたまま動かずにいたの左手がゆっくりと握られていく。恐々と握りしめた左手をその身体に引き寄せ、包むように右手を添えたその姿は、まるで祈っているようにも見えた。
「本当に、そう、思う……?」
 やがて聞こえたか細い声を、忍足は一言も聞き逃さなかった。
「ああ、もちろんや! キャッチのほうは――これからもう一度捜してみるわ。でも、なかったら俺に買いなおさせてな。もしかしたら、まだ屋上にあるんかいな……」
 最後に独り言のように呟いた忍足の声に、がはっとした様子で顔を上げた。
「あ――」
「どないしたん?」
 なにか、どこかを見つめているようなへ、忍足は優しく問いかけた。
「もう片方のピアス……ぼく、ゴミ箱へ――」
 その言葉を聞いた途端、忍足は叫んでいた。
「なんやて! どこや! どこのコミ箱や!」
「一階の、昇降口前の――」
「行くで!」
 忍足の剣幕に押されるように答えたの腕を掴んで、忍足は走り出した。


 清掃当番の生徒が捨てに行く直前でそのゴミ箱を押さえることができ、忍足はその中身をその場にぶちまけた。流石に清掃当番の生徒はいい顔をしなかったが、片付けまで全部俺がやるからと言い含めて、ゴミをひとつづつチェックしていった。手間のかかる作業ではあったが、所詮ゴミ箱のなかに捨てられた量は限られている。屋上から落ちたピアスを捜すより、はるかに簡単に、のピアスの片割れを見つけることができた。
「見つかってよかったわ」
 ゴミのなかから出てきたピアスを自分のシャツで軽く拭いたあと、忍足はに差し出した。はもう片方のピアスを握り締めていた左手をそっと開いて、それを受け取った。
 の掌の上で光るふたつの紅い宝石――の耳から外されたはずのそれらは、両方とも忍足の手によっての手に戻された。
 広げてしまったゴミをゴミ箱へ戻し、焼却炉まで捨てに行こうとした忍足のあとを、何も言わずにがついてくる。
「ほい、完了」
 ゴミを捨てて忍足が振り返ったときも、は黙って俯いたままだった。向かいに立つとその身長差から見下ろしてしまうことになる忍足からは、その表情を見ることはできなかったが、途切れ途切れに聞こえた搾り出すようなか細い声で、解る。
「忍足……これ、は、大事なものなんかじゃ……」
 解る――が、泣きそうな顔をしていることが。
「自分で買った――安物だよ」
 俯いているには見えないと知りながら、忍足は微笑んで答えた。
「そうなん? でも値段なんて関係ないやろ? まぁにとってはそうやとしても、俺んとっては、がつけてたゆうだけで、大事なモンやで」
 が左手をギュッと握り締めながら顔を上げる。さっき、忍足がふたつのピアスを置いた左手を。
「どうして……どうしてそんなふうに――」
 忍足を見上げて言った言葉はそこで途切れ、は再び顔を逸らして俯いてしまった。を怯えさせるだけだと解っていなければ、このまま手を伸ばして抱きしめたいようなシチュエーションだと思うと、自然と忍足の顔は緩む。
「そうやなぁ、最初は、せっかく綺麗な顔しとるのに、そんな眼鏡と髪型で隠して勿体無いわって思うてただけやったけど――」
 この腕のなかに抱き寄せてその無粋な眼鏡を外し、柔らかそうな髪をかき上げて、その額や瞳にキスしてみたい。でもいまはその前に、もっともっと大事なことを。
「いまは――が真っ直ぐ俺んこと見て、笑ろうてくれたらええなて思う」
 そんなふうに俯いて、睫を震わせていないで。
が心から笑える時間を、俺が作れたらええのにて思うわ――なんて、調子良すぎやな」
「忍、たり……!」
 ようやく顔を上げても、まだその顔をゆがめて言葉を詰まらせてしまうに、忍足はなんでもないことのように笑って見せた。
 今度は焦らずにゆっくりと――大事に大切に時間を掛けて。
「ほな、。また明日な!」
 その細い肩を軽く叩いて、忍足はその場をあとにした。

     *     *     *

くんもピアス似合いそうだな……そう、ルビーなんか、きっと似合うよ』
 あの人がそう言ったのは、が彼の家に頻繁に出入りするようになって、三ヶ月くらい経ったころだったと思う。
くんの黒い髪にきっと映えるな。そうだ――誕生日に買ってあげようか?』
「ほんと! 嬉しい!」
 あのころ、は彼の言葉のすべてが新鮮で、憧れだった。の知らない物事をたくさん知っていて、そこから聞かされる知識はすべての尊敬の対象になった。
 中学校にあがったばかりのが形成する世界、その隅々まで影響を与えていた人――の叔父。が小学校五年のときに、病気で死んでしまった、の母親の弟で、カメラマン。
「やっぱりお父さん、あの女の人と再婚するみたいだ――ぼく、嫌だよ。母さんは、母さんひとりなのに」
 半年ほど前に父に連れて行かれて食事をしたときに会った女の人――彼女が時々家に来るようになって、はまっすぐ家に帰らずにここに寄ることが多くなったのだ。
『そう……』
「ねぇ、叔父さん! ぼくここに住んじゃダメ? ぼく、なんでもするよ!」
……』
 そのとき初めて、がなにか質問したらすぐに答えてくれたはずの叔父が言いよどんだ。それでもその日の夜は叔父の家に泊まることになって。
 夜半過ぎ――がふと目を覚ますと、隣で一緒に眠ったはずの叔父の姿はなく、リビングから灯りが漏れていて、人の声がした。近づいていったの耳に聞こえてきたのは、も聞いたことのある声だった。
「お前、いつになったらちゃんと仕事を再開するつもりなんだ!」
 叔父に向かってそう言っていたのは、叔父の友達だ。ともよく遊んでくれる。ドライブに連れて行ってくれたりして、豪快に笑う、とても優しい人。それが怒っている現実に、は身体を竦ませた。
「あの子が不憫なのは解る。大事なのもわかるさ。でも――あの子はお前の姉さんじゃないんだぞ!」
「解ってるよ――でも、姉さんはもういないんだ。姉さんにしてあげたかったことを、あの子にしてなにが悪い? 姉さんに会いたいんだ。でももう会えない! 会いたいんだ! 会いたい――姉さんにそっくりなあの子を見るのは辛い。でも、どうしようもないんだ。ぼくに拒めるわけないだろう? あんなに姉さんにそっくりなのに……」
「そんなに好きだったんなら、どうして血が繋がってないって解ったときに告白しなかったんだ――」
 はそれ以上聞いていられず、その場を離れた。ベッドに戻って頭まで布団をかぶると、いま聞いたばかりの叔父の言葉が頭のなかでぐるぐると回った。
『姉さんにしてあげたかったことを、あの子にしてなにが悪い』
『姉さんにそっくりなあの子を見るのは辛い』
『拒めるわけないだろう? あんなに姉さんにそっくりなのに』
 を取り巻いていた世界が、音をたてて崩れていった。にとって憧れで尊敬で大切な、すべてだった人――でもそれは、だけの勝手な思い込みだったのだ。
(ぼくは母さんの代わりで――本当なら、見るのも嫌だったなんて……)
 次の日の朝、に気持ちを隠して笑うなんてことができるはずもなく――その雰囲気から、叔父もが昨日の会話を聞いてしまったことに気づいたのだろう。
 一週間後、仕事を再開したと、叔父はアメリカへ渡ってしまった。
 叔父が旅立った日、は貯めたお小遣いを持って宝石店に行き、小さなルビーのピアスを買った。自分で穴を開け、ピアスをつけてみた。
「似合わないよ……」
 ――くんもピアス似合いそうだな……そう、ルビーなんか、きっと似合うよ。
 あのころ叔父が自分に向けて言っていた言葉は、すべて自分を見て言っていたのではないのだと、鏡に映る自分が証明している。それでも、そのピアスを外すことができなかったのは。
『ジブン、だれかに気づいて欲しくて、つけてるのとちゃうんか?』
 忍足の声が、ふと、頭の中に響いた。
(そうか、気づいて欲しかったんだ……)
 あのとき、自分でも分からないままカッときて、忍足にひどいことを言った。忍足の言葉はの、見たくない本心をついたのだ。
(気づいて欲しかったんだ――誰かに。叔父さんに? 違う――誰か……)
が真っ直ぐ俺んこと見て、笑ろうてくれたらええなて思う』
 そう、のことを、を――真っ直ぐに見てくれる誰か。
 その誰かに。
『これをつけてるは、とても綺麗やった』
(似合ってるって、言って欲しかったんだ――)
 その誰かはきっと、を認めてくれるはずだから。




「昨日は遅刻で、今日の朝練は上の空だなんて、舐めすぎじゃねーの、侑士!」
 始業前の氷帝学園のテニスコートで、岳人が声高く忍足を怒鳴って、その背中を叩いた。
「岳人! ちょお、ぼーっとしてただけやん。怒りなや」
「だから、練習中にぼけっとするなって――」
 コートの隅で言い争いを始めた忍足と岳人に割り込むように、フェンス越しに近づいてきた人影。
「あの――!」
「誰だよ? お前」
 機嫌が悪いことこの上なく不機嫌そうに言った岳人を押しのけるようにして、忍足がフェンスへと寄った。
――……」
 忍足はため息をつくようにその名前を呟いていた。
 そこにいたには、あの無粋な眼鏡も野暮ったい髪型もない。
 少しだけ震えが残る長い睫が、忍足を見上げている。
 耳にかかる程度に綺麗にカットされた柔らかそうな髪は薄い茶色に変わっていて、その耳に光るのは――紅いルビーのピアス。
、その髪――」
「これ……思い切って染めてみたんだけど、どうかな?」
「もうめっちゃ綺麗やわ……似合うとる」
 ギュッと忍足はふたりを隔てているフェンスを掴んだ。引きちぎれるものなら引きちぎって、その淡い髪に触れてみたかった。いや――たぶんフェンスがなかったら、抱きしめてしまっていただろう。
 後ろで不満そうに怒鳴っている岳人の声ももう聞こえない。
「あの――ありがとう、忍足」
 忍足を見上げるの目元は、恥ずかしさからか少しだけ赤みを帯びている。
 けれど真っ直ぐに忍足を見上げながら、は微笑んだ。
「きみに聞いて欲しいことがあるんだ」



*あとがき* 主人公の設定に懲りすぎてしまって、ドリなので忍足とのほうをメインに書かなきゃいけないと奮闘しました結果、やたら時間が掛かってしまいました。しかしこの主人公は急に綺麗になって忍足は別の心配をしなければならなくなるでしょう(笑)