君を、見たい4
家族構成は三人である家で、普段は使用されていないダイニングテーブルの四つ目の椅子――そこに忍足が悠然と座っているというのは、どう見ても不思議な光景だった。
の前と、そしていつもは空席である向かいには、クロワッサンにオムレツ、サラダとコーヒーというありきたりな朝食が並べられている。忍足は初めて会ったはずのの義母とも笑顔で会話しながら食事を続けていた。二年前――初めて義母と会ったとき、目を合わせることすらできなかった自分が思い出されて、は朝食に口をつけることもできず、俯いた。 「――そない驚かしたんか、堪忍な」 忍足の言葉に、は慌てて顔を上げて首を振る。 「違う……から。忍足が謝る必要はないよ」 「そうか? ほな、食おうや。美味いで」 そう言うと、忍足は手にしていたクロワッサンの端を千切って、の前へと差し出してきた。焼けたバターの香りが、の鼻に届き、食欲を思い出させた。そういえば昨日の夜もなにも食べていないのだ。 「?」 促されるように名を呼ばれて、は反射的に口を開いた。そしてそのまま――パクリと忍足の指の先のクロワッサンへとかぶりつく。焦げつかない程度に程よく暖められたそれは、口の中でサクッと小気味よい音をたてて崩れていった。 「……美味しい」 飲み込んで、思わず呟く。は寝起きが悪いというわけではないが、朝から食欲があることは滅多になく、けれど作ってもらったものを食べないわけにもいかず、味など解らないまま流し込んでいただけだったのだが。 「こっちこそ――ご馳走サン」 忍足が指の先を自分のくちびるにつけた後、そう呟いていた。 「もう食べないのか?」 不思議に思って、は尋ねた。忍足の前のプレートは、まだ半分くらい残っているのだが、忍足も朝はあまり食べないのだろうか。 「ん――? ああ、いや、こっちのハナシや」 忍足が楽しそうな笑みを浮かべてそう答えたけれど、には意味がよく解らなかった。 クロワッサンを口に入れるときに、のくちびるが忍足の指の先を掠めたことなど、は気づいていなかった。いや――気づけないほど、にとっては大したことではなかったのだ。 そんなに再び微笑みかけてから、忍足はフォークでオムレツをすくった。 「早く食べへんと、遅刻してまうで」 「あ、うん――」 促されるまま、は自分のプレートに置かれているクロワッサンに手を伸ばした。口に入れたそれは、ちゃんと美味しく感じられた。「パンは足りた?」「コーヒー、もう一杯どう?」などといつもより頻繁に話しかけてくる義母の存在を煩く感じないのも不思議なくらいだった。 も初めてもうひとつパンをもらったし、忍足にいたっては――いくつお代わりしていたのか、五個食べていたところでは数えるのを辞めた。 「あの……忍足、なんでここに?」 何度も聞こうとしたのだがなかなかタイミングがつかめず、すべて食べ終えてコーヒーのお代わりを口にするころ、ようやくは忍足に尋ねた。 「朝練がなくなったん。せっかくやし、と一緒に登校したいなぁ思て。迷惑やった?」 「そんなこと、ないけど――」 「驚かしたろ思て外で待っとったんやけど、オバサンに見つかってなぁ。怪しいモンなのに入れてくれるゆうから、甘えてもうた」 「氷帝の制服着ているんだもの、怪しくなんかないでしょう?」 食器を片付けていた義母が、忍足の言葉を聞いてそう返す。 「そろそろ時間じゃない?」 義母に言われるまで、は時間のことをすっかり忘れていた。遅刻だと慌てなければいけない時間ではないが、が乗るつもりだっだ早めの電車ではなく、以前と同じくらいの時間になってしまう。 「行こう、忍足!」 はコーヒーのカップを置くと慌てて立ち上がって鞄を掴む。 「そう焦らんでも、まだ充分間に合う時間やで」 忍足はの義母に声を掛けてから、ゆっくりと立ち上がる。 「オバサン、ご馳走サンでした。めっちゃ美味かったですわ」 「いいえ、簡単なものしか用意できなくてごめんなさい。忍足くん、よかったら今度は泊まりに来てね」 「ああ、ええなぁソレ。、泊まりに来てええ?」 ダイニングの扉の前で、忍足が来るのを待っているに近づきながら、忍足はにっこりと笑って言った。 「……いい、けど――それより早く、行こう!」 待ちきれず、は忍足の袖を掴んで引っ張る。 「ほな、行ってきますー」 忍足がの義母に挨拶している声を背後に聞きながら、は玄関へと急いだ。 「ほら、。乗るで」 急ごうと言ったのに、まだ平気やんと忍足に返されて、確かに授業開始時間にはまだ充分間に合う時間だったため、忍足のペースに合わせて歩くことしかにはできなかった。結果、たどり着いた駅にちょうど入って来た電車は以前と同じ――そして忍足が乗ろうと促したのも、が以前乗っていた車両で―――― 「忍足、ちょっと待っ――」 の静止もむなしく、忍足に手を引かれながら、人波に押されるままは車内に乗り込んでしまった。人と人とが隙間なく押し込まれた車内で、は忍足の左半身に寄りかかるように密着していた。 「この時間の電車、かなり混むんやな」 「う、うん…」 以前知らない男に身体を密着されたときは、気持ち悪い以外のなにものも感じなかったのに、忍足が相手だと――なんだか恥ずかしくて、目も合わせられない。 「まぁ、三駅の辛抱やしな」 忍足が喋ると、その振動が身体の触れている部分から直に伝わってきて、あらためて自分たちが密着していることを思い知らされる。ドキドキと高鳴っているの心音は忍足に伝わってしまわないだろうか……? 電車がスピードを緩めると、引っ張られるように身体が持っていかれる。駅に停車すると、続けて降りる人波と、乗っている人波に押された。 「あ――…」 電車の扉が閉まり、再び発車するころ、は忍足とはぐれてしまっていた。の目の前には体格のいいサラリーマンの背中があって、すこししか動かせない首では、忍足の姿を探せなかった。いくら離れてしまったからとはいえ狭い車内のことで、しかもあと二駅で降りるのだ。わざわざ声を上げて忍足を捜さなければいけない状況ではないだろう。それとは別に――は急に不安を感じた。の背後にも、大柄な男性が立っているようなのだ。ふたりに挟まれて、は身動きができない。 不意に、背後の男性がギュッと押してきた――いや、押し付けてきたというほうが、正しい表現かもしれない。に対して、その下半身をギュッと。 電車の揺れだと思いたかった。けれど揺れていないときも、その行為は続く。押し付けられている箇所がじっとりと熱を持ってくる。 やめろ――と言いたかった。けれどには背後の男性の姿は見えない。本当にに向かってそういう行為をしているのか、確かめようもない。逃げようにも、ぴったりと挟まれた状態では、身体の向きを返ることすらできなかった。 気持ち悪い――けれどにできることは、ただじっと耐えて、涙を堪えることだけだった。 「……?」 聞こえたのは、優しい声。誰よりもを気遣ってくれる、忍足の声。 「具合悪いんか――?」 忍足の姿を捜そうと、は必死に顔を上げた。 「ちょお通して――友達が気分悪なってん」 ない隙間をぬうように、人ごみをかき分けて近づいてくる忍足の姿を、はようやく捉えることができた。押し付けられていた背後からの感触は、もうなくなっていた。 「次で、降りるで」 忍足は手を伸ばしてを引き寄せてくれた。忍足の胸に額を預けながら、はほっと息をついた。 やがて停車した電車の、人の動きに合わせて忍足に庇われながらはホームに降り立った。空いているベンチを見つけ、そこに腰を下ろす。電車は走り去り、人の流れも一斉に階段へと向かっていたから、あっという間にと忍足の周囲には人がいなくなった。 「飲めるか?」 忍足が差し出してくれたのは、いま買ったのだろう――冷たい水のペットボトルだった。 「ありがと」 受け取って、口をつける。正直もうそれほど気分は悪くなかったが、冷たい水はすっきりと洗い流してくれるようで美味しかった。 「ありがとう、忍足」 もう一度が礼を言うと、隣に座っていた忍足は手を伸ばしての手をギュッと握った。 「――我慢せんといて。一緒におるときはいくらでもついてられるけど、一緒におれへんときのが多いんや。一緒におれへんときにが辛い思いしてたら、俺かて辛い。我慢せんと、気分悪なったら電車降りたりするのんも手やで。すこしくらい寄り道したて、我慢して身体壊すよりええやろ? もっと――自分自身を守ったって」 怖かった。逃げたかった。そして、やめろとはっきり言えない自分が情けなかった。だけど―――― 『もっと、自分自身を守ったって――』 にとっては見知らぬ他人に拒絶の言葉を面と向かって言うことも、相当な苦痛だった。だからといって我慢するのではなく、イヤな状況から逃げることも、ひとつの方法だと、忍足は教えてくれているのだと思う。 「うん……忍足、そうだね――」 は顔を上げて忍足に微笑み返した。 「ありがと」 (どうして忍足の言葉は、いつも心を軽くしてくれるんだろう――?) は自分の手を握り締めてくれている忍足の指を、握り返した。 「もう、平気。行こうか?」 が忍足にそう言ったのは、ホームに下りてから二本電車が過ぎただけだったから、十分もかからなかったはずだ。 「そうか――じゃあ行こうか。あ、ちょお待ってや」 立ち上がった忍足がベンチの脇にしゃがみ込む。 「どうしたの?」 声を掛けたに、忍足は手に持った物をヒラヒラと振って見せた。 「コレ、そこに落ち取った。駅員に届けてくるわ」 忍足が手にしていたのは二つ折りの黒い皮の財布だった。 「うん、待ってる――」 軽く頷いて、忍足は階段のほうへ走っていく。その背中を見送っていたは、忍足が素早い手つきで財布の中身をチェックしていることには気づかなかった。 戻ってきた忍足と、ちょうどホームに入ってきた電車に乗り込み学園へと向かう。到着したのは予鈴の五分前――遅刻にはならずにすんだ。廊下を歩いていたと忍足は、教室の前に立つひとりの不機嫌そうな生徒に睨まれる。 「俺様を待たせるとは、いい度胸じゃねーの、忍足」 「堪忍してや、跡部。――先、入ってて」 機嫌が悪そうに見えても、忍足と跡部の仲は良いというのはも解っていることだったし、邪魔をしないようには忍足に言われたとおり、先に教室へと入った。だから、その先のふたりの会話を聞くことはなかった。 「ほな、昨日話した相手」 忍足はポケットから取り出した名刺を跡部に渡した。 「財布に自分の名刺まで入れてるとは思わんかったけど。免許証も確認したから、本人に間違いないで」 「こいつが昨日電話で言ってきた、氷帝の女生徒に痴漢しまくってるってヤツか――」 「そ。被害者の女のコ、表に出すんは可哀想やし、警察沙汰にして逆恨みされても困るしな。社会的制裁がイチバンやろ? 跡部家の権力で、女子高生のいないところにトバしたってや。僻地でもいいし、海外でも――シンガポールなんかどうや? あの国じゃ即逮捕やろ?」 「俺様を顎で使う気か、と言いたいところだが、今回はやってやるよ。泣き寝入りしてる女生徒を減らすためと――ヤツを追い詰めるためにスリまでしたお前に免じて、な。それにしても、お前にそこまでさせた女は、いったい何年何組の誰だ? えぇ?」 昨日、跡部に電話したあと、痴漢のことを教えてくれた女生徒にも電話した。そして電車の時間、車両の場所、ソイツの特徴など詳しく聞いた。 その電車のその車両に乗ったのも、とはぐれたのも、計画の上だ。 に不快な思いをさせてしまったことだけは忍足としても辛かったのだが――素人の自分が他人の財布を抜き取るのに、小細工が必要だった。の身体を引き寄せるために、ソイツの身体を押しのけるように触るという。 あとは――座ったベンチの横に、その財布を落としておいただけ。 「ようやく見つけたん――跡部でも教えられへん」 忍足は満足そうに笑いながら、予鈴の響く教室内へと入った。微笑んで自分を見つめているのいるところへと。 END back to index *あとがき* 忍足に助けてもらうんじゃ男主人公の意味ないし! と思いつつ、今回は助けてもらいました。しかも腹黒く(笑) |