もう一度隣に (後編)


side You

 手塚にテニスをしてくれと言われるなんて、驚きを通り越してなにか間違っているのではないかとは思ってしまった。けれどのテニスの程は手塚とてよく知っているのだし、本当にテニスがしたいわけではないのかもしれないと気づいた。壁のほうがマシだろうにあえてを選んだのだから、なにかほかに理由があるのだろうと。
 自分になにができるのか分からない。けれど手塚の望むことなら、自分にできる限りのことはしたかった。
 手塚のケガのことは気になっていた。気にするなというほうが無理だろう。だからテニスができるくらいにはケガはひどくないのかと安堵したし、けれどそのラケットが右手に握られているのを見たときには、また不安にもなった。
 そんな状態でのプレイは、ただでさえ不慣れなのだから、当てるだけで精一杯だった。
 それなのに、続けているうちにボールを返すことにいつのまにか集中していた。手塚のケガのことを忘れたわけではなかったけれど、考える余裕がなくなっていた。
 ボールを返せるのは、このコートに立つ自分ひとりきりなのだから。
「あ――…」
 ついに、ボールは当たることなくラケットの先をすり抜けていった。
 は、薄闇に浮かぶ黄色いボールを追ってコートを出た。ひどくすっきりした気分だった。が落ち込んでいても、なにも変わらない。いちばん辛いのは手塚なのだから、まず手塚のためにできることを考えるべきなのだと、いまさらながらに気づいたのだ。
 このテニスが、手塚のなにかのきっかけになるというのなら、もっともっと真剣に付き合わなきゃいけないと、ボールを拾ってが振り返ったとき、コートの中央に立つ手塚の前に、人影が見えた。
 その様子からして、どうやら知り合いのようだった。一瞬迷ったものの、打ち合いを再開するにしても、挨拶くらいはしておいたほうがいいだろうと、も近づいていった。
「こんにちは」
 ネットを挟んで手塚の横に立ち、はコート脇に立つ人物へ声を掛けた。続けて、手塚に問いかける。
「手塚くんのお友達?」
「あん? 誰だ、お前?」
 その人物が言うのと、手塚が答えたのはほとんど同時だった。
「氷帝テニス部の部長です」
「もしかして――昨日手塚くんが試合した相手?」
「はい」
 再びのの質問に、手塚が答える。
「そして勝ったのは俺だ。残念だったな、手塚。左肩をかけたのに、俺様に勝てなくて」
 ふたりのやりとりに跡部が口を挟んだ。その言葉を聞いたが、跡部に向き直り軽く会釈する。
「そうですか――ぼくは、といいます」
 普通に挨拶をしたが、跡部は気に入らなかったらしい。
「おめでたいヤツだな。手塚の左腕を使えなくしたのは、俺だぜ」
「それは――違うよね、手塚くん? 試合を見ていないぼくが言うのは変なのかもしれないけれど、そのくらいは分かるよ」
 手塚のほうを向いたを振り向かせるように、跡部が言う。
「お前になにが分かるって言うんだ? 確かに俺との試合で、手塚は肩を痛めたんだぜ」
 跡部の言葉に、は視線を戻した。少しだけ目を伏せて考え、そして先ほど気づいたことを、跡部に向かって言った。
「あの……ぼくは、手塚くんのケガのことはよく知らないけれど、君との試合で手塚くんが肩を痛めたのなら、それは君が強いから、手塚くんが無理をしたということでしょう?」
「分かってるじゃねーか。そう、俺様のが強いんだよ。なぁ、手塚?」
「でも……無理することを決めたのは手塚くんだから、手塚くんのケガは、君のせいじゃないと思うよ」
 の言葉を聞いて、跡部が驚いたようにを見返したことよりも、横に立つ手塚から向けられる視線のほうが気になっていた。手塚だって、がこんなふうに考えているなんて思いもしなかっただろう。けれどは、手塚には振り返らずに続けた。
「だって、君は手塚くんにケガをさせるために試合をしたわけじゃないでしょう? それに試合は――誰かにやらされているものではないはずだし」
 あんな単純な打ち合いをしただけでテニスのなにが分かると言われればそれまでだけれど、コートのなかで、走るのもボールを打ち返すのも、すべて自分の意思でやっていたのだ。やりたくてやったことで、もし転んだりして傷を作っても、は手塚のせいだとは思わないし、そう思われるのもイヤだと思う。
(手塚くんの前に、ひとりの人間として、対等に立ちたいんだ――)
「フン。お前、面白いじゃねーの」
 ニヤリと笑った跡部に、も微笑み返した。
 いまこそ、手塚に大和から預かってきた伝言を言おうと手塚を見上げたとき、その背後のほうから、甲高い女性の声が聞こえた。
「あ〜! ケイゴ、こんなところにいた〜! 探したんだからね〜!」
 キャミソールにミニスカートにサンダルという、肌の露出の多い格好の女性が、両手に飲み物のカップを持って駆け寄ってくる。
「エスプレッソしか飲まないなんて言うから、探すの大変だったんだから〜」
 女性の言葉を聞いた跡部がチッと舌打ちしたのがにも聞こえて、跡部のほうに視線を向けた、そのときだった。
「キャー!」
 それは一瞬の出来事で、が気づいたときには、の目の前に手塚の右腕があった。そしてパシャという音と共に、コートに飲み物が飛び散る。
 膝を突いた女性と、手塚の足元に転がる空のカップ。
「大丈夫ですか?」
 手塚からの言葉に、ようやくは状況を理解した。
「て、手塚くんこそ! 大丈夫!?」
「アイスでしたから」
 転んだ彼女の手からのほうに飛んできたカップは彼女の分だったようだ――手塚の腕には、トッピングされていたらしいチョコレートソースと生クリームが少しついていた。
「ごめんね、手塚くん」
「いえ、洗ってきます」
 手塚は落ちたカップを拾うと、水道のほうへ歩いて行く。
「いった〜い! ケーゴ、助けてよ!」
 地面の上に座り込んでしまった彼女が、跡部に恨めしそうに言った。
「合わねぇ靴、履いてんじゃねーよ」
 跡部は彼女に近づいて、立つのに手を貸していた。その背中に、は呟いていた。
「君は――とても優しい人だね」
「アーン?」
 の声が聞こえたらしく、振り返った跡部は眉を顰めていた。
「君――手塚くんのケガの具合が気になって、見に来たんでしょう?」
 にも分かることなのに、手塚のケガを自分のせいだと言ってみたり。
 彼女に飲み物を買いに行ってもらったのに、帰ってきたのを歓迎している様子ではなかったり。
「な――っ! 馬鹿言うんじゃねーよ! 俺は――デートしてんだよ」
 立たせた彼女を強引に抱き寄せて見せるのも、には言い訳のようにしか見えなかったけれど。
「うん、ごめんね」
 が微笑むと、跡部も気が抜けたように笑った。
「ハッ――お前、本当に面白いな。って言ったか?」
「ええ、です」
「そうか――じゃあまたな、。邪魔したな」
「そんなこと――」
「ああ」
 言いかけたの言葉を遮って、戻ってきた手塚がの横に立って言った。
「てっ、手塚くん――?」
 驚いて見上げた手塚は、跡部を睨むように真っ直ぐ見据えていた。
「手塚――貴様はつくづく俺の想像を裏切るヤツのようだな」
 ククッと楽しそうに笑いながら、跡部は女性の肩を抱きながら去っていった。残されたのは、当然、と手塚のふたりだけた。
「あ、あの……手塚くん。さっきは、ありがとう」
 手塚が腕を出してくれなければ、気づくのが遅れたは正面から彼女の飲み物を被っていただろう。
「いえ。先輩――少し、座りませんか?」
 手塚に促され、ふたりでコート脇のベンチに腰を下ろした。ふたりきりになったことで、急に会話が続かなくなったような気がする。先ほどが跡部に言ったことを、不快に思っているのだろうか――会話のきっかけを探していたに、手塚の静かな声が聞こえた。
「先輩が仰ったとおり、俺は昨日の試合で無理をしました。完治したはずのヒジを庇って、肩に負担をかけていたようです。それに気づいても――試合はそのまま続けました。自分の手で、勝利を掴みたかった。結果として、負けてしまいましたが」
「手塚くん――」
 は、必死で言葉を探した。
「ぼくは……手塚くんがケガをしたって祐大から聞いて、どうしていいのか分からなくて、こうして会いに来てしまったけれど、さっき、手塚くんと打ち合っていて思ったんだ――コートのなかでは、ひとりなんだなって」
 この思いが、手塚に伝わりますように。
「コートに立って手塚くんが決めたことは、手塚くんだけのものなんだよね。ぼくにはなにも言えない。なにもできない。でも……いつも応援してる。なにがあっても。コートのなかでも、外でも。迷惑かもしれないけれど、それだけは――させて欲しい」
 自分にはなにもできない――それは認める。思うだけで、なにもできない。それは分かっている。けれど、それでも思ってしまうことを、止めることはできない。
 ぼんやりと浮かび上がるコートだけを見つめるふたりの間を、ザワッと風が舞った。
先輩――俺は、明日から九州に行きます。青学付属の病院で、肩も、肩についてしまった変なクセも、すべて治してきます。再びコートに立つために」
「て、づか、くん……」
 の瞳から、堪えていたものが零れだした。
「よ、かった――九州に行けば、治るんだね。よかった――」
 両手で拭うけれど、涙は溢れるばかりで止まってはくれない。
「ごめん、おかしいよね……ぼくが、こんな――。でも……手塚くんが、テニスできなくなったら、どうしようって……そればっかり、考えてた――」
先輩――」
 涙を留めるように頬に置いていた左手の上に、手塚の左手が重ねられた。
「もう一度、言わせてください。全国大会の決勝戦を、見に来ていただけませんか?」
「うん――行く。必ず行く。その日だけを、待ってるから。手塚くん――気をつけて帰ってきて」
 これから行く相手には相応しくない言葉なのかもしれない。けれど手塚は、帰るために行くのだから。
「ええ――必ず、帰ってきます。帰ってきたら、そのときは……いえ、きょうは、帰りましょうか」
 珍しく手塚が切った、その言葉の先に続くものが気にならないわけではなかったが、でも、帰ってきたそのときに、きっと聞かせてもらえるのだろうと、そんな予感がする。
 手塚の手が静かに離れて、はいつの間にか止まっていた涙をもう一度拭った。
「うん、帰ろう」
 立ち上がって、そしては思い出す。
「あ、祐大からの、伝言」
 まだ座っている手塚に――自分より低い目線の手塚に――は告げた。
『いまの青学の柱は、どなたですか――?』
 手塚の空気が、ふっと和らいだのをは感じた。
「大和先輩に伝えてください。『最後の日まで、誰にも譲る気はありません』と」
「うん、必ず伝える」
 が微笑んで、手塚が立ち上がる。
 並んで歩きながら、道路へ続く階段を降り始める。
 お互いに、もう一度一緒に歩く日を思いながら。




*あとがき*   手塚の病院行きを聞いたとき、この主人公なら手塚の身体を案じて、逆に喜ぶんじゃないかな〜と思ったネタが、こんなに長くなるとは……。あと、柱はまだ譲られないで下さいという希望も込めて(笑)