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「消える、言葉」 後編
「あー! あー! 手塚! 俺のケイタイ〜!」
「手塚、廊下を走るのは――って、全然聞こえてないみたいだね」 「あんな慌ててる手塚なんてはじめて見るかもー……どうする、不二?」 「どうするって英二、もちろん――」 笑いながらふたりは手塚のあとを追った。 もちろん後方でそんなやりとりがなされていることに気づくことはなく、手塚は携帯電話から漏れ聞こえてくる会話を聞きながら走り続けた。 『昇降口って、ここひとつなんですか?』 『職員と来客用の入り口でしたら左手の奥にありますよ。よろしければ、案内します』 『ううん、先生に用事ではないから』 『生徒を捜しているのでしたら、呼び出しましょうか?』 『ありがとう。でも、もうすぐ来るんじゃないかな』 性能のいい携帯電話は、のクスクスと笑う声を伝えてきた。 『ねぇ、国光くん?』 手塚が会話を聞きながら走っていることは、にはすっかり見通されている。 「あと二分で着く。そいつに余計なことを言うな」 『……ふうん』 返ってきた楽しげな声音に、余計なことを言ったのは自分だと手塚は気づいてしまった。 『ねぇ、きみ、国光くんの知り合い?』 『国光というと、この学校には3年一組の手塚国光しかいませんが』 『うん、その手塚国光』 『では、知り合いですね』 『ひょっとして君もテニス部なのかな?』 『ええ、まぁ。ところで、俺のほうからもいくつか質問したい事柄があるのですが――』 「そこまでだ――乾!」 息を切らせている手塚を初めて見た――あとでどこから走ってきたのか調べてみようと、の前に立っていた乾は思った。 「乾くんって言うんだ。よろしくね。ぼくは。国光くんの――」 「さん!」 素早く息を整えた手塚はツカツカと歩み寄り、乾とを隔てるように立つ。 「なにしに来たんですか!」 不機嫌そうに告げた手塚を、乾は注意深く観察していた。手塚にとっては歓迎しかねる客らしいと乾が思ったときだった。 「そんなに焦らなくても……」 と呼ばれた人物は楽しげに笑いながらそう返した。乾から見える手塚の表情は『グランド50周!』と叫び出しそうなくらい不機嫌なものにしか見えなかったのだが、言い返さないところをみると、どうやら彼の言葉通りらしい。もっと観察する必要がありそうだと、乾は眼鏡を押し上げた。 「お弁当を届けにって言ったでしょ?」 は手にしていた包みを手塚の前に押し出すように持ち上げて見せた。風呂敷で包まれたそれは、三段重ねのお重のようだ。 「母も共犯ですか?」 ようやく手塚はこの事態を把握した。 「んー……首謀者は、国晴さん」 嬉しげに答えたの声は、最後にハートマークでも飛んでいそうな勢いだった。 「あのバカ……」 思わず口の中で呟いてしまった言葉を、は正確に拾い上げ、手塚を睨み上げた。 「国晴さんのこと悪くいうのなら、このお弁当はあげないからね。せっかくぼくが寝ないで作ってきたのに。乾くん、だっけ? よかったら――」 不意に名前を呼ばれ、に笑顔を向けられた乾がドキッとしたのもつかの間、手塚の怒号が周囲に響く。 「!」 その鋭さに乾のほうがビクついてしまったくらいなのだが、当ののほうは愉しげな笑顔を浮かべていただけだった。どうやら彼が何者なのか本気で調べる必要がありそうだと判断した乾だったが、廊下の端から響き渡った声に邪魔をされた。 「あ、いた! 手塚ってば〜! 俺のケータイ〜!」 走ってくる菊丸と不二。その姿を見つけたときの手塚の判断は素早かった。 「菊丸に渡してくれ」 手にしていた菊丸の携帯電話を乾に向かって投げるように渡すと、手塚はの持ってきた包みを取る。 「さん、こっちへ」 もう片方の手での手を掴み、手塚は走り出していた。 「待って……国光くん……もう……」 息を切らしたが切れ切れにそう言うと、手塚は走っていた速度をゆるめて、扉の前で立ち止まった。 「着きましたよ」 対する手塚の息が先ほどとは違いまったく乱れていないのは、これでものペースに合わせて走ってきたからだ。 「ここ、は……?」 「テニス部の部室です」 鍵当番は副部長である大石の仕事なのだが、手塚も合鍵を預かっていた。ここにいることが残してきた三人にバレる可能性も高いが、鍵を持っているのは大石と、あとは竜崎先生だけなのだから心配はいらないだろうと手塚は鍵を開ける。 入ろうとして――手塚は自分が上履きのまま出てきてしまったことに気づき眉を顰めたが、いまさらどうすることもできなかった。 奥のベンチに、の持ってきた大きなお弁当を置くと、その隣に、まだ呼吸の辛そうなも座らせる。 は細く、あまり体力もなさそうだと加減して走ったつもりだったのだが、それでも無理をさせてしまったようだった。それに、気になることも言っていたし。 「寝てないんですか?」 「ん、まぁ、時間は、あったんだけど……起きられないと、困るなぁと思って」 の働いているバーの営業時間は深夜二時までなのだが、もちろん時間が来たからといって客を追い出すことはなく、客がすべて帰ってからも後片付けや掃除をするので、結局帰宅するのは朝の六時ぐらいになることもあるらしいと父が話していたのを聞いたことがある。 きっと今日もそんな時間に帰宅して、それから手塚のためにこの弁当を作り、わざわざ学校まで持ってきたのだろう。 「まったく――なんでそんな無茶したんですか」 手塚の問いに、ようやく呼吸が落ち着いてきたは、顔を上げて愉しそうに微笑みながら答えた。 「そりゃあ、国光くんの困った顔が見たかったから」 「――」 呆れるように、手塚は名前を呼び捨てた。 「オアイコでしょ? 国光くんだってぼくの仕事場に来たんだし」 の言葉に、手塚はあの日のことを思い出す。スーツを着てバーに行って――突然にくちづけた、あの夜のことを。 「あれは――悪かった」 視線を逸らせて呟いた手塚に、の顔色が変わる。 「ふーん……国光くんは、あれが悪いことだと思って、後悔してるんだね。あ、そう」 言い終わらないうちには立ち上がり、手塚の脇をすり抜けていこうとする。 「待て――」 そうじゃないんだと説明するよりも早く、手塚は行動に出ていた。 あの夜と同じように、の手を掴む。 力を入れて引き寄せると、の身体は抵抗することなく、手塚のすぐ近くまで戻ってきた。 あの夜と違うのは、ふたりを隔てるカウンターがないということ。 手塚は掴んでいた手を離して、両手でしっかりとの細い身体を抱きしめた。 「……後悔してるんじゃ、なかったの?」 手塚の腕のなかで、が囁く。 「人目がある場所だったことには、だ」 仕事がなくなったらウチに来ればいいなんて言ってしまったが、本当に手塚のせいでが仕事をクビになるようなことになってしまったら――手塚は責任が取れないと後悔していた。 けれどにキスしたことに、後悔はない。自分の気持ちと覚悟をに伝えるためには、そうするしかなかった。 スッと綺麗な手が手塚の視界の端を横切り、軽く手塚の肩を押した。 が手塚の胸にもたれていた顔を上げて、手塚を覗き込んでいる。そのくちびるがゆっくりと告げる。 「へぇ……じゃあ人目がなければいいんだ?」 その言葉の意味することが、解らない手塚ではない。 手塚は、愉しげな色の浮かぶ瞳を見つめながら、ゆっくりとに顔を近づけた。 触れる寸前で閉じられたの瞳に吸い込まれるように、ふたりのくちびるが重なる。 お互いのぬくもりを確かめるように触れ合ったくちびるは、やがて名残惜しそうに離れた。 静かに開かれたの目元は、うっすらと赤く染まっている。 「……悪い、部長さんだね」 言いながら、は両方の手を手塚の首に回した。そして――再び瞳を閉じる。 「なんとでも――」 言え、という手塚の言葉の続きは、再び重ねられたお互いのくちびるによって吸い込まれた。 「そういうの、嫌いじゃないよ」 というの囁きも。 END
back to index *あとがき* その後、菊丸たちに襲撃されるオチが書いてあったのですが、雰囲気を壊しているようで削除しました。でもまぁ、流石に部室では最後までやれないだろうなぁって……ああっ! いえいえ! ええっと……その、まぁ、そんな感じで!(逃) |