好きと嫌いと大好きと




「おはよう、リョーマ。もう起きる時間だって」
 ノックをして声をかけても、部屋からの返事はない。
「リョーマ? 入るよ」
 はノブをゆっくりと回して、扉を開けた。カーテンが閉められたままの室内は薄暗く、そのなかでまだリョーマはベッドで横になっている。室内に入り、は勢いよくカーテンを開けた。
「リョーマ? 起きなくていいの? 朝の練習があるって……」
「ん……がキスしてくれたら、起きる」
 覚醒したての朦朧とした意識のなか、ベッドの上で身じろぎながらリョーマは答えた。はゆっくりと近づくと、ベッド脇に両膝をついて屈み、再び閉じられそうになっているリョーマの目元にチュッと軽い音を立ててキスを落とした。
「Morning.」
 こめかみに触れた優しい感触に目を開けると、がいる。微笑んでいる、が。
「Could you wake up?」
「Yes...起きる」
 起きれた?とに聞かれて、リョーマはそう答えながら身体を起した。あんなふうに微笑まれて、もう一度目を閉じるなんてできるわけがない。
、早起きだね」
「……今日から学校、だから」
 少し恥ずかしそうに、けれど楽しそうに、が答える。
 はあの日以来、少しづつ表情を見せるようになった。リョーマとふたりきりのときでなくても、リョーマが一緒にいるときかリョーマの話題でなら、他人の前でもその変化が見られるようになった。それはとても嬉しいことだが、気になるのは、あの日――気がついたらいなくなっていたが、なぜか手塚に負ぶわれて帰ってきた朝――と手塚の間になにがあったのかということだ。
「ああ――そうだった」
 家に帰ってからその日のことをに尋ねると「外に出たら手塚がいて、手を引っ張ってくれた」と答えた。どうして外に出たのかと再び問うと、は泣きそうな顔になってリョーマに抱きついてきたから、それ以上聞くことができなかった。手塚に聞くことも考えたが、それはを変えたのは手塚だと認めるようなもので、できるわけがなかった。その手塚と、は同じクラスになるのだ。
「ねぇ、。せっかく同じ学校に行けるんだし……今日一日くらい、朝練出なくていいよ。と一緒に登校する」
 ベッドから降りないまま、リョーマが呟くように言った。
 アメリカでは学校まで親が送るのが普通だったから、お互いの家に泊まった朝は一緒に登校することもあった。けれど、それももう一年以上前のことだ。の両親が、亡くなってしまう前の。
 ベッドの脇に両膝をついているより、ベッドの上に身体を起しているリョーマのほうが位置が高い。は不思議そうにリョーマの顔を覗き込む。
「リョーマの時間に、一緒に行く。リョーマがテニスしてるところ、見てるから」
……いいの?」
 その答えに喜ぶ前にそう尋ねてしまったのは、事故にあってから、がテニスに興味を示さなくなったのを知っていたから。両親の死に直結しているテニスのことを。
「見たい。リョーマのテニス。いい?」
「もちろん。すぐ支度する」
 リョーマはの頬に軽くキスを送ると、文字通りベッドから飛び降りた。少しづつ変わっていくを、いちばん近くて見つけられることが、なによりも嬉しかった。


 ふたりで朝食をとったあと、学校へと向かう。ゆっくり歩きながらの登校だったが、かなり早い時間に家を出ていたため、普段よりも早く部室へ着いてしまった。おかげで、リョーマがいちばん会いたくなかった人物と鉢合わせることとなる。
「おはよう、越前。と――そっちは、越前の従兄弟だっけ?」
 声をかけてきたのは大石で、もちろんリョーマが会いたくなかったのは彼のことではなく。
「オはよゴザイマス、大石先輩――部長」
「ああ、おはよう、越前。おはよう――、よく眠れたか?」
 手塚の視線がリョーマを通り越してへと向かう。“”と手塚が名前で呼んだことで、リョーマは驚いて手塚を睨みつけた。
「おはよう、手塚。眠れた」
「今日から登校だったな。なにか解らないことがあったらなんでも聞いてくれ」
 コクリとは頷くと、早速といったふうに、手塚の隣で無視されたままの格好になっていた大石へと視線を向ける。
「彼、は?」
 黒い髪に黒い瞳――涼やかな日本人形を思わせるが、少々不似合いな子供のような話し方をすることに見とれていた大石は、いきなりその瞳に真っ直ぐに視線を向けられて戸惑う。
「え? あ、あの――」
「彼は同じ三年の大石だ。テニス部の副部長をやっている」
 手塚の紹介に慌てて気を取り直して、大石も挨拶する。
「大石秀一郎です。よろしく」
です。よろしくお願いします」
 そこだけは練習したと思わせる流暢さで、が答えながら頭を下げる。
くんか――君も、テニスするのかい?」
「邪魔……」
 大石の問いかけにが無表情でそう答えたから、驚いた大石は一歩後ずさってしまう。けれど大石の隣で、手塚が平然と答えた。
「いや、お前の実力なら邪魔にはならないと思うぞ」
「身体が……」
 そう呟くように答えたを、リョーマが慌てて見上げる。
、リハビリは終わってるんだよね? 後遺症はない……よね?」
「うん。でも体力が。運動してない、から、1ゲームも、無理――と思う」
 知り合いらしい越前はともかく、どうして手塚も彼と違和感なく会話できるんだろうかと――自分のほうがおかしいのかと大石は不安に思ったときだった。
「リョーマを見てる。それだけで楽しい」
 がリョーマを見つめながらとても幸せそうに微笑んだ。思わず見とれて――ドクンと心臓が高鳴ったことは、大石の新たな不安の種となった。


「転入生を紹介する」
 朝のホームルームでお決まりの台詞とともに入ってきたに、クラス中がザワッとどよめいた。
です。よろしくお願いします。シカゴから来ました。産まれたのはロサンジェルスです。日本語は話せます。でも得意ではないので、変な言い方をしたら教えてください」
 一気にそれだけ言うと、は深々とおじぎをする。練習してきたなと解ったのは手塚だけで、男子からは「帰国子女かよー」、女子からは「可愛い〜」などの声が上がる。
 そのとき、女子のひとりが手を上げて言った。
「はいは〜い! 好きなものとか、嫌いなものとか教えて〜」
 がコクリと頷く。その仕草に、またも「可愛い〜!」の声が飛び交ったが、は自分のことだと気づいてはいないようだった。
「好きなものは――テニス。それと、リョーマと――手塚」
 一瞬にしてクラスが静まり返り、その視線は一斉に手塚へと向けられる。担任教師すらもだ。
 そんな視線などものともせず、手塚はだけを見返しながら、平然と答えた。
「俺はものじゃない、
 言われたは、考え込むように顔を顰める。
「Well,ah...好きな人は、手塚です――合ってる?」
「ああ」
 合ってるんかい! とクラス中が心のなかで突っ込んだが、誰も口に出して言える勇者はいない。みなの視線は手塚のほうへ向いていたから、その変化に気づいたのは、手塚だけだった。
「嫌いなものは……トラック」
 手塚は立ち上がった。ただでさえ白いの顔が、ますます青白くなっていくのだ。

 手塚は足早に近づき、の手首を掴んで名前を呼ぶ。
――嫌いなもののことを考える必要はない。好きなもののことだけ考えていろ」
 手塚の声が聞こえていないのか、はまだ俯いたままで、その顔はいまにも泣きそうだった。
「先生。くんの席はあそこでいいんですよね?」
 手塚は目線だけで担任に示すと、担任は金縛りから解けたかのようにコクコクと頷いた。手塚は握っているの手を引いて、歩くことを促す。そしてその耳に、静かに語りかけた。
、昼休みに軽く打ち合わないか? 二、三球でいい。お前が疲れない程度に。なんならサーブだけでもいい。あのとき見せたサーブは見事だったぞ」
 手塚の淡々とした口調に、ようやくは顔を上げた。
「――う、うん。少し、やる」
「そうか、楽しみだ」
 手塚はを用意された席へ座らせると、自分の席へと戻る。その間、クラス中の誰も物音ひとつたてなかった。
「失礼しました、先生。続けてください」
 手塚の声に、ようやくほかのクラスメートたちも動き出したが、それはかなりぎこちないものだった。
 もちろん――それは、それだけで終わるはずのことではなく。
!」
 一時間目の授業が終わると同時に、三年の教室に駆け込んできたのは違う校舎にいるはずのリョーマで。
!」
 窓に寄りかかるようにして、手塚の隣に立つのところへ、リョーマは真っ直ぐに近づいていった。
「I heard you said you love him. Really?」
 部長を愛してるって言ったってホントなの――と、動転したリョーマは思わず英語で問いただす。
「No.I answered my favorite thing.Tennis,Tezuka,and YOU.」
 好きなものを答えただけだけどと、は答える。テニスと、手塚と、そしてリョーマだと。
「Me?」
「Of course!」
「ならいいけど……って、よくない! じゃあなんて『転入生は部長の恋人』なんて噂が一年の教室まで伝わってくるわけ? なにしたの、部長?」
 リョーマはの横に立つ手塚を睨み上げた。
「俺はモノじゃないと言っただけだ」
「だから、好きな人は手塚ですって、言いなおした。合ってるだろ、リョーマ?」
「合ってない!」
 噛み付くように叫んだリョーマに、は対処できずにただ見下ろした。反応のないに不安を覚えたリョーマは、の腕を掴む。
「俺は、? ねぇ、俺のことはどう思ってるの?」
 は、ようやく自分にも解る質問をされたとでもいうように、まっすぐにリョーマを見下ろして――そして、ふわりと微笑んだ。
「リョーマ? 大切。ないと生きていけない」
 言葉と、そして笑顔に射抜かれて、リョーマは大きな目をさらに見開いて固まる。教室中の誰も彼も、なにかをしているふうに見せかけながらこの三人の様子を伺っていたから、の笑顔を見れた生徒たちは多かった。そのすべてが、リョーマと同じように動けなくなっている。
 がそんな外部の様子に気づくはずもなく、ただリョーマの態度だけを気にしていた。
「……間違ってる?」
 不安そうにそう聞いてきたに、リョーマは慌ててを見上げて、嬉しそうな笑みを返した。
「いや――合ってる。それなら、いいよ。じゃあ、帰りは俺が迎えにくるまで動かないでよ」
「うん」
 の隣に立つ手塚にもリョーマは、優越感に浸った笑みを見せて、教室を出て行った。
 クラスにいた生徒たちはみなその会話に聞き耳を立てていたが、やはり『合ってるんかい!』と直接突っ込める人間は誰もいるはずがなく。
「手塚、さっき間違った日本語、教えた?」
 リョーマが出て行くと、が手塚を見上げて言った。
「いや、間違ったことは言ってない。受け取り方の問題だ」
 それだけじゃないと思うと、やはりみな心のなかでめいっぱい叫んでいたが、手塚を前にしてそれをに教えられる人間はいない。
「……日本語、難しい」
「使っていれば慣れる」
「ん、頑張る」
 自分たちも別の意味で頑張らなければいけないと、クラスのあちこちでため息が漏れたことに、は当然気づいていなかったが、手塚がどう思っていたのかは――手塚にしか解らないことなのである。




*あとがき*   少々逆ハー仕立てにしようと思ったのですが、大石だけで手一杯でした。しかしリョーマはともかく、手塚がある意味、かなり壊れてますね(笑)