その心とぬくもりと




「リョーマ、は?」
 二階から降りてきたが、居間を見回しながらそう言ったのは、その日の昼も過ぎたころだった。
「ああ? 上にいねぇのか? 見てねぇぞ」
 縁側での昼寝を決め込んでいた南次郎は、目を閉じたまま答える。
「リョーマさんならさっき出かけたみたいですよ。ラケットバッグを持っていたから、練習じゃないかしら」
 ふたりの会話が聞こえたのだろう。ひょいと顔を出して、答えたのは菜々子だった。
「リョーマ……」
 呟くように名を口にするの声は、置いていかれた子供のように不安気だった。いや実際、リョーマに置いていかれたと思っているのだからその通りだろうと、南次郎は寝ていた身体を起こした。
「アイツのケガももうすっかり治ったみてぇじゃねえか。そんなに心配するな、
 南次郎の言葉のひとつひとつをかみ締めるように軽く頷いたあと、はこくりと大きく頷いた。
 一週間前の地区大会の予選で、リョーマは左まぶたにケガをして帰ってきた。息子のケガよりも南次郎が心配したのは、その試合を見に行っていたのことだ。目の前でリョーマの血を見たは、また不安定な状態になってしまうのではないかと。なにがきっかけかは知らないが、ここのところに表情が戻ってきただけに、それは避けたい事態だった。
 南次郎の心配を余所に、リョーマと一緒に帰ってきたは、ひどく疲れているようではあったが、ショックを受けた様子はなかった。確かに次の日からは以前にも増してリョーマにべったりで、甲斐甲斐しく片目のリョーマの身の回りの世話をするようになってはいたが、リョーマ以外の相手に話しかけられてもちゃんと反応していたし、一年前のように、殻に閉じこもってしまうような兆候は見受けられなかった。
(それにしてもリョーマのヤツ、どこ行ったんだ……?)
 リョーマも、そんなの状態を理解して大人しく世話を焼かれていた……わけではなく、ただ自分自身が嬉しいからそうしていたのだろうと南次郎は確信しているのだが、だからこそ、になにも言わずに家を出るというのは少々おかしい気もした。
 だがラケットを持っていったというなら、心配することはない。ケガで思いっきり動かせなかった分でもどこかで取り戻しているのだろう。カッコ悪いところを、に見られたくないとでも思ったのか。
「よおし、。お前も久しぶりに軽くやるか?」
 立ち上がって、南次郎はラケットを振る真似をした。はあの事故以来テニスに関してもまったく興味を示さなくなっていたのに、リョーマのプレイを見るだけではなく、ひとりで軽くラケットを振っている姿まで見ることができるようになった。
 頷いたを伴って寺のコートへ移動する。煙草を吹かす傍ら、には充分に準備体操をさせてから、ボールを放った。
 この一年ろくな運動をしていなかったの身体に以前の体力も筋力もない。強すぎず、けれど弱すぎず球威をコントロールしながら続けたラリーで、の息が上がってきたのは、二十分もしないくらいの短い時間だった。けれどそれでもかなり回復してきたと、南次郎は満足気に微笑んだ。
「このへんで止めとくか。無理して疲れてもしかたねぇだろ」
 ボールを止めてにそう言うと、は胸を押さえながら頷いた。近づいていって、その頭をくしゃくしゃと撫でる。
「やっぱりお前は筋がいいな」
 の口元が嬉しそうに笑みを作ったのを南次郎は見て取った。テニスが好きな気持ちも、ほとんど取り戻したようだ。
「いつか、また……リョーマと、できる、ように……なり、たい」
 荒い呼吸で途切れ途切れになりながらもはっきりとそう口にしたに、南次郎も豪快に笑った。
「そのためには、お前はもっと食って体力つけとけないとな!」
 

 帰って来たリョーマが有無を言わせず南次郎を寺のコートに連れ出したのは、そろそろ陽も傾くという時刻だった。
 ハンデはいらないとリョーマが答えて、打ち始めたふたりを、寺の影からは静かに見ていた。リョーマのリターンが南次郎の後ろを抜き、南次郎が咥えていた煙草をもみ消したのを見て、そっとその場を後にする。
 歩き始めたが向かったのは家ではなかった。曲がり角でいくつか立ち止まったあと、周囲を見回して道を選ぶ。やがてが足を止めたのは、『手塚』という表札が掲げられた一軒家だ。
 チャイムを押して出てきたのは、手塚の母である彩菜だった。
「あら……国光のお友達よね?」
 が口を開く前に、彩菜がそうに声を掛けた。早朝に一度連れてこられただけのを、覚えていたらしい。
 がこくりと頷くと、彩菜は続ける。
「ごめんなさい、国光はいま出かけてるのよ……」
 それを聞いて、はもう一度頷く。そして頭を下げて歩き出したを、彩菜が扉から出てきて引き止めた。
「そろそろ帰ってくると思うから、よかったら上がって待っていてくれないかしら? ね?」
 その言葉と微笑みは、に逆らう理由を見つけさせなかった。
「国光に電話してみるわね」
 にお茶を淹れると、彩菜はすぐに受話器を取った。


『国光? いまどこなの? お友達が来てるわよ』
 手塚の携帯に母親から電話があったのは、病院の帰り――ちょうど大石と別れたあとだった。
「友達? 誰ですか?」
 相手に心当たりのなかった手塚は、訝しげに尋ねる。
『あら、名前聞いてなかったわ』
「母さん、名乗りもしない相手を家に上げたんですか」
 母親の軽率さを責めようとした手塚の言葉を遮って知らされたのは、思いがけない事実だった。
『だって、この間の子だもの。ほら、この間の朝、あなたが連れてきた……』
!」
『そう、くんって言うの?』
 その母親の声は、手塚に向けて言われたものではなく、どうやら受話器の向こうにいると会話しているようだった。
「すぐに帰ります」
 手塚は通話を切って、走り出した。
 家に着いたのはそれから十分も掛かっていないだろう。ただいま帰りましたという挨拶もそこそこに居間へ乗り込んだ手塚の見たものは、と母親と祖父とが、静かにお茶を飲んでいる光景だった。
「お帰り、手塚」
 がそう声を掛けてきたので、それが夢ではないと知る。
「ああ――待たせた」
 手塚は真っ直ぐにに近づくと、その腕を取る。
「俺の部屋へ行こう」
 がなぜここにいるのかは分からないが、唯一つ分かることは、が自分の意志でここに来たということだ。つまり手塚自身になんらかの用があって。
 お茶はと問いかける母親に、結構ですと断りをいれ、手塚はを連れて二階にある自分の部屋へと上がっていった。
「適当に座ってくれ」
 勉強机以外に椅子はないので、ベッドか床に座ってもらうしかなく、手塚はにそう言ったのだが、は閉めた扉を背にしたまま動かなかった。
「どうした?」
 脱いだジャケットを椅子の背に掛けて、手塚は尋ねる。
 じっと手塚を見ていたが、ゆっくりとその口を開いた。
「リョーマに、なにか、した?」
 やはりそれだったかと、手塚は表情に出すことはなかったが、そう思った。がわざわざここまでくるほどの理由は、リョーマ絡みだと検討がつく。
 手塚も必要だと判断して行った試合だ――リョーマにどんな変化があったのかは分からないが、いちばん傍で見ているがそれに気づくのは当然のことだろう。
「試合をした」
 手塚は端的にそう答えて、の反応を窺った。
 手塚の返答を聞いたは考え込むように目を伏せ――やがてその両目からぽろぽろと涙を零した。
「……ありが、とう」
 そう呟いて、は涙を流し続ける。手塚は驚いての傍に寄った。
「なぜ泣く?」
 怖がらせないようにと静かな声で、そう尋ねた。
「嬉しい、から」
 掌で涙を拭いながら、は答えた。
「なぜお前が嬉しい?」
 再び尋ねた手塚に、は手早く両方の手で涙を払ってその顔を上げた。
「オレにはできないこと、だったから。してあげたくても、できなかった、から。手塚がしてくれて、嬉しい――Thank you.」
 そこまで言って、は背伸びをして手塚の頬にキスをした。
「あ……ゴメン、なさい」
 顔を離したは、ひどく困った顔をして俯いた。
「なぜ謝る?」
「こっちでは、キスは、家族以外には、しないって。リョーマから、聞いた」
「では問題ない。俺はお前の家族になりたいと思っている」
 間髪いれずに手塚がそう答えたから、が驚いて顔を上げる。
「手塚が、オレの、家族……?」
「嫌か?」
 は首を振った。そして――再びその二つの瞳から涙を零し始めた。
「なぜ、泣く?」
 静かに優しく、手塚はに問いかける。
「わから、ない」
 は軽く首を振ってそう答えたけれど、苦しさや哀しさから流している涙ではないことを、手塚は確信に近い思いで眺めながら、もう一度に告げた。
「お前の家族になりたいんだ。だが、父親でも母親でも兄弟でもない。俺はお前の――パートナーになりたいと思っている」
「パートナー……」
「そうだ」
 言葉を繰りかえしたに頷いて、手塚は手を伸ばしてその肩をそっと抱き寄せた。
 はされるがままに手塚の胸の中にその身を預けた。
「手塚、暖かい、ね……」
「お前もな」
 小さな声でも通じるくらい、互いの距離はとても近くて。
 は手塚の胸に耳を寄せて目を閉じた。
「手塚、生きてる」
 聞こえてくる自分のものではない鼓動に、は呟いていた。
「ああ」
 頷いて、手塚も自分の腕のなかにある柔らかい温もりにそれを実感する。
――お前が生きていてよかった」
 囁いたそれは、手塚の本心だ。生きていてくれてよかった、出会えてよかった――――
 手塚の腕のなかでがその黒髪をサラリと揺らして、顔を上げた。
「リョーマの」
 突然の口からその名前が飛び出したけれど、がなにかを話そうとしているのだと解っていたから、手塚は静かに「ああ」と頷いてその続きを待った。
「リョーマの、血を見たとき――真っ暗になった。でも手を握ってくれた、呼んでくれたから、立っていられた」
 主語がなく続けられたの言葉だったけれど、手塚にはその意味が分かる。
 一週間前の地区大会予選――リョーマがケガをしたのはまぶたで、眼球ではないと手塚には見えたのだが、確かにその出血はひどかった。だからリョーマではなく、フェンスの向こうで応援していたのもとへ駆けつけた。案の定リョーマを見つめて立ち尽くしているの、その腕を握って、手塚はその名前を呼んだ。
 呼吸すら止めてしまったように見えただったが、やがてしっかりと手塚の手を握りなおし「リョーマは?」と口にしたのだった。
「――手塚がいて、よかった」
 手塚の腕のなかでそうが口にするなんて――しかもとても幸せそうなの笑顔つきで。
 それだけでも手塚を感極まらせたというのに、はさらにこう告げたのだ。
「生きていて……よかった、と思えるように、なった」
 生きていることに無関心だったが、手塚に会ったことでそう変わったと教えてくれたのだ。それは手塚にとって最高の告白だった。
、触れてもいいか?」
 抑えきれず、手塚はその親指でのくちびるをゆっくりとなぞった。
 はなにも答えなかった。イエスもノーもなかったけれど、上を向いたまま静かにその瞳を閉じた。
 そっと触れ合ったくちびるは柔らかく、暖かく。
 そのぬくもりはゆっくりとお互いの心を満たしていった。




*あとがき*   『好き』という告白はしてるから(笑)、言葉ではない態度の告白をさせたくて書いてみました。そのわりに南次郎が出張ってますが……。お互い自覚しちゃいましたから、他人の目をまったく気にしないカップルになりそうで怖いです。