未来の刻を君と (後編) side T
抽選の終わった会場を足早にあとにすると、手塚は待ち合わせのコーヒーショップへと向かった。
店の入口脇に一人の男が立っていて、手塚へ視線を向けているのに気づいた。だが手塚のほうに特に心当たりはなかったし、このあたりは立海大付属の生徒が多いだろうから、青学テニス部のジャージを着ている自分が珍しくて見ているだけだろうと思った。 だからそのまま、男の前を素通りして店のなかに入ろうとしたとき、声が聞こえた。 「……きみだったとはね」 周囲に他に人はおらず、自分に対して言われた言葉なのかと、手塚は足を止めて彼を見た。だがやはり、その顔に見覚えはなく。 訝しそうに見ている手塚に、男はフッと笑って言った。 「くんを、よろしく」 男の口からでたその名前に、手塚がはっと身構えるが、男はそれだけ言うと踵を返し、手塚にも店にも背を向けて歩き出す。 男が口にした名前はもちろん手塚がよく知っているものだが、その呼び方に既視感を覚えた。 どこかで、そんなふうに彼が呼ばれていたのを聞いた気がする―――― 手塚は呼んだことも、また、年下の自分が彼にそんなふうに呼びかけることは一生ないであろう、その呼び方。 『――くん!』 唐突に、記憶が繋がる。 三ヶ月ほど前、と偶然の再会を果たしたとき、を追ってきた男。あれは、さっきの男に似ていなかったか。 慌てて、手塚は店の中へ入る。さきほどを残してきたはずの席へ目をやると――はそこにいた。手塚の姿を見つけ、極上の笑顔を浮かべて。 「あの――…。遅くなって、すみません」 さっきの男になにかされませんでしたかという言葉が喉まで出かかった。 「ううん、結構早く終わったんだね。よかった」 けれど手塚の顔を見上げて微笑むは、とても落ち着いていて。 少なくとも、が嫌がるような目には遭っていないのだと解る。もちろん店の中なら他の客や店員が常にいるから、必要以上に絡まれたり、無理矢理連れて行かれたりすることはないと踏んで、ここを待ち合わせの場所にしたのだが。 「あの、それでね。待っている間に、いろいろ考えたんだけど」 「はい」 答えながら、手塚もも前に座り直す。 手塚の心配を余所に、むしろの様子は嬉しそうで、それはそれでなにがあったのか気になってしまう。だが聞いてみたい気持ちを抑えて、手塚はの話の続きを待った。 「手塚くんに、その……お願いというか、あの……」 「言ってください。俺にできることなら、なんでも」 できないことでも、の望みなら叶えたいのだが。 「あの、手塚くんは、全国大会の決勝戦を見に来て欲しいってぼくに言ったよね。それは、それですごく嬉しくて――もちろんそうしたいんだけど、その……」 確かに九州へいく前、手塚はにそう言ったが、なぜいまさらそのこと持ち出すのか。 都合が悪くて見に行けなくなったということなのだろうか。まさか――さっきの男のせいで。 だがの口から出てきた言葉は、手塚が予測すらできないものだった。 「その前の試合も、見に行っちゃダメかな?」 「え――」 思わず漏れた驚きの声に、が焦る。 「あ、あのっ、手塚くんの言葉を信じてないわけじゃなくて、ぼくも青学が優勝するって思ってるんだけど、その、決勝戦だけじゃなくて、その他の試合も――手塚くんの試合なら、できるだけ自分の目で見たいなって、そう思って……」 なぜ口に出す前から、手塚の望みが解ってしまうのだろう―――― 「――喜んで。いえ、こちらから、お願いしようと思っていたところです」 決勝戦で優勝するところを見せて、自分の気持ちを伝えようと思っていた。 けれど九州で、からの手紙を読んで、ミユキと出会って――自分がテニスをしている姿を、にはいつでも見てもらいたいと思うようになったのだ。 「先輩、ようやく青学はここまで来ることができました。全国で優勝します。ですがそれは簡単なことではないでしょう。俺が膝をつくこともあるかもしれない。勝っても負けても、俺は自分に恥じない試合をします。それを、あなたに見て欲しい」 どんな自分でも、ありのままの姿を。 「……うん。見せて欲しい――ぼくに、手塚くんを、もっと」 まっすぐに手塚を見てそう言ったの瞳。 いまだけでなく、この先もずっと、その瞳に映るのは、自分でありたい。 「先輩に、ずっとお話したかったことがあるんです――」 手塚は初めて、中学を卒業したらドイツへ行ってプロテニスプレーヤーになるという決意を人に話した。 は嬉しそうに笑顔で頷き、そのときからふたりは同じ未来を見ることになった。 * * * 手塚がドイツへいった翌年、は青春学園大学部に進学することなく、栄養士の専門学校へと入学する道を選んだ。 中学の卒業式のあと、そのままドイツへ飛んだ手塚からは、短いながらもほぼ毎日のように、へメールが届けられていた。 その日の出来事を報告するような淡々とした内容だったが、そのなかには時々『栄養を取らなければいけないのは解っていますが、疲れていると食べるのが面倒です』、『こちらの食事は味付けの濃いものが多いので、日本の食事が懐かしいです』など、食事に関するものが含まれていた。 なにか自分にも手塚のためにできることはないかと、なりに考えた末に選んだ進路だったのだが、それを聞いた幼馴染みの大和祐大は「手塚くんもなかなか策士ですねぇ」と笑ったが、もちろん応援してくれた。 は二年で栄養士の資格を取得したあと、ドイツへ渡り、プロになった手塚の食生活をすべて管理し、サポートしている。 「おはようございます、さん」 毎朝、を起こすのは、優しい低音。 「……おはよう、国光くん」 瞬きを数回繰り返したあと、ベッドの上に身体を起こしたは、頬に優しいキスを受ける。 手塚はすでにウェアに着替えていて、広いベッドに残されているのはだけだ。 「では、ランニングに行ってきます」 手塚が走っている間に、身支度を整え、朝食を用意するのがの日常だ。 「うん、いってらっしゃ――」 部屋を出掛けていた手塚は、が途中で言葉を切ったのに気づき、足を止めて振り返る。 「なにか?」 「…え? ああ、ううん。ちょっと、昔のことを思い出しただけ」 ごめん、なんでもないよと付け足しながら、はベッドを降りたのだが、どうやら手塚はその答えでは納得していない様子で、眉間に皺を寄せた。 手塚のその表情は、彼が不機嫌になったからではない。ホームシックだとか、この生活を後悔しているのではないかとか、彼は常にのことを心配している――そのせいなのだ。 たわいない話だとは解っていたが、は手塚を安心させるために話し始めた。 「栄養士になるって決めて祐大に話したときにね、『手塚くんもなかなか策士ですねぇ』って祐大が笑ってたことを思い出して――あ、もちろん祐大の冗談だからね」 慌ててそう付け足したのだが、手塚は浮かない顔で目を伏せてしまう。 「国光くん…?」 今度はが尋ねる番だ。ゆっくりと手塚に近付いて、その顔を覗き込む。 手塚は観念したように、話し始めた。 「大和先輩の言葉は、真実です。あのとき俺は――さんが俺に関心を持つように、あえてそういうことを書いていましたから」 告白し、審判を待つかのように瞳を閉じてしまった手塚の首に、は背伸びをしてそっと両腕を回した。 目を開けた手塚の頬に、は素早くキスをする。 「祐大にそう言われたときね、ぼくも言ったんだ――『だったら、ぼくのほうが策士だよ。栄養士になって手塚くんのスタッフのひとりになれたら、いつも傍で手塚くんを見ていられる。それに、ずっと手塚くんと一緒にいても、世間的にもおかしくないでしょう?』って」 それを聞いた大和は『あなたには負けます』と大笑いしたのだったが。 「あのとき夢に描いた未来を、本当に手に入れたんだなと思ったら、なんだか言葉に詰まってしまって」 「さん――ッ」 手塚の腕が強くの身体を引き寄せ、ふたりの唇が深く重なり合う。 言葉にならない思いを伝え合うかのように、角度を変え何度も触れ合った唇は、やがてゆっくりと離れた。 「感謝します、さん。あなたと、あなたに出会わせてくれたすべてのことに」 手塚の静かな言葉に、も頷く。 「ぼくも、感謝してる。国光くんと――国光くんが見せてくれる未来に」 そう言って笑ったの瞳に、手塚からの優しいキスが降ってくる。 はそのくすぐったさに微笑みながらも、手塚の背中に両腕を回していた。 その日初めて、手塚が日課のランニングに出るのが大幅に遅れてしまうことになる。 そんな、幸せな未来の話。 *あとがき* 初めて書いた夢話で、あまくできなかったことを反省したので、このお話ではキスさせてみました。未来の話を書いたのも初めてですが、きちんと完結まで書けた気がして、嬉しいです。ありがとうございました! |