見据える先の (後編)


side T again

「――ぼくと、テニスしてくれないかな?」
 突然言われた言葉に手塚は驚いたが、言ったのほうがもっと驚いているようだった。
「ご、ごめん! なんだか少し身体を動かしたくなったっていうか――その、おかしいよね、ほんと。ラケットも持っていないのに――」
「ラケットもウェアも、俺の予備がありますから。少し歩きますが、向こうにナイター設備のある貸しコートがありますので、行きましょう」
 手塚はそれだけ言って歩き出した。
「え? あの、手塚くん?」
 戸惑いつつもが追いかけてくることは計算済みだ。
「手塚くん――いいの? ぼくは、その……テニスは初心者だよ? 高校の授業で少しと、だから祐大に教えてもらって打ち合ったことがあるくらいで――」
「大和先輩と打ち合えたのなら、大丈夫でしょう」
「それは、祐大が手加減してくれたからで――」
 手塚はピタリと足を止め、を見下ろす。まだ少し落ち着かない視線で手塚を見上げたその瞳に、手塚は言った。
「大和先輩にできたことが、俺にはできないと思うんですか?」
 の目が驚きに見開かれるのを確認して、手塚はクイッと眼鏡を押し上げて告げた。
「――冗談です」
 一瞬更なる驚きを見せた瞳が、こぼれるような笑顔を作った。
「…手塚くんの冗談って、分かりにくいよ」
 クスクスと楽しそうに笑う合間に、が言う。
「そうですか?」
 手塚が答えて、そして、ふたりは再び並んで歩き出していた。
「本当に付き合ってもらっていいの?」
 再び尋ねてきたの口調からは、先ほどの過度な遠慮や硬さは消えていた。
「テニスなら、構いません。それ以外でしたら、できないこともありますが」
 手塚の言葉に、は安堵したような笑みを見せた。
「――うん、それじゃあ、少しだけお願いしようかな」
 その答えに手塚のほうが安堵したことは、気づかれずにすんだようだった。
 十五分後――、手塚の向かいのコートにゆっくり入ってきたのは、少し大き目の手塚のウェアを着て、手塚のラケットを持っただった。
 あからさまに借り物の不慣れさを体現しているようなに、手塚はボールを投げた。ぎこちない動作ではあったが、は左手でボールを取った。
「サーブは、先輩からどうぞ」
 相手の力量をみるのは、サーブが一番だ。もちろん全くの初心者なら打つことすら難しいだろうが、学校の授業や、大和と打ち合ったことがあるくらいなら、サーブの経験くらいあるだろう。それに、エリアに入らなくてもネットさえ越えてくれれば、手塚には打ち返せる。
 は所在なげにポーンポーンと左手でボールを弾ませていたが、やがて覚悟を決めたようだ。ボールをギュッと握り締めた。
「お願いします」
 もちろんにオーバーハンドのサービスが打てるはずはなく、何の変哲もないアンダーサーブであったが、それは綺麗に手塚のコートに入ってきた。手塚はの打ちやすいスピードでクロスに返す。何度か打ち合っただけで、打球の球威が増してくるのが分かる。遊びだと本人は思っていても、大和に手ほどきを受けたのだ――そのフォームも綺麗だった。
 もともとの運動神経も悪くないのだろうが、これほど適応力があるのは、きっと勘がよいのだろうと手塚は思う。
 これなら――と手塚は返球のコースをストレートに変えてみる。駆け出すの瞳は真っ直ぐにボールを捉えていて、先ほどまで浮かんでいた不安そうな揺らめきは見えない。
 なにも考えずに身体を動かすことで、精神の安定を図れるときがある。いまのがそうなのならば、それに自分が付き合えることは光栄でしかない。の役に立てるのだし、それになにより――――
(こんな姿を、近くで見ることができるのだからな)
 手塚は、ともすれば見とれてしまいそうになる一生懸命にボールを追うの姿を見つめながら、クロスに返ってくるはずのボールを取るために駆け出した。


「はっ……もっ……ダメ……」
 十分ほどラリーが続いたあと、あと半歩でボールに届かず膝を落としたは、荒い息のなかで途切れ途切れにそう言った。
 短い時間ではあったが、その間一度もミスすることなく的確に返球してきたのだたら、十分間全力疾走していたのと同じくらいの運動量だろう。もちろん手塚は息ひとつ乱すことなく、ベンチに置いていた鞄からタオルを取り出すと、コートに腰を下ろしたまま荒い呼吸を続けているにゆっくりと近づいていった。
「どうぞ」
「ご、めん……なにから、なにまで……」
 手塚からタオルを受け取ってが言う。汗を拭うその仕草すら、綺麗だった。
「あー、気持ち、いいなぁー」
「あまり座っていると、身体が冷えますよ」
「あ、うん、そうだね」
 立ち上がろうとするに、手塚は左手を差し出す。ニッコリと微笑んでその手を取ったには、不安そうな様子は微塵もない。
「ありがとう、手塚くん」
 立ち上がって――手塚の手を掴んだまま、は手塚を見上げ、柔らかく微笑んだ。
「……い、いえ」
 いつもに増して魅力的なその笑顔に、手塚は一瞬見とれてしまう。
「きみは――いつもこんな景色を見ているんだね」
 コートに向き直ったがそう言っていた。
「結構広いんだね。横から見ていたときよりも、ずっと、広く感じる――」
 真っ直ぐにコートを見ていると同じように、手塚も視線を走らせる。手塚がこちら側にきているのだから、当然広がるのはただ誰もいないコートだけだ。手塚には見慣れた光景だが、にはいま、なにが見えているのだろう。
 が見据えている未来を、手塚が知ることはないのかもしれない。けれど――――
(こうして、同じ時間を共有することはできる――)
「もうすぐだよね、都大会。見に行くよ――頑張って」
 の言葉に、手塚は決意を新たにした。
「いいえ。見に来ないでください。都大会も、関東大会も」
 手塚の言葉に驚いて振り返ったの瞳を真っ直ぐに見つめながら、手塚は言った。
「全国大会だけを、見に来てください。全国大会の――決勝戦だけを」
 手塚の言葉に
 が微笑む
 こんな幸せな瞬間を
 何度でも共有するのだ――
「うん、必ず――必ず見に行く」
 この先、なにがあるか分からないが、決して挫けることはないだろうと手塚は思う。
 全国制覇の向こうには、この人の笑顔があるのだから。




*あとがき*   男同士のなにがいいって、「対等でいられること」だと思うのでそれを目標に書いてみましたが、仮にも恋愛目指しているのならキスくらいできればよかったのになぁという点で反省(いや、他にも反省点はいろいろありますが)