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叶う、思い 4
チンと軽いベル音が響き、エレベーターは手塚の押した18階で停止した。降りるとピアノの生演奏が聞こえてくるその場所へ、ゆっくりと足を踏み入れる。外資系ホテルのメインバーであるここは、マホガニー調に統一されており、明るすぎず暗すぎず、落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
手塚はゆっくりとその中心にあるカウンターへ向かい、スツールへ腰掛けた。 「驚かないんだな」 微笑を浮かべているバーテンに、手塚は言った。 「入ってきたのを見たときから、充分に驚いているよ――カッコイイね、スーツ姿」 楽しそうに答えたのは――白いシャツに黒いベスト、蝶ネクタイをし、サイドの髪をきちっと撫で付けたバーテン――である。 「そうしていると……国光くんは、とても中学生には見えないよね」 の前に座る手塚も――ダークグレーのスーツにクリーム色のシャツ、茶系のネクタイを締めていた。 「学生服だと入れないからな」 学校から帰ってきたらのところに行くと告げた手塚に、父は「その格好じゃ浮きまくるし、入れてもらえんぞ」とからかうように言った。それを聞いた母が――「買えばいいのよ」と、手塚が帰るなり、連れ立って外出し、この格好をコーディネートしたのだ。 久しぶりに実の息子と買い物をした母親は始終楽しそうで「さんにまた来てくれるように言うのよ。うまくいったら返さなくていいわ」とスーツ代はもちろん、小遣いまでくれたのだった。 「国光くんの場合は学生服のほうが浮いている気もするけどね――なにか、飲む?」 「アルコールの入っていないものを」 楽しそうなと、不機嫌そうな手塚。その姿はひどく対照的だった。 「かしこまりました」 決まり文句を口にする声はバーテンのそれだったが、表情には隠し切れない楽しさが滲み出ていた。背を向けて手を動かすの、その姿の一挙一動を、手塚は見続けていた。 やがてカウンターの上にスッとの手が伸び、コースターの上に、茶色い液体の入ったロックグラスが置かれた。 氷の入ったロックグラスを見つめて眉を顰めた手塚に、が笑う。 「心配しなくても、烏龍茶だから。グラスはぼくの趣味――というか、雰囲気かな」 の置いたグラスを手に取ると、カランと氷がグラスに当たって響いた。口元に近づけても、アルコールの臭いはせず、手塚はゆっくりと口に含む。確かに――ただの烏龍茶だった。 グラスを戻した手塚は、カウンターの上に、持ってきた本を乗せた。 「忘れ物だ。大事なものなんだろう――?」 「見つけるの、早かったね」 本棚に入れられていた、その理由はひとつ。 「わざと置いて行ったんだろうが」 「いやだなぁ、確かに故意に入れたけど、国光くんが気づかなければそれで終わり。気づいても捨ててしまえばそれで終わることだよ。ここまで来てくれるかどうかは――賭けだったな」 『賭け』という言葉に、手塚はますます眉を顰めた。にとって、これはゲームなのかもしれない。手塚はロックグラスに浮かぶ氷に視線を逸らせて言った。 「――なぜ、嘘をついた?」 「仕事のこと? 同じ水商売だから、そう嘘でもないと思うけど」 「だったら、本当のことを言えばいいだろう」 「インパクトのあるほうを選んだだけだよ。だって――国光くん、ぼくのこと忘れてたし」 呟かれた最後の言葉に、手塚が顔を上げる。は完璧なまでの営業スマイルを浮かべて――いるつもりだったのだろうが、その表情にはどこか諦めたような寂しさが感じられて、手塚は思わず手を伸ばしたくなった。 「さ――」 「ごめん、お客様だ」 手塚の手が掴まえる前に、の姿が消える。手塚より五つほど奥の席に、明るい色のスーツを着た大柄な外国人が腰掛けていた。が近づくと、満面の笑みでの名を呼ぶのが聞こえた。 「I heard that you broke the right arm. 」(右腕を骨折したって聞いたけど) 「No, the crack only.」(いえ、ひびがはいっただけです) 「I was so lonely to have not met you for one month. 」(一ヶ月も会えなくて寂しかったな) 「It's just two weeks I had taken the rest.」(お休みをいただいていたのは、二週間ですよ) 「It was thought to me for about a month, or a year?」(ぼくにはそのくらいに感じられてたってことだよ。いや、一年かな?) 聞こえてくる、まるで口説いているような会話に、手塚は気になって視線を走らせる。 スッとカウンターの上にグラスを置いたの腕に、その外国人が手を伸ばした。 「Here?」(このあたり?) の右腕に指を這わせる。手塚はカッとして立ち上がりかけた。 「Here, you are」(どうぞ、こちらを) は相手のカクテルグラスをキンッと小さく爪で弾くと、笑顔で腕を引き抜いていた。残念そうな表情でを見上げる外国人に、は笑って見せてから、手塚のもとへ戻ってきた。 「お待たせ――そうだ、国光くん。なにか食べる? 簡単なものなら用意できるけど――」 の言葉を聞きながら、手塚は決意を固めた。ロックグラスを手に取ると、中の液体を一気に飲み干す。 「同じものを」 空にしたグラスをのほうに差し出すと、は――今度も楽しんでいるのが隠せない様子で、「かしこまりました」とグラスを取り上げた。 すぐに氷と茶色い液体が入れられた新しいグラスが手塚の前に置かれる。その――置いたの腕を、手塚は掴んで引き寄せた。自身も、右手をカウンターにつき身体を乗り出す。 ゆっくりと――唇を触れ合わせたとき、突き飛ばされることも考えていたが、そんなことにはならなかった。手塚は軽く顔を引き、そして今度は深く、にキスをした。 離れたのはどのくらいの時間が経ってからだったのか。 長かったようにも感じられたし、短すぎたような気もしていた。でもそれよりも大事なことは、手塚の目の前の、伏せた目元を赤く染めて戸惑っているようなの表情だった。 「こんなところで……仕事がなくなったらどうしてくれるの?」 拗ねるようなその言葉に、言えることはただひとつ。そして、それを言いに、手塚はここまで来たのだ。 「またウチで暮らせばいい」 手塚の言葉に、が顔を上げる。そこにあるのは――営業スマイルとは縁のないの素顔――驚いた表情で手塚を見返すその瞳は、やはり子供のように見えた。 がゲームだと思っていても構わない。試合にだって駆け引きはつきものだ。 ふと手塚の目に、カウンターに置かれたままになっていたの本が目に入る。確かこの本の最後には、こんな記述があった。 『妖精が起したこの悪戯に腹を立てる人は、これが夢だと思えばいい』 夢になど、するつもりはない。 手塚はの腕から手を離すと、本を取り上げてスツールから降りる。 「これは、預かっておく」 それだけ言って、に背を向けて歩き出した。 これがゲームだというなら、必ず勝ちを収めてみせる。 「待って――」 出口付近に差し掛かった手塚に、背後から、追いかけてきたの声が掛かる。 「これは、その本に戻しておいて」 は胸のポケットから取り出した写真を手塚の手に押し付けると、素早く手塚の頬にキスをして、そしてカウンターへ戻っていった。 手塚がその写真を捲ると――そこに写っていたのは、五歳くらいの自分と、そして……金髪の少女だと手塚が記憶していたその姿だった。 『戻しておいて』というの言葉。 まさか、本当に大事だったものは―――― 手塚は皮肉げに微笑むと、本の最後のページにその写真を挟みこんで歩き出した。 このセットは落としたかもしれないが、次のセットは取り返してみせる。まだ、ゲームは始まったばかり――そう、思いながら。 END
back to index *あとがき* 手塚がキスしたいと思うくらい手塚を動かせる主人公ってどんな性格だろうと思って考えたお話です。嘘をつくことなんて平気でできるくらい手塚のことが好きなんです。……そうは見えなくても(笑) |