第一話  それはとても激しい雨の降る日のこと




 その日も、暗い雲はイーストシティの上空を覆いつくして、途切れることなく激しい雨を降らせていた。
 セントラルを定刻どおり発車した汽車は、その大雨による視界不良のため、到着予定時刻を一時間ほど遅れて終点のイーストシティへとたどり着いた。
「まったくもって大歓迎、素晴らしい門出といったところか。なぁ、ホークアイ少尉?」
 駅のホームへ降り立った、青い軍服に黒いロングコートを羽織った黒髪の青年が、天井を仰ぎ見ながら嫌味なほど愉しげにそう言った。
 焔の錬金術師、ロイ・マスタング。現在の地位は中佐。その右手には大きな鞄が抱えられている。
「本当に。着任早々無能ぶりを発揮できますね」
 続いて汽車を降りた、やはり軍服をまとった金髪の女性があっさりとそう告げる。
 正確無比な銃の使い手、リザ・ホークアイ。こちらもまだ少尉。
 無能と評されたロイは、恨めしげにリザを振り返ったが、文句を言い返せるほどの気力もなかった。
「まったく……人より秀でていると、余計な妬みも買ってしまうものだな。まさかこんな東の外れまで左遷されるとは」
 ロイとリザが異動の辞令を受け取ったのは、三日前のこと。通常よりいくぶん急な命令ではあったが、軍に属している以上従わなければならない。それがそりの合わなかった上官から笑顔で告げられたものであっても――いや、あればこそだ。そいつの命令を聞かなくて済む方法はただひとつ、自分が相手より上の地位にのし上がることだけしかないのだから。
「お言葉ですが、東方は情勢が不安定だからこそ、昇進の機会もあります。一概に左遷と決めつけることはできませんよ」
 リザの言うことは正しい。治安が悪く、事件がたくさん起こるというなら、それを解決することで確固たる結果が出せるだろう。その結果を提示し続ければ、いくら辺境に追いやられたとはいえ、軍も自分の存在を無視できなくなる。
 そのことをロイも充分承知していたが、気持ちの切り替えができずにいた。それはたぶん、じっとりと重く降り続く、この雨のせいなのかもしれない。
 だが、いつまでも感傷に浸っている暇はない。
「少尉の言うことはいつも正しいよ。では早速、気合をいれて東方司令部の司令長官閣下にご挨拶に行くとしようか」
 歩き出したロイは、すぐに不満気に顔を顰めて足を止めた。
「女性士官の盛大な出迎えが期待できないのは分かっていたが、せめて運転手くらいは出迎えてくれると思っていたが――」
 そういいながらロイはホームを見回したのには理由がある。ホームには、列車を降りている人々しかいない。迎えに来た人間も、乗り込もうという人間もいないのだ。
「マスタング中佐、あそこに人ごみが――」
 リザの指した駅の改札口あたりには、確かに人が集まっている。そのとき、いくつもの甲高い悲鳴が構内に響き渡った。その合間に聞こえる、どすの利いた男の声。
「これはこれは――着任早々、手柄を立てられそうな事態じゃないか」
 ロイは鞄から手を離すと、コートの内ポケットにその手を入れながら駆け出していた。そこから取り出したものは、一組の白い手袋。甲に赤い錬成陣が描かれたその手袋をはめながら、嬉々として近づいていく。
「まだ着任はしてませんよ」
 そう言いながらも、リザはロイの荷物と自分の手荷物を手近な椅子の下に押し込み、コートの下に隠されたホルスターにしまわれている物に手を伸ばし、その存在の確認だけすると、抜くことなくロイの後を追った。
 一方ロイは、すでに人ごみを掻き分け、騒ぎの中心にいる人物が確認できる位置まで来ていた。その姿を見て、顔を顰める。
 髭を生やした体格のいい男は、片方の手に剥き身のナイフを持ち、もう片方の腕に、小さな女の子を抱きかかえていた。その少女はいまにも泣き出しそうに震えている。
「サラ! サラッ――!」
 ロイの左側のほうで、半狂乱に叫ぶ女性を、青い軍服の男性が押さえている。少女の母親なのだろう。周囲は黒い制服に身を包んだ憲兵の集団も見える。
 この男がどんな男で、なんのためにこんなことをしているのかまでは分からないが、その手に握られたナイフの先が少女に向けられているという時点で、悪人以外の何者でもない。
「中佐」
 背後から声を掛けられ、リザが後ろに来たのだと気づく。
「抜くなよ」
 ロイは小声で素早く言った。リザの銃の腕前は信じているが、かまえているところを相手に気づかれて逆上されては困る。いまは人質の救出が最優先だ。
「分かってます」
 リザからはすぐに同意が返ってきたが、余計なことまでも続けられた。
「でも、中佐の錬金術でも無理ですよ」
 そう――ロイの右手は準備万端だったが、犯人の腕のなかの少女に危害を加えず、犯人だけにダメージを与えるのは難しい。加減しすぎれば、それこそ逆上した犯人の手が振り下ろされてしまう事態になるだろう。犯人を驚かせる程度の炎で腕を外させることに成功しても、震えている少女がその場から自分で走って逃げられるとは思えない。
 犯人は少女の母親がいる憲兵たちのほうを向いているから、不意をつくにはロイのいる場所は適任なのだが、いかんせん、ここは人ごみのなか――犯人との距離がありすぎる。ロイが威嚇してリザが飛び出して保護する――またはその逆を行うのも難しい。少女のもとにたどり着く前に、犯人が再び少女を捕まえてしまう可能性のほうが高い。
 あの憲兵のなかの誰かと連携できればいいのだが――ロイは様子を伺うが、みな犯人のほうを向いていて、安全距離を保って見守っている群衆のほうに目を向けるはずもない。
 見守っているだけで刻々と過ぎる時間に、やがて犯人が周囲を不快にさせる嫌な笑みを見せたかと思うと、ナイフを持ち替えた。少女を抱えている腕、その先に持たれたナイフ――つまり少しでも犯人が身体を引けば、その刃は少女の身体を傷つけるだろう。
 そして――犯人は空いた手をコートの中に入れ、ゆっくりと取り出した先に握られていたのは、銃。それまで事態を見守っていた群衆が、一気に自分たちも危険に晒されていると気づき、叫び声を上げながら逃げ出そうとする。一斉に逃げ惑う様がおかしかったのが、犯人は嫌な声で笑いながら、銃を持つ手を天頂に向けた。
 ロイとリザも逃げようとする人々に押されながらも、その場に踏みとどまっていた。このままでは事態は悪化する一方だ。少女に傷を負わせるのを覚悟の上で、犯人の銃を持つ腕を焼き尽くすべきかとも迷ったのだが、やはり少女が死んでしまう可能性がある以上、強行するわけにはいかなかった。
 犯人は銃が本物であることを見せ付けるために、天頂へ威嚇射撃を放ったのだろう。
 パァァァンと、何度聞いても心地よくは聞こえない音が、駅構内に響き渡った。
 その、瞬間。
 ロイは、憲兵の黒い制服の間から、金色の光が放たれたように見えた。
 もちろんそれは見間違いで、憲兵の間から金髪の青年が飛び出し、銃を打った直後に現れた犯人の一瞬の油断をついて、自分の身体を盾にぶつかりながら、腕のなかの少女を奪い取った。そのまま、少女を抱きこむようにして倒れた青年に犯人の銃口が向けられたとき、その銃を持つ腕も巻き込んで、男の目の前で火花が爆発した。


「大丈夫か!?」
 駆け寄ったロイの下でゆっくりと青年が身体を起す。彼の髪と、左肩に焼け焦げができていた。やはり咄嗟のことで、酸素濃度の調節がうまくいかなかったが、ロイが炎を飛ばさなければ、彼は死んでいたのかもしれないのだから、勘弁してもらうしかない。
 しかし、憲兵の間から飛び出してきたのだが、青年が着ていたのは憲兵の制服ではなく、ただの黒いジャケットだった。もしかして一般市民なのか――声を掛けようとしたロイよりも先に、少女の名前を呼びながら女性が駆け寄ってくる。
「ママ!」
 青年の身体の下から起き上がった少女が、母親へ飛びつく。埃にまみれてはいるが、怪我はなさそうだ。
「失礼ですが、マスタング中佐ですか?」
 母親の背後から現れた青い軍服の男にそう声を掛けられる。先ほど母親を押さえていた男だ。
「そうだが」
「自分はジャン・ハボック少尉であります。東方司令部より中佐のお迎えにまいりました」
「挨拶はいい。それより事態の収拾だ」
「はい!」
 ロイの言葉に、あからさまに嬉しそうにハボックが答えた。迎えなんて退屈な任務よりは、現場で働くほうが好きなのだろう。
「あ〜、お前さん、大丈夫か?」
 ロイに声を掛けたのとは違う、かなり砕けた口調で、ハボックは立ち上がった金髪の青年に話しかけた。その顔を見て、ロイも驚く。青年――というよりはまだ少年といってもいいくらいの、とても若い顔立ちだった。焼け焦げてしまった上着と髪が、さらに痛々しく見える。
「加減ができず、すまなかった。髪を元通りにするのは無理だが、服の弁償とお礼はさせてもらう。その前に、傷を見てもらったほうがいいな」
 左肩の焼け焦げから見える皮膚が、赤くなっている。はれ上がるほどではないが、いちおう病院へ連れて行ったほうがいいだろう。
 青年は俯いて立ち尽くしたままで、ロイの問いかけにも反応しない。
「おい、どうかしたのか――」
 一歩近づいたロイの前で、青年の細い身体がグラリと揺れた。慌てて抱きとめたロイは、手袋に違和感を感じる。ロイの視線の先で、白い手袋が見る見るうちに赤く染まっていった。