第二話 くちびるに触れた指先はとても冷たく
その後のロイの行動は素早かった。
ハボックに、ここからいちばん近い病院が分かる運転手と車を用意するように指示すると、青年を横たえさせ、彼のシャツを引き裂き、出血箇所を捜す。わき腹にざっくりと切れている刃物の傷を確認すると、リザが差し出したハンカチでそれを押さえて、誰かが差し出したタオルでその上から縛った。ロイは自分のコートを脱ぎ青年を包んで抱き上げ、リザには鞄を持って先に司令部に行くようにと言い残して、用意された車に乗り込んだ。 ほんとうにすぐに病院に到着できたのは、軍の病院ではなかったからだろう。ロイは彼を抱えたまま病院内へ駆け込み、急患だと告げる。運ばれてきたストレッチャーに彼を移すと、ロイのコートが取り払われ、床に落とされる。駆けつけてきた医師によって彼の状態が確認されながら運ばれていくのを、ロイはただ見送った。 あとは、自分の管轄ではない。ロイは落ちたコートを拾い上げた。皺がより、雨に濡れ、ところどころ彼の血が付いていたコートを、軽くはたく。すると、カシャリと軽い音をたてて、なにかが床へ落ちた。 ロイの足元に落ちていたのは、長い紐のついた小さな袋。ロイは手を伸ばしてそれを拾い上げた。ロイには見覚えのないもので、見れば、長い紐が途中で切れてしまっている。 きっと彼の物だ――彼が首にかけていたのだろう。シャツを引き裂いたときに、一緒に千切ってしまったに違いない。好奇心を押さえられず、ロイは袋の口を開けた。 中から出てきたのは、細く洒落た金色の鎖のついたペンダントだった。まるく、少し厚みのあるそのデザインは中に写真など入れられるロケットタイプのものだろう。なぜペンダントを首にかけず袋に入れて持ち歩いているのかは分からないが、その中の写真まで覗くほどロイも礼儀知らずではないつもりだ。 ペンダントを袋の中に戻し元通りに口を閉めると、ロイは病院の受付に向かった。 駅であった事件のことと、彼の治療、入院にかかる費用はすべて軍が負担することを病院の職員に告げる。最後に、手にしていた彼の落し物を出そうとして――その手を止めた。 ロイは治療はできないがケガ人だけならよく見ている。これだけ処置が早ければあの青年が死ぬことはないと分かっていた。 結局、手術が終わったら東方司令部に連絡を入れてくれるようにとだけ頼んで、ロイは病院を後にした。 「大事なものだろうから、人に預けてなくしても困るだろう」 そう口にして自分の行為を正当化しながら、ロイは軍服のポケットに小さな袋をしまった。 外で待っていた運転手――憲兵に、自分を司令部まで送り届けた後、現場に戻るようにとロイは指示した。広い階段が続く東方指令部の正面入り口で停められた車を降りると、ちょうとリザと一緒になった。そのまま、東方指令部の司令長官室へ向かう。 司令長官は年配の小柄な人物で、セントラルの元上官よりも煩くなさそうだというのがロイの抱いた第一印象だった。 「君、着いた早々大活躍だってね」 砕けた口調で話されても、丸眼鏡の奥の表情までは見えない。弱そうな老人に見えても“将軍”と呼ばれる地位まで登りつめた男だ。油断はできない。 「いえ、当然のことをしたまでです」 直立不動の姿勢で、ロイは答えた。 「うん、いいんじゃない。ここではいろんな事が起こるから、いろいろ経験するといいよ」 まだロイには相手が読めずにいたが、とりあえず苦手なデスクワークを大量に押し付けられたまま閉じ込められるようなことはなさそうだと安堵する。これは、野望のためには確かな一歩になりそうだ。 「はっ! ご期待に沿えるよう、頑張ります」 挨拶を済ませたあと、それぞれの割り当てられて宿舎へと向かった。急なことだったので、リザには寮、ロイには士官用の住宅が用意されていた。一人身に一軒家を用意されてもと思ったのだが、だいたい大佐クラスなるまでには結婚して、子供のひとりでもいたりするのが普通なのだから、文句を言える筋合いはない。 鞄を床に置き、家の中をざっと見回った。寝室は二部屋もあるし、リビングも広い。どう考えてもひとりでは持て余してしまうが、必要のない部屋は使わなければいいだろう。ここに住むのは、セントラルに戻るまでの短い間だけだ。 ベッドには布団も用意されているし、リビングに大きなソファーセットもある。キッチンには道具も一通り揃っている。ないのは食料品だけだが、料理のできないロイには必要はない。近くに朝食が取れるカフェを見つければいいだけのことだ。今日から眠れる場所、その条件さえクリアしていれば充分だ。 勤務は明日からで、今日はもうゆっくり休んでいいと言われていたが、ロイは皺になったコートに再び袖を通すと、雨の降り続く街中へと戻った。 再び訪れた司令部の受付で、ハボック少尉が戻っているなら、と呼び出してもらう。 病院の名前と大体の場所は把握していたからロイひとりで向かってもよかったのだが、事件の現在までの経過を聞いておきたかった。 少ししてハボックが受付に駆けてきた。敬礼と挨拶をしようとするのをロイは手を掲げて制して、「経過は?」と端的に聞いた。 「ちょうど病院から電話があったんで、これから向かうところだったんです。一緒に行きます?」 ロイは頷いて、ハボックの運転する車に同乗した。 「あの青年の身元は分かったのか?」 後部座席からロイが問いかける。 煙草、いいすかね? と数分前に火をつけたハボックは、「まだっす」と答えた。 「ただ、駅に残されていたトランク――彼のだって証言した女性たちがいたんで、いちおうざっと中を検めさせてもらったんですが、セントラル行きの切符が入ってました。あとは数冊の本と着替えと財布――身元や名前を確認できるものはなかったんですが、持ってきてます」 ハボックは助手席に置かれたトランクを指差した。そう大きなものではないが、着替えが入っていたということは、旅行者なのだろうか。 「女性たち、というのは? 知り合いではないのか?」 「ああ――」 ハボックが言葉を切って、笑う。 「行き先が同じなら車中で一緒に座ろうと、アイツをずっと見てたらしいっすよ。俗に言う――逆ナンってやつですかね」 そういえばアイツ綺麗な顔してたからなぁとハボックが続けるのが耳に入ってきたが、ロイは聞いていなかった。そういえば自分はどうして病院へ向かっているのだろう? 傷ついた人間を助けるのは当然のことだ。けれど、彼のものであろうペンダントを受付に預けていれば、特にロイが再び彼に会う必要はないはずだった。なのに――ロイのポケットには、彼のペンダントがしまわれている。なぜ自分は、こんな行動を取っているのだろう……? 「着きましたよ、マスタング中佐」 ハボックに声を掛けられ、「ああ」と答えて車を降りた。 そう、たぶん――あの場にいた誰よりも素早い行動をとれた彼に興味があるのだ。いまはひとりでも有能な、自分だけの部下を増やしたいのだからと、ロイはいい訳めいた結論をつけた。 案内された病室で、彼はまだ静かに眠っていた。 どうやら彼に気づかれずに、彼の大事なものを返せそうだと、ロイはポケットから小袋を取り出す。すると袋の口からなにかが零れて、足元に跳ねた。 「なんすか、それ?」 ハボックの問いかけに答えずに、ロイは足元に落ちたものを拾い上げる。それは金色の小さな飾りで――どうやらペンダントの留め金のようだった。 ロイは袋を開け、中身をすべて出す。鎖を持ち上げて確認してみると、やはりそれはこのペンダントの留め金だった。外れてしまったので、この袋の中に入れて首から下げていたのかもしれない。 「ハボック少尉、なにか書くものを持っているか?」 「あ――はい」 ハボックは分からないながらも、ロイの言うとおりペンを差し出した。ロイはそれを受け取って、ベッドサイドのテーブルに円を描き始めた。 「な、なにするんすか、中佐?」 「黙って見ていろ」 ロイは描き上げた錬成陣のなかにペンダントと留め金を置くと両手をかざす。まばゆい光が室内に広がったあと、ペンダントはもとあったであろう通りの姿に戻っていた。 持ち上げてみてその状態に満足すると、ロイは小袋のなかにそのペンダントを戻した。そのロイの視界の隅で、彼が身じろいだ。 「お、気がついたのか?」 ハボックもベッド脇へ近寄る。見下ろすロイの視線の下で、彼の目がゆっくりと開いた。 二、三度まばたきを繰り返し、困惑気味に周囲を見る青年に、ロイは静かに話しかけた。 「ここは病院だ。解るか? 駅での君の活躍は見事だった。おかげで少女は無事母親のもとへ帰ったよ。君はそのとき負傷して倒れた――思い出したか?」 ロイの言葉に、ロイをじっと見返していた青年が軽く頷いた。 「そうか。君のケガは軍が責任を持って見させてもらう。申し遅れたが私はロイ・マスタング、地位は中佐だ。君の名前は?」 ロイの問いかけに、青年は困ったような表情を浮かべた。なにか素性を明かせないわけでもあるのだろうかとロイが怪訝に思ったとき、青年がその身体を起そうと頭を上げる。ロイはすぐに青年の背中に腕を差し入れ、それを助けた。その背に枕を当ててやると、ベッドの上で身体を起した彼の表情が少しだけ柔らかくなった。そんなロイの前で、青年がロイの前に掌を差し出す。なにかを見せるように差し出された掌になにかが書いてあるわけではなく、ロイには意味が解らない。すると青年は手を伸ばしてロイの手を掴み、ロイの掌を広げさせた。 なにがしたいのかよく解らなかったが、ロイは青年のするがままに任せた。すると、青年はロイの掌に指を当てる。その指先がロイの掌の上で動き始めた。そこに綴られているのが字だとロイはようやく気づいた。その手が止まって、青年がロイを見上げる。一文字一文字綴られたそのアルファベッドを頭の中で組み立てて、そして口にした。 「……? もしかして、君の名前か?」 青年は頷いた。そして、自分の口を指して首を振る。 「君は口が……」 最後まで口にできなかったロイの疑問にも、彼は頷いた。 そこで、ロイは気づく。 「でも、言っていることは解るのか?」 耳は聞こえるのに口が聞けないのだろうか。 すると、青年の指先がゆっくりと上がり、ロイの口元を指した。そしてその指で、彼は自分の目元を指す。 「くちびるを、読んでいるのか……?」 再び、彼は頷いた。 微かに触れた彼の指先の冷たさが、消えずに残っている気がした。 |