第十一話  抱く望みが同じならそれが叶えと願う




 初めて会った人のはずなのに、とても懐かしく思えた――――
 その人の姿を見た瞬間、たったいま感じた恐怖も忘れては飛びついてしまった。姉さんが、最後まで身につけていたロケットのなかにしまわれた写真の人。抱きついていた彼の身体が動いたのを触れている部分から直に感じて、は自分がなにをしてしまったのか気づき、慌てて身体を離した。自分を見下ろす優しそうな瞳と目が合って、は恥ずかしさのあまり俯いてしまいそうになったが、彼が身体の向きを変え敬礼したので、の視線も自然とそちらへ向けられた。
「知り合いかね?」
 両の手を後ろで組んでニコニコと微笑みながら、大総統と呼ばれていた人物が彼にそう聞いたのを、も見て取れた。は慌てて、自分のことを説明しようと向き直る。
「いえ――」
 が見上げた先で、彼のくちびるはそう動いた。
「いいえ、知り合いです。私の――大切な人の、弟です」
「そうか。お前を訪ねてきたようだな。応接室を使うといい」
 大総統のその言葉は、には見えなかった。の視界は、こみ上げてきた熱いものに滲んでいたからだ。
 大切な人――初めて会った自分を見分けてくれ、人前で姉のことをはっきりとそう言ってくれた。
(やっぱり、姉さんが愛した人は、素敵な人だったんだね……)
 は微笑みながら、こみ上げてくる涙を拭った。
 それからのことは、の知らない間にいつのまにか決まっていたようだ。肩に手を置かれ、促されるまま警備兵の横を通り過ぎ、建物のなかに入った。案内されたのは小さいけれどとても豪華な部屋で。そのソファーに、勧められるままは腰を下ろした。彼はの正面に座った。彼の目がとても優しくを見ているのは、の姿から姉の面影を重ねているからだろうと思うと、はここへ来てやはりよかったのだと思った。
『お名前を教えて頂けませんか?』
 はメモ帳を取り出して素早く記入した。
「おお、名乗るのが遅れて申し訳ない。我輩はアレックス・ルイ・アームストロングという。貴公は――殿、だったな」
 アームストロングが自分の名前を知っていたので少々驚きつつは頷いた。姉が話していたのだろうかとも思ったが、先ほど大総統がメモから自分の名前を読み取っていたから、そこから聞いたのかもしれないとも思う。どちらにしろ、そんなことは些細なことだった。
「姉君によく似ておる――お元気なのか、あの方は?」
 その言葉に、やはり姉さんはこの人になにも言わずに戻ってきたのだとは覚った。は静かにポケットから封筒を取り出し、彼の前に差し出した。彼に会ったら渡そうと、セントラルへ向かう汽車のなかで書き続けたものだ。
「我輩に、か?」
 は頷いた。大きな手は丁寧にそれを開いていった。その手紙の書き出しはこうだ。
『ぼくは耳が聞こえないので、突然このような長い手紙で事情を説明させていただく失礼を許してください。姉は先月、一年にわたる闘病の末、亡くなりました。姉が最後まで大事に身につけていたロケットのなかにあった写真の方に会いたくて、ぼくはここまで来ました――』
 は首から提げていた小袋を外し、そのなかからペンダントを取り出した。手紙の冒頭部を読んだのだろう――驚いた目でを見つめていた彼に、そっとそのペンダントを差し出した。
 アームストロングは大きくてしっかりとした指で、器用にそれを開いた。そこにしまわれていたのは、いまとほとんど変わらない自分の写真――――
 それを見た彼は文字通り涙を溢れさせ、身体を震わせていた。なんのてらいもなく感情を表にするアームストロングの姿に、もまた涙した。
 事情を説明する手紙は、ずいぶんと長いものになった。それでも、列車がセントラルへ着く時間いっぱいを使って推敲してまとめたのだが。
 そこに書いたのはいままでの姉ととの生活についてだった。
 姉が医者の道に進んだのは、自分を治すためだったこと。けれど医学に限界を感じて錬金術を学び始めたこと。もっと研究に時間と資金を費やしたくて国家資格の試験を受けに行ったこと。けれど実技の試験で落ちて、うな垂れているところに、資金援助をしてくれるという人に出会ったということ。
(それがこのアレックスさんだったんだな――)
 両親が事故で死んでから、と姉は喫茶店を経営している夫婦の部屋に住まわせてもらっていた。国家錬金術師の試験を受けにいった姉から、試験は落ちたけれど資金援助してくれる人が見つかったので、しばらくセントラルに住んで研究を続けるという手紙が来たときは、親切な人がいるものだなというくらいにしか思わなかった。
 その姉が、一年前突然帰ってきて、ふたりはそれまで住んでいたダブリスを離れた。向かったのはダブリスよりもっと東の、小さく静かな田舎町だった。その町の丘の上には、不似合いなほど綺麗で大きな建物があって――そこまで来て初めて、は姉に、彼女が病気であることを告げられた。そして、その建物が治る見込みのない人間が余生を過ごすための施設であることも。
「医者だったクセに、自分の病気に気づかなかったなんてね」
 そう言って笑った姉の顔を、が忘れることはないだろう。
 は街の喫茶店の厨房で住み込みで働かせてもらえることになり、毎日姉を見舞った。彼女は辛いとか苦しいとか一度も言わずに、いつも微笑んでいた。
 亡くなる数日前に、差し出された手書きの本。
「結局わたしでは完成させることができなかったけれど、いつか誰かがこれを――ううん、いまのままでも、あなたならきっと大切なものを見つけられるわ、
 あのときは姉がいなくなってしまうのが怖くて、ただ首を振ることしかできなかった。いまでも、その言葉の意味をすべて解っているとは言いがたいけれど。
 そして姉が亡くなった後、病室においていた少しばかりの身の回りのものを手に帰ろうとしていたを、看護婦が追いかけてきたのだ――ベッドの隙間に押し込まれていたという、そのロケットを持って。
 不意に扉が開いて――ノックがあったのだろうがには分からないので――はそちらに顔を向けた。眼鏡をかけた軍人がカップを乗せたトレイを手に入ってきて、の前とアームストロングの前にカップを置いた。は頭を下げ、アームストロングも泣いているのを隠そうとしないまま、お礼を言っているようだった。
 その人がの前のテーブルをトントンと叩く仕草をしたので、は彼のほうを向いた。
「お前さん、だろう?」
 彼の言葉に、は頷く。
「俺はマース・ヒューズ。ロイ・マスタングの友達なんだ。ロイから、お前さんがセントラルに向かったって連絡を受けてな。お前さんのこと捜してたんだ」
(ロイ、さん――)
 突然のその名前に、の心臓はドクンと跳ねた。
「ロイから伝言――『会いたい』ってさ。詳しい事情は聞いてないんだが、お前さんが突然出て行っちまったことに納得いってないみたいだったぜ」
 その言葉に、は気づかないまま両方の手をギュッと握り締めていた。世話になったというのに、あんな紙切れだけの書置きを残して出てきたのは、やはり恩知らずのすることだったと思う。けれどロイの前で直接伝えるなどできそうもなかった。そんなことをしようものなら、迷惑になると解っていても、あの家にいたいという気持ちを吐露してしまいそうだからだ。
「お前さんが見つかったことは、俺のほうから連絡させてもらう。いいだろ? だからそのうち、ヤツんとこに顔出してくれるか?」
 握り締めている両手から、全身が痺れていくようだった。
(会い、たい――)
 日数にしてみればたった十日――あの家にいたのは、たった十日間のこと。ロイと出会って一緒に過ごしたのは、たった十日間の出来事なのに。その一分一秒が、忘れられない思い出となっての胸を締め付けた。
 会いたい――でも、ロイに迷惑をかけたくはない。出会ったばかりだけれど、を大切にしてくれた人。そして、も大切だと思う人なのだから。
(あ――)
 そのときは、改めて姉の言葉を理解した。
『いまのままでも、あなたならきっと大切なものを見つけられるわ』
 姉は見つけた。大切な人を。だからこそ病のことを言わずに、アームストロングのもとを去ったのだと思う。資金を援助してもらいながら成果を出せなかったことを申し訳なく思ったのかもしれないし、たぶんそれ以上に――会ってみて解った――彼ならきっと、姉のためになんとか治療法を探そうと全力をつくしてくれるだろう。病には気づけなくても、姉は医師だ。自分の身体にはもう手の施しようがないことを覚っていたに違いない。目の前で大切な人に無駄な努力をさせてしまうのは、死ぬよりも辛いことだと、姉は思ったのではないか。
 だとしたら、も選ばなくてはいけない。大切な人のために。
『ロイさんにはお世話になったのに直接お礼も言わずに出てきてしまって、申し訳なく思っています。お世話になりましたと、迷惑をおかけしてすみませんでしたと伝えてください』
 はノートの新たなページを開いてそう書き込むと、ヒューズに見せた。
「……そりゃ、伝えるのはいいけどなぁ。――お前さん、ロイに会う気はもうないのか? ヤツはときどき強引なこともやるが、悪いやつじゃない。なにがあったかを知らない俺が口を挟むのもどうかとは思うが、あんなに必死になってるロイを見たのは久しぶりなんだ――だから、許してやってくれないか?」
 ヒューズの言葉に、は慌ててノートを捲って書き始めた。
『ロイさんはずっとぼくに気を遣ってくださって、大事にしていただきました。とても居心地がよくてできればずっと――』
 思わず本音を書きそうになってしまい、は慌てて『できればずっと』の文字に線を引いて消した。
『ぼくがロイさんの家にいることが、彼の生活の邪魔になることに気づいたので――』
 そこまで書いて、また言葉に詰まってしまった。それはなんのことかと問われたら答えられないからだ。その文章全部に線を引き、『ロイさんにはとても感謝しています。だからこそ彼に迷惑をかけたくないので』と書いた。
 そのの所作をすべて見ていたのは、ヒューズだけではなく。ぬっと伸びてきた大きな手がの手をそっと握った。の視線が自分に向いたのを確認して、アームストロングはまだ目元に涙を残したまま言った。
殿。二年前、我輩は弟の耳を治すために研究したいという彼女のひたむきな熱意に感じ入り、資金援助を申し出た。幸い我が家には普段使用していない別邸もあったのでな。成果はどうかとたまにその屋敷を訪れ彼女と話すたびに――彼女のものの考え方やその人柄そのものに惹かれていることに気づいた。だが我輩の立場からそんな思いを告白することは――関係を強要することになるのではないかと恐れたのだ。だから一年前……彼女が突然姿を消したとき、我輩の気持ちに気づき、それが重荷になったのではないかと思った。だからこうして――」
 アームストロングはの手を握っているのとは別の手で、しっかりと握り締めていたペンダントを見つめた。
「彼女も我輩のことを大切に思ってくれていたのだと知るのは、とても嬉しく思う」
 そこで、アームストロングの瞳から再び涙が溢れた。
「ただ、それを彼女に伝える術がもうないことが、とても残念である――」
 の手を包む温もりにとその言葉に、の瞳からも熱いものがこみ上げてきた。
殿」
 アームストロングの言葉を読み取るために、必死では目元を拭った。
「なにやら貴殿もいま悩んでいる様子。早急に答えを出さずに、充分に考えて納得のいく結論を出してはどうか? よければ、我がアームストロング家に滞在するといい」
 アームストロングの申し出に驚いていたのは、その場ではだけだった。
「そうだな、それがいいだろ。俺も返事を急かして悪かったよ。、ゆっくり考えるといい。他の誰でもない――お前さんが後悔しない答えをな。ロイには、お前さんの捜し人が少佐で、その少佐の家に滞在することになったとだけ、伝えとくわ」
 再びテーブルをトントンと叩いて、の気を引いたヒューズは、それだけ言うと立ち上がって部屋を出て行った。
「そうと決まったら、早速移動するとしよう。なんなら姉君の暮らしていた別邸も案内するぞ」
 立ち上がったアームストロングに腕を引かれるまま、も立ち上がり歩き出した。
 いつのまにかアームストロング家に滞在することになってしまっていたが――それよりも、の思考を占めていたのは、ふたりに言われた言葉だった。
『納得のいく結論を――』
『後悔しない答えを――』
(ロイ、さん……)
 は、遠く離れたイーストシティへと思いを馳せた。