それが新しい風が吹き始めた日のこと
「や、鋼の」
列車から降りてきたエドワード・エルリックに、ロイはことさら笑顔を作って呼びかけた。彼がそれを嫌がると知ってのことだ。案の定、エドワードはロイを不機嫌そうに睨みつけた。 「くあ〜っ! 大佐の管轄ならほっときゃよかった!」 ふてくされるように視線を逸らせるさまは、やはり歳相応の子供らしい。そんなことを口にしたら、さらに機嫌が悪くなるのは目に見えているから、そこまでは口にしないけれど。代わりにロイが言ったのは、彼の腕についてだ。 「まだ、戻れてはいないんだね」 普段は白い手袋で隠されているそのオートメイルの右手が露になっていることで、この戦闘で彼が錬金術を使ったことが解る。 「文献とか調べているけど、なかなかね…」 言いながらエドワードは自分のオートメイルの右手を握り締めて見つめていた。 ロイが勧誘に行ってから一年後――失った右腕と左足を機械鎧に変え、エドワードはロイの前に戻ってきた。その瞳には、もうあのときの怯えも不安もない。だからこそロイは彼をセントラルへ連れていき国家錬金術師の試験を受けさせた。彼なら――ロイはひそかに期待している――自分では発動させることができなかったあの構築式を理解し、錬成することができるかもしれないと。けれどロイがそう思っていることは、エドワードにも、そして当のにも秘密だ。 無関係のエドワードにこれ以上の重荷を背負わせることはできないし、にも先の見えない希望だけを与えることはしたくない。それに、が耳が聞こえるようになりたいと思っているかどうかさえ、ロイには解らないのだから。 ただ、エドワードの右腕と左足が元に戻るのならば、の耳だって聞こえるようにすることは可能なはずだ。そのときにエドワードに断られずに頼めるよう、彼にはたくさんの貸しを作っておかねばならない。 駅の後始末をする者を数名残して、彼らは東方司令部へと引き上げた。 「今回の件でひとつ貸しができたね、大佐」 得意げに笑うエドワードに、ロイは引きつった笑みを返した。貸しはこちらが作っておかねばいけないのだから。 「……きみに借りをつくるのは気色が悪い。いいだろう、なにが望みだね?」 「この近辺で生体錬成に詳しい図書館か錬金術師を紹介してくれないかな」 それならすぐにでも教えられる。四年前、同じことをホークアイ中尉に頼んだのは他ならぬロイだからだ。そして、この東方に住んでいるとなるれば、その数も限られる。 「ええっと確か……ああ、これだ。『綴命の錬金術師』ショウ・タッカー」 生体錬成は生体錬成だが、キメラの研究というのはロイの欲しているものと明らかに違うので、あのときは会いに行かなかった。だがエドワードなら、そこからすらなにかのきっかけを掴むかもしれない。 まだ時間もあるし、紹介者でもある手前、ロイもエルリック兄弟とともにショウ・タッカー邸へ向かった。 「すごい集中力ですね、あの子。もう周りの声が聞こえていない」 紹介したあと、タッカー邸の資料室に案内されるなり、夢中で本を読み始めたエドワードを見て、タッカーが驚く。 「あの歳で国家錬金術師になるくらいですからね」 ロイは頷いた。エドワードには決して聞かせてはいない本音を口にする。 同じ錬金術師でも、その能力はそれぞれ違う。自分の持っている能力に磨きをかけるのが普通の錬金術師だが、エドワードは違う。目標がある。だからこそ彼は貪欲に知識を求めるし、またその求めた知識を正しく理解する能力もある。 「いるんですよね、天才ってやつは」 呟いたタッカーにも気づかれないよう、ロイは苦笑した。 傍から見れば、最年少で資格を取ったエドワードはそれだけで天才だろう。だが知識があるだけでは、天才とは言えない。その得た知識から、新たなひらめきとしてなにかまったく新しいものを産み出す力を持つ――それが天才だ。しかし幸か不幸か、エドワードにはその片鱗が見える。だからこそ、ロイも期待しているのだ。 (だが――) いまのに、なんら不満があるわけではない。むしろ耳が聞こえるようになったら、が変わってしまう可能性だってある。なにが正しくてなにが正しくないことなのか――一緒に生活していても、ロイにはいまだに判断がつかなかった。 「では、わたしはこれで」 タッカーに軽く会釈をすると、ロイはタッカー邸を後にした。 (早く、顔が、見たい――) ロイの意識はすでに別の場所へ飛んでいた。 ハボックにエルリック兄弟の迎えと――査定がもうすぐだということも告げるつもりだったのに、それすら忘れて帰ってきたので――伝言を頼むと、ロイは定時で司令部を後にした。自分で車を運転して通いなれた道を走らせる。向かっているのは自宅ではなく。 ロイは一軒の小さな家庭料理の店の脇に車を止めると、その店の扉を開けた。 小さな店でもあるし、客席はほぼ埋まっていて、それがほぼ同じ顔ぶれだ。 常連客のひとりが、入ってきたロイを指差した。そのテーブルに料理を置いていた店員が振り返る。その、緩く束ねられた金髪を揺らして。 「満席かな?」 ロイはその店員――に、優しく微笑んで見せた。 一緒に暮らし始めたはロイの家の家事を引き受けていたが、それは一日の時間を費やす仕事ではなく、かねてから興味のあった飲食店で、現在は働いている。ロイが初めてと出会った日に一緒に行った店だ。あのときは、ハボックも一緒だったが。 夫婦でやっていた小さい店で、手伝いが必要というわけではなかったのだが、夫人の妊娠をきっかけに手伝いに行くようになり、子供が産まれたいまも育児に手がかかるのと、二人目を妊娠したこともあって、現在でははその店にはなくてはならない存在になっていた。 耳の聞こえないに、給仕の仕事は難しい。皿を運ぶこと、注文を取ることはできても、呼ばれても気づけないからだ。だが店が小さく、常連が多いので、初めての客が来ても周りにいる客がを助けるので、でもその仕事を勤められている。 「いらっしゃいませ」も「ありがとうございます」も言えないけれど、がにっこりと微笑んでおじぎをするのを見たい常連客が増えたのは、ロイにはあまり嬉しくないことだったが。 だからこそ、ロイは仕事の帰りには必ずここへ寄るようになった。 今日のように早く来たときには、の手が空いたのを見計らって一緒に食事をとることもあるし、ロイが残業になってしまったときでも閉店間際に迎えに来る。子供が早く眠って、体調がいいときには、夫人が店に出てくることもあるから、そのときは早く帰してもらったりもする。 今日のように混んでいるときは、席が空くまで車で待つこともするのだが、それもまず、一度を抱きしめてからだ。 ロイに気づいたがいつものように駆け寄ってくるのを扉の前で待っていたのに、はただロイを見ているだけで、傍に来ない。微笑んでもいない。 「どうした? 見とれるほどいい男か?」 ロイが軽くそうおどけてみせると、が慌てるようにノートに書きこんでいる。オーダーを取るノートに。ますますおかしい。 「どうかしたのか――」 仕方なくイスとテーブルの並ぶ通路へロイのほうから近づいていくと、書き上げたがロイに駆け寄り、そのノートを見せた。 『ケガはない?』 「このとおりぴんぴんしているよ」 ロイは言うなり、狭い通路の間でを抱きしめた。 ノートとペンを持ったまま、両手を上げているを抱き寄せたから、それほど密着することはできない。その上、は腕に力を入れて離してくれというように身じろぐ。覗き込んだロイを、は困った顔で見上げていた。 「おいおい、ホントに今日はどうしたんだ?」 いつもなら黙って抱きしめられて、額にキスを受けるはずなのに。 「おいおい、色男。いじめるのはやめてやれよ。は夕方、駅で爆破騒ぎがあったって聞いてから、ずっとアンタのこと心配してたんだぜ」 店の常連客からそう声がかかって、ロイはようやくがおかしかった理由が解った。 「そうか――心配させてすまなかったね、。わたしにはなんのケガもないよ。わたしが着いたときには、事件はすでに片がついていたしね」 腕を緩めて、にゆっくりとそう告げる。の瞳に安堵の色が浮かぶのを見て取ってから、ロイは続けた。 「それより、早く抱きしめてくれないと、苦しくて倒れそうだよ」 よりも先に、周囲の常連客が口笛を鳴らしてはやし立てる。その音が聞こえてはいないだろうから、ロイの言葉だけで、は目元をうっすらと赤くしながら、ノートとペンをエプロンのポケットにしまった。 ロイの背中に腕を回してきたを、ロイは優しく抱きしめて、その金色の髪がかかる額にキスを落とした。 *あとがき* というわけで、こんな感じの生活をしてるのではないかと。あんまり甘くならなかった……? 続けるので、タイトル変えました(11/3) |