不確かな未来をただじっと抱きしめる




 東部の治安があまり良くないことはも承知していた。そのためにロイの帰宅が度々遅くなることもあったし、帰って来れない日もあった。
 一緒に暮らし始めて四年経つ。中佐だったロイはすぐに大佐に昇進した。軍事のことであるからロイの仕事の内容を詳しく聞いたことはないけれど、一緒に暮らしていて、ロイがとても忙しく働いているのを傍で見てきた。なのに一向に犯罪は減っていない気がする。それどころか、街を覆う不穏な空気のようなものが日に日に濃くなっていくような気さえ、はしていた。
 明確な理由があるわけではない。だからこそ、ロイにもなにも言ったことはなかった。
(ロイさんは、あんなに頑張っているのに――)
 もちろん昇進もしているのだし、軍内部でロイは評価されているはずだ。けれどロイの求めているものが単なる地位や名誉ではないことは、話したことはなくてもは感じていた。
(この耳が聞こえたら、ロイさんの役にたてるのかな……?)
 はそっと、自分の耳に触れた。
 感覚はある。自分の指先が触れている感触は。けれど、なんの機能もしていない。ただの飾りにすぎないのだ。
?」
 俯いていたの前で、大きな手が揺れる。
「どうかしたのかい? そろそろ店を開けたいんだが……具合でも悪いかい?」
 顔を上げたに、店主が聞いてくる。の手伝っているこの小さな飲食店は、昼と夜の食事時だけ店を開ける。そろそろ日も落ちるというころ、再び店を開けるためにテーブルを拭いていたのに、ついぼんやりしてしまっていた。
 は店主になんでもないという意味を込めて首を振ってから、頭を下げた。
「そうか? でも無理はしないでくれよ。になにかあったら、あの軍人に黒焦げにされちまうからな」
 大きな口を開けて豪快に笑う店主に、も微笑み返した。店主は、ロイが焔を操る錬金術師だと知っている。軍服のまま迎えにくるからロイが軍人だということは常連客も知っているが、錬金術師であることまでは、たぶん知らないだろう。隠すことではないが、話すことでもないのだから。
 手早く残りのテーブルを拭き終えると、は扉を開け、営業中を示す看板を外に出した。
 ひとり、またひとりとお客が扉を開ける。そのほとんどが常連客だ。そのうちのひとりが、入ってくるなりに向かって言った。
「聞いたか? 午後に着いた汽車がテロにあって、駅で爆発騒ぎがあったって」
 は首を振った。昼からこのお店に入って給仕をし、一度閉めたあとは片付けと、夕食用の仕込みを手伝っていたから、店からは出ていないのだ。
「軍人がずいぶん駅に集まってたみたいだし、あの男も行ってんじゃないか? 今日はを迎えにくるのが遅くなるかもな」
「そりゃあいい!」
 先に来ていた常連客が笑いながらそう同意していたけれど、はそちらを見ていなかったから気づかなかった。
(テロだなんて――。ロイさんもきっと、現場へ行ってる……)
「おい、。大丈夫だよ。テロリストは全員とっ捕まったらしいし。怪我したのもテロリストくらいで、あとは軍人が何人か――あ」
 が目を見開いたのに気づき、常連客が言葉を切る。
「えっと、あの、その……なぁ――」
「喋りに来たんじゃないだろう、さっさと座れ」
 いつのまにか厨房から出てきた店主が、その客の背中を叩いた。
「ああ、うん、そうだな」
 客は逃げるように近くのテーブルに座る。店主はに向き直るとそっとその肩に手を置いた。
。あの人は大丈夫だよ。そこいらのテロリストなんかより断然強いんだからな。それに――帰りを頼むという電話も、今日は入っていないし」
 ロイは必ず、この店にを迎えに来る。忙しいときはハボックが運転手代わりに来ることもあるが――ロイが忙しいときは大抵ハボックも忙しいので、店主が変わりにを送っていく。の知らないところで、ロイと店主の取り決めがあったらしい。
 は『解りました』と答える代わりに、店主を見上げて軽く頷いた。
 とて、ロイが強いのは知っている。死者が出たというわけでもないのだし、必要以上に心配するのもいいことではない。は笑顔を作ってもう一度頷いて見せた。
「まったく……こんなにに想われて、あの御仁は幸せ者だな」
 店主の言葉を聞いた常連客が冷やかすようにはやし立てたのを、周囲を見回して、は気づいた。ロイはを大事にしていることを隠そうとはしなかったから、常連客はみなロイはの恋人だと知っている。
 同性の友人にするには度が過ぎている人前での抱擁や額のキスに、当初も躊躇ったのだが、『わたしがを愛していることを全身で示してはいけないのかね?』と笑うロイを前にしては、抗う気持ちなど消えてしまう。
(ぼくにいまできるのは、ここでロイさんを待つことなんだ――)
 はその場で深く頭を下げてから、気持ちを入れ替えて給仕するために動き始めた。


 客がテーブルを軽く叩いてから、その指先を扉へ向けた。新しい客が入ってきたと教えてくれているのだ――が扉へと視線を向けた、その先には。
「満席かな?」
 いつもならすぐに駆け寄っていたのに、は足が竦んでしまったように動けなかった。目の前にいるロイに、なにかいつもと違うところが見受けられるわけではない。そうではなくて――事件があったと聞いて、きょうロイが来るのは遅くなるだろうと思っていたのだ。それなのに、いまの時刻は、定時で仕事を終えてくる日とほぼ同じくらいだ。
(どうして――)
「どうした? 見とれるほどいい男か?」
 ロイの軽口に、は思い立ってノートに書き込んだ。
(見えないようにしているだけで、どこかにケガをして現場を離れてきたのかも――)
『ケガはない?』
「このとおりぴんぴんしているよ」
 の見せたノートにロイはあっさりとそう答えて、を引き寄せるように抱きしめた。両腕を上げたままだったはロイを抱き返すこともできない。けれどそれ以前に、にはまだロイがここにいることが理解できない。これ以上質問することも、腕を離してもらわないとできないのだ。
 は困って、ロイの腕の中で少しだけ身体を動かす。
「おいおい、ホントに今日はどうしたんだ?」
 その質問に答えるためにも、一度腕のなかから抜け出さなければいけない。すると――を見ていたロイの視線が、の後方へと動いた。その瞳が、再びの上へと戻る。
「そうか――心配させてすまなかったね、。わたしにはなんのケガもないよ。わたしが着いたときには、事件はすでに片がついていたしね」
 どうやら誰かがが事件を聞いたことを教えたらしい。事件が早々に片付いたから、ロイもいつもの時間に姿を現したのだ。理由が解って、はほっとした。ロイを見上げて、微笑む。
「それより、早く抱きしめてくれないと、苦しくて倒れそうだよ」
 楽しそうにロイにそう言われて、は腰に回されていたロイの腕が離れていたことに気づいた。両手を軽く広げて、ロイはがくることを待っている。
 はノートとペンをエプロンのポケットにしまって、ロイの背中に手を伸ばして触れた。
(お帰りなさい、無事でよかった――)
 は瞳を閉じて、額に優しい感触を受けた。




*あとがき* 主人公視点で続きを書くつもりが……予想より長くなってしまったので同じところで終わらせてしまいました。続きはもちょっと甘くしたいですが、次はニーナだからねぇ……