その日、雨は不安と苦悩とを降らせた




 その日の空は朝から厚い雲に覆われており、朝日が差し込むことはなかった。時折、遠くの雲から唸るような低音まで響いてくる。
「雷、か……降るな、きょうは」
 の作ってくれた朝食を食べたあと、自室に戻って軍服に着替えたロイは窓から外を見上げて呟いた。階下へ降りると、居間の続きのキッチンで洗い物をしているの細い背中が見える。近づいてゆき、ロイは驚かせないようにそっとその肩に触れた。
。きょうは必ず迎えに行くから、待ってるんだぞ」
 迎えに行かない日などほとんどないのに、なぜか念を押してそう言っていた。
 手を止めてロイを見上げ、がそのくちびるを読む。ロイの突然の言葉に多少は驚いているようだったが、尋ね返すこともなく、微笑みながらは頷いた。そして洗い物を中断し、掛けてあったタオルでしっかりと両手を拭くと、身体ごとロイへ向き直る。白く細い指をロイの胸のあたりに伸ばし、は静かに背伸びをした。すかさずロイはその細い腰へと腕を回して支える。
 から与えてくれる触れるだけのキスを、目を閉じてロイは受けた。からの『いってらっしゃい』のキスだ。
 踵を床に戻したから名残惜しげにその手を離して、ロイは玄関へ向かう。掛けてあった黒いコートに袖を通すと、振り返る。そこには後を追ってきたがいるのだ。ロイはのあごに指をかけてそっと上向かせ、チュッと軽い音を立てるキスを送った。
「行ってくるよ」
 言葉でもそう口にして、ロイは扉が閉まる最後の瞬間までの見送りを受けて家を出た。
 軍から借りている車を停めてある、裏手の駐車場へ向かう。いつもと同じ朝――すこしだけ違っていたのは、雷鳴が先ほどより近くなっていることだけ。
「降り出す前に着けるといいがな……」
 ロイはひとり呟きながら車へ乗り込んだ。


 昼になる前に、ソレは起こった。
「マスタング大佐――!」
 冷静沈着なホークアイ中尉がノックもせずに扉を開けたことですでになにか起こったのだということは察していたが、ロイはことさらゆっくりと返した。
「なんだね、中尉?」
「たったいま、エルリック兄弟から通報がありました。タッカー邸で――」
 それに続く言葉を聞いて、さすがにロイも落ち着いてはいられなかった。
「なんだと――! すぐにタッカー邸へ向かう。車を回せ! それと憲兵を向かわせろ。事実なら――タッカーは本部の指示があるまで更迭する」
 ロイが激高したことで、逆にリザのほうが冷静に戻ったようだった。
「事実ですよ――エルリック兄弟の報告ですから」
「クソッ!」
 やり場のない怒りにロイは思い切り机を叩いていた。痛みは感じなかったが、その衝撃でこんなことをしている場合ではないと我に返る。コートを掴んで司令部の建物から外へ出ると、すでに空からは大粒の雨が滴っていた。
 タッカー邸に到着後、ロイはその車にエルリック兄弟を押し込んでその場から離れさせた。
 タッカーは部屋の隅にしゃがみ込んでいた。そしてその傍らには――ロイも数日前に見た幼い少女とは似ても似つかない――合成獣が寄り添っている。見ただけで不快感を覚えるほど異質な外見ではないのだが、その基を聞いていただけに、ロイも眉を顰めずにはいられなかった。だが、俯いたままのタッカーの顔を見て、いくばくかの冷静さを取り戻した。明らかに殴られたと解る、腫れて血が滲んだ顔は、誰にやられたのかと問う気もしない。
「タッカーさん――二、三、質問があるんですが」
 ロイは立ったまま、タッカーを見下ろしながら言った。尋問、ではない質問だ。タッカーの処遇はロイが決めることではなく、ロイにできる仕事はセントラルへの報告だけなのだから。
 タッカーはなんの反応も示さなかったが、ロイは続けた。
「この――合成獣は、あなたの娘さんと犬を錬成したものですね?」
「……そうだ」
「二年前の人語を解す合成獣は、あなたの奥さんを錬成したんですね?」
「……ああ」
「それが、あなたの研究の成果だった――」
 ゆらりとタッカーの身体が揺れた。
「……だから? だからなんだ? わたしが使ったのはわたしの妻と娘だ! 錬金術で人を殺したわけでもない。なのになぜ、わたしが責められる!?」
 タッカーはロイを睨みあげていた。その瞳にはありありとなぜ自分だけが責められるのかという色が浮かんでいた。六年前――タッカーはまだ国家錬金術師ではなかった。けれど世情くらいは知っているはずだ。あのとき、イシュヴァールで、国家錬金術師がなにをしたのか。
「さぁ――わたしは報告するだけです。申し開きはセントラルの審問会ででもするんですね」
 ロイは踵を返すと、室内を後にした。憲兵に、タッカーの傷の手当てと監視を指示すると、戻ってきていた車に乗り込んで司令部へと戻る。
 車中で一度だけリザがなにか言いたげな視線を送ってきたのを感じたが、ロイは無視して目を閉じていた。
 窓に叩きつける雨音だけが車内に響いていた。


 執務室に戻るなりセントラルへの報告を入れる。すぐに査察委員を派遣するとの返答があり、ロイは受話器を置いた。
「失礼します」
 今度はきちんとノックをして、リザが入室してきた。
「大佐――エルリック兄弟が、司令部の表階段に座り込んでいるそうです」
「この雨のなかをか?」
「ええ、この雨の中を、です」
 戻ってきたときは車を横付けできる裏口から入ってきたから気づかなかったが、エルリック兄弟を送り届けた車は司令部の正面でふたりを降ろし、ふたりはそのまま動けずにいるのだろう。
 歩き始めたロイの後を、リザがついてきた。
「もしも“悪魔の所業”というものがこの世にあるのなら、今回の件はまさにそれですね」
「悪魔か……」
 リザの言いたいことは解る。妻と子供――それを守るべき立場であった者がその命を研究に使う。倫理的に許されることではない。だが…………
(人を殺したわけでもない。なのになぜ、わたしが責められる!?)
 ロイは殺した。錬金術を使って何人ものイシュヴァール人を。
 命令だった。けれど命令だったからといって、自分の行動がすべて正当化されるものではないことも知っている。けれどもし同じ命令が下されれば、また同じように実行するだろう。それが国家錬金術師なのだから。
「――人の命をどうこうするという点では、タッカー氏の行為もわれわれの立場もたいした差はないという事だ」
「それは大人の理屈です。大人ぶってはいても、あの子はまだ子供ですよ」
「だが彼ら選んだ道の先には、おそらく今日以上の苦難と苦悩が待ちかまえているだろう。むりやり納得してでも進むしかないのさ」
 そう、彼らはまだ子供だ――けれど、子供であるがゆえに選べた道なのだ。彼らがそれに気づくことは、一生ないのだろうが。とうに子供でないロイにその道を選ぶことはできず、その苦難と苦悩を肩代わりしてやることもできない。
 ロイにできるのは、本当にささやかな後押しだけ。
「――そうだろう? 鋼の。いつまでそうやってへこんでいる気だね」
 降りしきる雨のなか、ロイはゆっくりと階段を降り、膝を抱え背中を丸めて座り込むエドに告げた。
「……うるさいよ」
 エドの返答は雨音に消されそうなほどか細かった。
「これしきのことで立ち止まっているヒマがあるのか?」
 ロイはエドの横に立ち止まらずにゆっくりと階段を降りながら言い続ける。
「“これしき”かよ? ……だけどな、オレたちは悪魔でも、ましてや神でもない――人間なんだよ! たった一人の女の子さえ助けてやれない!」
 エドの叫びは、ロイの背中に突き刺さった。

 ――たったひとり、の耳さえ、治すことができない――……

 そう、と最初に出会ったのは、こんなふうに激しい雨の降る日だった。
 あれから四年――四年の月日が経ってさえ、ロイはなにもできていない。
「……カゼをひく。帰って休みなさい」
 ロイはそれだけ言うと、知らずに足を止めていた階段を再び降りはじめた。
 ロイはもう子供ではないから、納得できなくても立ち止まるわけにはいかないのだ。




*あとがき* ニーナです。幸せそうな始まりから一転して暗い話になってしまいましたが、階段のシーン、目を閉じている(伏せているだけなのかもしれないですが)ロイの表情が好きです。