冷たい雫を払うのは熱に浮かされる心
「止みそうにねぇなあ」
店主が窓の外を見上げながらそう呟いたのを、隣にいたは見てとった。 その日は朝から暗い雲が空一面を覆っていて、いつ降り出してもおかしくはない天候だった。昼になるまえに水滴が落ち始め、あっという間にまとまった雨量となって、夕方となったいまの時間までずっと降り続けている。風はなく、雨はまっすぐに降りてくるのだが、降り始めてから気温がぐっと下がったようだった。このまま夜になれば、もっと冷えるだろう。 『。きょうは必ず迎えに行くから、待ってるんだぞ』 出掛け言ってきたロイの言葉が思い出される。迎えに来ない日などないのに――ロイの都合が悪いときは店主か、代わりに来たハボックが送ってくれるのだから――わざわざそれを口にしたというのは、なにかそうさせるような要因をロイが感じとっていたからなのだろうか。それはこの雨のことか、それとも――どこか拭いきれない不穏な空気が漂い続けているようなこの国のことなのか、窓の外を見つめるだけしかできないに知る術はなかった。 (ロイ、さん……) にできるのは、ただロイの帰りを待っていることだけ。ロイの無事を祈って、待っているだけ。 「まぁ、こんな日もあるわな。仕方ねぇ、そろそろ看板出してくれるか、?」 窓の外を見上げるのを諦めて、の肩を叩いてそう言った店主が厨房へ戻っていく。は頷いて店の扉を開けて、濡れないように屋根の下に営業中の看板を出した。やはり気温はぐっと下がっていて、は思わず身体を振るわせた。 (ロイさんが、この雨に濡れてないといいけど) 傘をさして歩く人もまばらな通りを眺めながら、は店の扉を閉めた。 店を開けて少ししてから、ひとり、またひとりと常連客が姿を見せて、店はそれなりに賑わっていた。けれどやはり席が全部埋まることもなく、がいつものように忙しく動き回る必要はなかった。その代わり常連客は長居をし、も遠慮なく時間がかかってしまう筆談での会話もできたから、たまにはこんな日もいいかもしれないと思い始めたときだった。 視界の端で、扉が開くのが見えた。 振り向くと――黒髪を濡らしたロイがそこにいた。 は慌てて濡れた客用に用意しておいたタオルを手にして駆け寄った。ロイがコートについた雨粒を払い、壁に掛ける。厚いコートの下の軍服は濡れていなかったけれど、ロイの黒髪からその肩へと雫が落ちていた。はロイの髪を拭おうとタオルを持った手を伸ばした。 「ありがとう、。あとは自分でするよ」 ロイはそう言いながら、の手からタオルを取った。なぜか――違和感を覚えてはロイを見つめ返してしまう。なんだろう、なにか――ケガをしているというわけでもない、笑みを浮かべてもいるし、目に見えておかしいところがあるわけでもない。それなのに、なにかが違うと、は思ってしまった。 の視線に気づいたのか――ロイは大雑把に髪を拭いていたタオルを左手に持ち替え、空けた右手での手を取った。その指先を軽く摘むように持ち上げた途端、ロイが屈む。 チュッと――には聞こえない音が、店内に響いたのだろう。ロイは、の指先にくちびるを落としていた。 突然指の先に触れた優しい、けれど濡れて冷たい感触に、は驚いて指を引き抜いた。 「きみの指を、雨水で濡らすなんて忍びない」 ロイはニヤリと笑ってそう言うと、再びタオルを広げて髪を拭き始めた。 は――ひどく戸惑っていた。 ロイだ、目の前にいるのは。間違えようもなくロイだし、指先へのキスも気障な台詞も、ロイらしい――はずだ。 近くにいた常連客がポンとの腕を叩いた。 「まったく、見せつけてくれるなぁ」 彼の言葉に、ここが店の入り口であることに気づいた。いや、忘れていたわけではないのだけれど、ロイのことに気を取られすぎていた。 もともと染まっていたであろう頬をさらに赤く染め、は厨房へと駆け戻った。 「ほら、熱いスープを持ってってやるといい。車でなけりゃ、酒でも出すんだがな」 店主が駆け込んできたの前に湯気の立つ皿を置いた。 「?」 ぼんやりとその皿を見つめているだけのの目の前で店主が手を振る。気がついて、はその皿をトレーの上に乗せた。ロイは――定位置になっているいちばん奥のテーブル席に腰掛けていた。 店主がなにかロイに声を掛けたらしく、ロイは店主に「すみませんね」と笑っていた。の位置からは店主の背中しか見えなかったので、なにを言ったのかまでは解らなかったが、のことをからかうな、とかそんな言葉だったのではないかと思う。 特におかしなことはないはずなのに――どうしてもはきょうのロイの様子がいつもと違うような気がしてならなかった。でも、いまはそんなことを考えている時ではないだろう。熱いスープをこぼさないように気をつけながら、ロイの前に置いた。 「ありがとう、」 微笑んだロイが、店主のほうを指す。が振り向くと、店主のくちびるが「一休みして、も一緒に夕飯を食べるといい」と動いた。はありがたく頷いて、エプロンを外すとロイの前の椅子を引く。 スプーンですくった熱いスープに、ときどき息をかけながらゆっくりと口に運んでいくロイを、はじっと見つめた。 (寂しそうに、見える――) 唐突にそう思ってしまったのは、なぜだろう。自身にも解らなかった。 ロイの髪が濡れているからだろうか。タオルで拭いていたからもう水滴が肩に垂れることはないのだが、店の裏手にある駐車場からここに来るまでにあんなに濡れるはずはないということに、は気づいた。そしての手を取ったロイの指も、指先に触れたそのくちびるも、がずっと暖かい店内にいたことを差し引いても、冷たすぎた。 (ずっと外に、いたんだ――仕事で? 仕事で、なにかあったのかな。きょうは事件がおきたっていう話は、聞かなかったけど……) その日発覚したタッカーの事件はまだ軍の統制下にあって、一般市民には知られていなかった。もっとも、すぐにスカーによる市街崩壊により、タッカーのことはそれに巻き込まれて世に出てくることにはなるのだが。 (仕事のことは、聞けない――) の視線の先でスープを飲んでいたロイが顔を上げて、を見た。見つめていたことに気づかれたのかと、恥ずかしくて視線が泳ぐ。の目の前で指を振って注意をひきつけたロイは、なにも言うことなく、その指を厨房のほうへ向けた。見ればカウンターの上に、ふたり分の料理が置かれている。 は立ち上がって店主に軽く頭を下げると、大盛りにされている皿をロイの前に置いた。 「ありがとう、。これは美味そうだな」 そう言ったあと、ロイは店主になにか話しかけていた。礼を言っているのか、料理についてなにか聞いているのかもしれない。はロイを見ていたけれど、そのくちびるを読むことまではしていなかった。は気づいたからだ――ロイに違和感を感じていた理由に。 (たぶんきっと……余裕がないんだ) 余裕――というか遊び心、とでもいうか。 いつものロイならきっと、雨に濡れて入ってくるなり、楽しそうに『やぁ、。水も滴るいい男だろう?』とでも言っただろう。そして『が拭いてくれないか?』と屈んで頭を差し出したりしたかもしれない。確かに指先にキスはされたけれど、あれは――その場を誤魔化されたような気がしないでもない。 考えすぎかもしれない。けれどいまだって――が見つめていたのに気づいたのに、ロイは何も言わなかった。『見つめたくなるほどいい男だから仕方ないな』なんて軽口を叩くのが常なのに。 (なにか、あったのなら――ぼくに、できることはないのかな……?) その日のロイがいつもと違ったという決定的な証拠は、寂しげに見つめているの視線に気づかなかったことだった。 夜が更けても、雨は小降りになることもなく降り続いていた。客足も途絶えてしまい、店主はいつもより早い店仕舞いを決めた。 帰りの車のなかでは会話はなかったが、これはいつものことだった。助手席からではもロイのくちびるは読み取りにくいし、ロイのほうにしてもイエスかノーの首を振るだけのの仕草でも、運転をしながら見るのは危ないのだから。 程なく、ふたりを乗せた車は家へとたどり着く。雨は一向に止む気配を見せずに降り続いていたから、はロイのコートに包まれるようにして玄関へと駆け込んだ。ロイは脱いだコートを翻すように振り、雨粒を払う。 「、先にシャワーを使うといい」 玄関の灯りを点したに、ロイが言う。 (やっぱり一緒に、とは言わないんだ……) 思ってから、は自分の考えに羞恥し、思わず顔を伏せた。 「?」 コートを掛けたロイが振り返る。ようやくの様子がおかしいことに気づいて、ロイが近づいてきた。 ロイのほうが濡れているのだから先に入ってと、そう伝えるつもりではロイの腕に触れて、そして――ロイに触れたその手を、離せなくなってしまった。 (……ロイさんはひとりで考えたいのかもしれない。話し相手にもなれないぼくが傍にいても、なにもできないのは解ってる。それでも、それでも――) 「、どうした? 寒いのか?」 覗きこむように屈んだロイの瞳を見た途端、は抱えている思いを抑えきれなくなった。 (傍に、いたい――) の両腕がロイの首へと伸ばされる。次の瞬間、はロイを抱きしめていた。 「――!」 ロイの身体が強張ったのは驚いた証拠だ――けれど、引き剥がされることはなくロイはの腰に手を伸ばして支えてくれる。そしてはその背中に、あやすように撫でてくれるロイの掌を感じた。 は亡くなった両親を、姉を、愛している。大切だったし、自分にできることならなんでもする――それが愛情だと思った。ロイに対する気持ちもそれと同じだと思っていた。けれど違う――はロイにしがみついたまま、その胸元に顔を埋めた。 (ロイさんのためなら、自分にできないことだって、なんだってやる――) もしロイが、黒いものを白だと言ったなら、も白だと言うだろう。それが社会上の倫理に反することでも。そんなことがありえないのは解っているけれど、もしロイが他人を殺せと言ったなら、それすらも実行してしまう気がする――自分のなかに、そんな狂気が潜んでいるなんて。 (好き――ロイさんが、好きだ――) 解っている。ずっと一緒にいられないことは。 姉は自分の死期を覚ってアームストロング少佐のもとを離れた。それでも、その写真をずっと手離すことができなかった思いが、いまのには痛いほどわかる。ロイとを別つものが、心変わりか死か、抗えない力なのかは、いつかその日が来るまで解らないけれど、そのときに後悔だけはしたくない。 はロイの首に回していた腕をすこしだけ緩めて、顔を起す。そして、ロイの首筋に、顎に、頬に、口の端に――くちびるで触れていった。キスと呼ぶには拙すぎる、触れることでその存在を確認するかのような行為だったが、愛しいという思いを、ロイに伝えたかった。 言葉はなかった。 けれど次の瞬間、ロイが素早くの脇と膝裏に腕をまわし、あっというまには抱き上げられていた。 そのまま――灯りの点いていない階段を上がり、ロイの部屋へと連れて行かれる間、はロイへと身体を預け、その首にギュッとしがみついていた。 窓から差し込む薄明かりに照らされたベッドに横たえられると同時にロイから与えられた深いキスに、瞳を閉じたままは応えた。 雨は朝がきても降り止んではいなかったが、雨音がの目覚めを促すことはなく、がロイのベッドの上で目を覚ましたのはいつもよりすこし遅い時間だった。夜明け前を思わせるような薄暗い室内で、は無意識のうちに腕を伸ばす。けれど手は冷たいシーツの上を滑るだけで、ロイの姿はなかった。寝坊してしまったと思う間もなく、の指先にカサリとなにかが触れる。引き抜いたそれは、ロイがいたであろう枕の下に挟まれたメモだった。 『急な仕事が入った。目覚めたキミの隣にいられないのは残念だが、昨夜の積極的な姿を思い出して我慢するよ。また夜に』 羞恥に頬を染めて、はシーツの間に身体をもぐり込ませた。昨晩の自分の行動が思い出されて、恥ずかしさが増してゆく。けれどそれは恥ずかしいだけではなく、幸福だった。 ロイがになにかを話してくれたわけではなかったし、も、抱えている思いをロイに言葉で伝える気はなかった。がどれだけロイを思っているかは、言葉にはできないのだから。 メモに記されているロイの字は走り書きで、時間がないなかで残していったのが解る。こんな早朝からロイを呼び出すほどの事件があったのだとすると、今晩の帰りは遅くなるのかもしれない。けれど眠らないで待っていよう――いや、会えるまでは眠れない。 (夜が、待ち遠しい――) ロイの無事を祈って、はロイの残したメモにキスを落とした。 *あとがき* 出てきてないけどタッカーのあたりです。ロイはいまごろタッカーの死体と対面しているころでしょう。まるっと抜けちゃってるぞコラー!な部分は、いつかロイ側から書いて裏ページに入れられたらいいなぁ。 |