止まない雨はなく、曇もやがて晴れる




 心地良い眠りに浸っていたロイは、けたたましい電話のベルで飛び起きた。
「ったく、何時だと――」
 窓の外はまだ暗い。ようやく周囲が見える程度の薄暗い部屋のなか、ロイは隣で休んでいるはずのの姿を確認する。安心しきったように眠っているを見て安堵したものの、このベルの音がには聞こえないのだと気づいて哀しくもなった。
「いや……こんなことでを起こさずにすんで、よかったと思うべきだな」
 ロイは振動がに伝わらないようにそっとベッドから降りると、鳴り続けている電話を止めるために階下へ降りた。
「なに…っ、タッカーが殺されているだと?」
 こんな早朝に呼び出される電話の用件など、ろくでもないものに決まっていると覚悟はしていたが、事実はロイの想像よりも悪いものだった。
「見張りの憲兵二名も……か。解った――すぐに行く」
 受話器を戻し、部屋へ駆け上がると急いで軍服を身に着ける。多少音を立ててもを起こさないですむのは、やはりありがたいことかもしれなかった。
(まったく、なんて朝だ――)
 ロイの腕のなかで目を覚ましたに、おはようのキスを――きっといつもより濃厚に――交わせているはずだったのに。
 理由は解らないけれど、なぜか積極的だったに、ロイも押さえがきかなくなった。もしかするとロイが少々落ち込んでいたことを察知してくれてのことだったのかもしれない。
(こんな慰め方なら大歓迎だな――)
 快楽が、ではない。ただ射精したいだけなら誰が相手だって――いや、自分ひとりでだってできる。大事なのはが欲しがったくれたということ――ロイという存在を欲して、受け入れてくれるということ。
 の役に立てていないのではないかなど、くだらないことではもう悩まない。はこんなにもロイを必要としてくれているのだから。
『急な仕事が入った。目覚めたキミの隣にいられないのは残念だが、昨夜の積極的な姿を思い出して我慢するよ。また夜に』
 急いでメモに書きなぐると、枕の下に挟む。
 シーツの上に投げ出された白い肩と腕、金色の髪とあどけない顔――思わずキスをしてしまいそうになって、ロイは慌てて身体を引いた。耳の聞こえない分、は刺激には敏感だ。起こしてしまう可能性のあることはできなかった。
「せめてこれくらいは許してくれ」
 我慢できずに、ロイはの髪を一房すくうと、その滑らかな金髪に唇を落とした。
「行ってくるよ」
 ベッドの上のを眺めながら、そっとロイは寝室の扉を閉めた。
(もしかすると、聞こえたとしても起きなかったかもしれないな。昨夜は――少々無理をさせたか)
 階段を降りながらそんなことを考え、フッと笑みを漏らしたロイだったが、一歩家を出た瞬間、そのにやけた表情は消え、“マスタング大佐”の顔へと切り替わっていた。


「おいおい、マスタング大佐さんよ。俺ぁ生きているタッカー氏を引き取りに来たんだが……」
 たどり着いた現場は血の海だった。外に立たせていた見張りの憲兵二名、そしてタッカーと合成された娘のニーナ、すべてが“まるで内側から破壊されたように”バラバラになっていた。
「死体を連れて帰って裁判にかけろってのか? たくよ――俺たちは検死するためにわざわざ中央から出向いて来たんじゃねぇっつーの」
 タッカー邸は研究のために市街地から離れた工場地帯に建っていて、夜は人通りが少なかったということ。昨夜は雷雨だったため、少々の物音になど誰も気づかなかったということ。様々な要素が関わって、犯行が行われたのは昨夜のそう遅い時間でもなかったのに、交代の憲兵が向かうまで発見が遅れてしまった。
「こっちの落ち度は解ってるよ、ヒューズ中佐。とにかく見てくれ」
 それになにより、タッカーが命を狙われているとまで思っていなかったこと。
 夜行に乗って朝一番で来ると聞いていたセントラルの軍人にその身柄を引き渡せば終わりだと簡単に考えていたこと。
「どうだ、アームストロング少佐」
「ええ、間違いありませんな。“奴”です」
 セントラルから派遣されてきたのがこのふたりだというのも、ロイの予定外だった。
 ヒューズと――そしてアームストロング少佐。
 一緒に暮らし始めて四年。その間は一度もセントラルへは行っていない。
 ロイは何度か仕事でセントラルへ行かねばならないこともあったし、エドワードに国家錬金術師の試験を受けさせるために一週間ほど留守にしたこともある。それでも留守はハボックや料理店の店主に任せて、を連れて行ったりはしなかった。
 もちろん仕事なのだからを連れて行けるはずもなく、も納得はしていたが、それ以上にロイはを会わせたくなかったのだ――アームストロング少佐に。
 少佐のことが好きなのはの姉で、はロイのことが好きなのだという気持ちを疑っているわけではない。
 ただ――面白くないだけだ。
 姉が最後まで身に着けていたというアームストロング少佐の写真が入ったロケットは、話し合った結果、いまもが持っている。姉の気持ちを受け入れてくれただけで充分で、少佐の手に渡すことは、少佐のこれからの人生を縛ることになりかねないと――それは姉の望んだ形ではないからと、が譲らなかったらしい。
 そしてそのロケットは、の部屋に置かれた机の引き出しに手紙とともにしまわれている。ロイと一緒に暮らすことをアームストロング少佐に報告し、その返事が来て――と、頻繁ではないにしろ、そのまま文通が続いているアームストロング少佐からの手紙と一緒に。
 少佐から来た手紙を渡したときの、の嬉しそうな顔が忘れられない。
 ときおりそのロケットを、大事そうに首にかけているのを目撃したこともある。
 おかげで、姉の墓に入れるつもりだと言っていたが、なぜいまもそれを大事に持っているのか――ロイは問いただせずにいた。
 決しての気持ちを疑っているのではない。にとって少佐は、失ってしまった家族に等しい存在で、ただ純粋に慕っているのだとロイは解っている。けれど解っていてなお、が大切にしているものが、自分以外にあるということが面白くない。の一番も二番も三番も、家族も親友も恋人も――すべて自分でありたい。自分がこんなに独占欲の強い人間だと、に会うまで知らなかった。
(――職務中に私情を挟む気はない)
 気持ちの切り替えはできている――そう思っていても、熱くなるのを止められなかった。
「そこまでだ」
 スカーのことを聞き、エルリック兄弟のもとへ駆けつけたとき、ロイは真っ先に飛び出していた。
雨だということも忘れ、リザの静止の言葉すら耳に入っていなかった。
 “無能”という言葉は、アームストロング少佐がスカーと互角に戦っているせいもあって、やけに重く圧し掛かってきた。
 けれどそれも、スカーがイシュヴァールの民と解って――ショックで、逆に冷静になれた。
「まだまだ、荒れそうだ」
 スカーが地下水道に逃げたことでこの場は一段落したものの、決着がついたわけではない。
 エルリック兄弟を保護し、これからのことを話し合うためにもいったん東方司令部へ戻ることになった。
「ヒューズ中佐、ひとつ聞いておきたいんだが――」
 司令部に戻る車のなかで、同乗していたヒューズにロイは尋ねた。巨漢の少佐は別の車に乗っているので、車中にいるのは他にリザとハボックだけだ。
「なんだ?」
「スカーが狙うのは、国家錬金術師だけなんだな? その家族が殺されたのは今回だけか?」
「ああ――まぁ正確に言やぁ、そのまわりにいた軍の人間も何人か、ってとこだがな。今回は娘とはいえ、錬成されちまってたってことで、特別だろう。もしまたお前さんが狙われることになっても、が単独で狙われることはないだろうから、安心しろ」
 ロイが聞きたかったことをヒューズは正確に答えてくれた。
「――だが、一緒のときは気をつけろよ。巻き込まれない保証は無い」
 いつもの茶化した口調ではなく、真剣に言われて――ロイはヒューズを見返しながらニヤリと笑って言った。
「解ってるさ。だが一緒にいるときは――わたしが守る。に傷ひとつ付けやしない」
 ヒューズ、ハボック、リザ――車中にいる全員の視線を感じたが、ロイはそれこそ誇らしげに頷いて見せた。リザあたりの視線はいささか冷ややかなものだったが。
「かぁ――っ! 言ってくれるねぇ。俺も早くこんな仕事終わらせて帰りたいよ。グレイシア、エリシアちゃん、待っててね〜!」
 ヒューズが胸ポケットから素早く取り出した写真にキスをする。
「ああ、ロイ。ほら見るか〜。こっちが一歳ので、こっちが二歳の。それでもってこっちが〜」
 次々と娘の写真を取り出していくヒューズに、ロイは呆れる。
「まったく、いつも持ち歩いているのか。仕事中だぞ」
「仕事中だから持ち歩いてるんじゃないか。お前だっての写真、そのポケットにでも入れてんだろう」
「入れるか、馬鹿」
「へー、つれないなぁ。は肌身離さず持ってるってーのに」
 そのヒューズの言葉に、ロイは固まる。
「なん、だと…?」
「え…、あ…、あははー」
「どういうことだ、教えろ!」
 明らかにしまったという顔のヒューズに、ロイは詰め寄った。
「べ、別に隠してたわけじゃねぇって。少佐からがお前さんの写真を欲しがってるって――でも何枚か送ったのはちょうどいいサイズじゃなかったらしいからって、俺んとこに打診が来て――だから協力してやっただけだって」
「……ちょうどいい、サイズ?」
「だからー、あのロケットに入れるための、だろ? 少佐の写真は姉さんの墓に返して、ロケットは形見としてが持つからって――お前、聞いてないのか?」
 聞いて、なかった――――
 でも、だとすると、が嬉しそうに受け取っていた少佐からの手紙には、ロイの写真が同封されていたということになる。そして、あのロケットをが大事そうに首にかけたりしていたのも…………
「ははははッ――」
 突然大声で笑い出したロイに、リザ以外はギョッと驚く。
「おいおい……一体なんなんだよ、マスタング大佐ぁ」
 ヒューズの疑問に答えることなく、ロイは窓の外を見ながら満足そうに言った。
「小降りになってきた。きっと――止むな」




*あとがき* スカーのあたりといいつつ、スカー戦はろくに書いてませんが、あのあたりは漫画で楽しめるので。ロケットは本編でその後どうしたか書き忘れたので(おい)、いつかやりたいなぁと思ってました。書けて嬉しいです。