澄み切った世界へ手を伸ばす 1
「すぐに嫌だと教えないと、いいことにするぞ」
空から舞い降りてくる雪に見とれていたとき、突然与えられたロイからのキスは、ほんの一瞬だったけれど、を驚かせるのに充分だった。なにが、どうなっているのか――理解できずにいるの前でロイの唇がそう動く。確かにほんの少し前に『嫌になったり、気になることがあったら、我慢せずにすぐに教えること』と約束はしたけれど……それはこういう事態をさして言われたことだったのだろうか? (嫌か、嫌じゃないかなんて、突然すぎて解らないし――それに、意味も……) にしてみればロイはスキンシップ過多な気がするのだが、ロイにとっては普通のことなのかもしれない。だとしたら特別意味もなくキスするのも、ロイにとっては不思議なことではないのかもしれないのだ。 (意味のないキスに過剰に反応するのも変だし、意味のあるキスなら――) そこまで考えて、はうろたえた。キスに意味があるのなら、その意味はひとつ――ロイのへの好意に他ならないのだ。 (そんな――っ、だって、ロイさんも、ぼくも、男だし――) ますますどうしたらいいのか解らなくなってしまったの頬に、触れた温かいもの――ロイの掌だった。その温もりの心地良さにが顔をあげると、目の前にあったロイの唇が言葉を作った。 「嫌だったら突き飛ばせ――」 の頬に手をかけたまま、ゆっくりとロイが顔を近づけてくる。その意味が解らないわけではなかった。突き飛ばせる時間も充分にあった。けれど、はそうしなかった。 嫌だとか嫌じゃないとか、意味があるとかないのかとか。 考える前に、身体は反応していた。 ロイに――魅入られていた。 (嫌じゃ、ない――) 吸い込まれるように、は瞳を閉じた。 再び重ねられる柔らかい熱――ロイの唇が、の唇に触れ、ゆっくりとなぞってゆく。息苦しくなるほど長い時間ではなかったが、息をすることを忘れていたは、離れた瞬間に吐息をもらした。 与えられた熱に変わって、すぐに冷たすぎる外気が襲う。は思わず閉じていた瞳を、そろそろと開いた。 嫌ではなかった──嫌ではない、というのは解る。でもそれ以上どうしたらいいのか解らなくて、は瞳を開けたものの、ロイを見ることができなかった。 そっと肩を押されて顔を上げると、ロイの瞳が微笑んでいて「行こうか」と言われたのが解った。頷くことで再び俯いてしまったは、回された腕に促されるまま、ロイにもたれるようにして歩いた。雪がふたりを掠めていくのに、寒くはなかった。むしろ身体の中心から湧き上がってくるような熱に、心臓の音が聞こえてしまうような気がした。 停めてあった車の、助手席の扉を開けられ、促されるままには車へ乗り込んだ。背中に回されていたロイの腕が、冷たいシートに変わってしまったのを残念に思っている自身に気づく。でもその感情をどうしたらいいのか──解らないことだらけのままで、にできたのはただロイを見つめることだけだった。 運転席側に回り込んだロイが、の鞄を後部座席に置くと、運転席へと座る。 「寒くないか?」 ロイの問いかけに、はゆるゆると首を振った。熱い、冷たいは解る。けれど寒いとは感じなかった。列車のなかにいたときよりはるかに気温は下がっているはずなのに、寒くはないのだ。イーストシティへと近づくにつれて湧き上がっていった不安は嘘のように消えていて、いまはとても穏やかな心持ちだった。 の視線の先で、ロイが車を走らせている。 真っすぐに前を見て運転しているロイの横顔を眺めながら、は考える。 ほんの二週間前の自分は、ロイの存在すら知らなかった―――― 二十年間生きてきて、決して多いとはいえないだろうが、それなりにいろんな人たちと知り合ったと思う。けれどロイは、そのなかの誰とも違っていた。強いていえば──姉に似ているかもしれない。強い意志を持った瞳と、ふと目が合ったときにへと向けてくれる優しいまなざしが。 けれどロイは男だ──姉と決定的に違うのはそこだった。 両親が亡くなってから、は姉を頼りに生活してきたけれど、頼りっぱなしだったわけではない。もできるだけ働いて姉を助けてきたし、姉もができることは任せてくれた。できることは自分でなんとかしなくてはいけないという気持ちは常に持っていたと思う。 いまだって──それは変わっていない。ロイとの同居でも、ケガをしている分、役に立てることは少なかったが、できることはやっていたつもりだ。けれど違うのだ。 ロイは、なんというか――“大人の男”だった。 確かにロイのほうがよりも五つ年上ではあるのだが、年齢を重ねればもそうなれるとは到底思えなかった。知識、考え方、行動力、その物腰にいたるまで――ロイの全てが、には大人に見えた。 心から信頼できる、傍にいるだけで安心できる――そんなふうに思える相手は初めてだった。 それが、たった二週間前に出会った人だなんて。 (でも、きっと――時間なんて関係ないんだ……) その証拠に。 (たった三日──) ロイの家を出てからたった三日しかたっていないのに――ひどく、懐かしいのだ。帰って来た、帰って来れた、ようやく帰って来ることができた――ロイの横顔を見つめるの胸は、そんな思いでいっぱいになっていった。 急に、振り返ったロイと目が合う。驚いて周囲を見ると、車は停まっていた。停車したことにすら気づかず、ロイを見つめていたらしい。ずっと見つめていたことを気恥ずかしく思い、視線を逸らそうとしたその視界の端で、ロイの唇が動いたことに気づく。再びロイへと視線を戻すと、ロイは優しく微笑んで言った。 「家に食材がまったくないことを忘れていたよ。どこかで──夕食を取って帰ろうか?」 言われるまで、は食事のことなど忘れていた。セントラルからの列車に乗ったのはちょうど昼時だったのだが、アームストロング家でちゃんと朝食を頂いたこともあり、昼食は取っていない。列車が走り出してからは──不安から食欲など沸いてはこず、ただ席に座っていただけだ。正直、まだ空腹を感じるほどでもなかったが、ただ喉は乾いている気がした。 「それとも、すぐに家に帰りたいかい? 長旅で疲れたかな?」 ハンドルに掛けていたロイの右手が離され、の耳元へと伸ばされる。撫でるように髪に触れて耳を掠めてゆくロイの指に、言いようのないくすぐったさを感じて、は目を伏せながら軽く首を振った。 「そうか……じゃあ、あの店に行くか」 ロイが少し身体を傾けて、俯いていたを覗き込むようにしてそう言った。触れていた掌での頭をポンッと軽く叩いては笑う。また子ども扱いされているような気がしたけれど――それもまた心地良く、も笑い返しながら頷いた。 再びロイが車を発進させ、今度はは意識して正面を向いていた。 あの店、としかロイは言わなかったけれど、それがどこのことなのかにも解っていた。初めて出会った日に一緒に行った店だ――あのときはハボックもいたが。先週も一度行っている。ようやく取れたロイの休みに、ふたりで買物だのなんだのと街中を散策した日の夜のことだ。あのときもらったレシピは残念ながらまだ作れてはいないのだけれど、がいまいちばん興味があるのは料理で、あの店の味はとても気に入っている。はっきりとそれを伝えたわけではないのだけれど、ロイにはお見通しなのだろう。 やがて車は見覚えのある道を通り、が思ったとおりの店の裏手の駐車場で停まった。 小さな白い雪はまだ降り続いていて、助手席の扉を開けて降りた地面はうっすらと白く覆われていた。 (積もる、のかな――) 見上げた空は一面の灰色で、星も月も、姿を現しそうにない。 「こら、風邪を引くぞ――」 そのロイの言葉はには届かなかった。が見上げる前に、ロイが自分のコートでを頭から覆ってしまったから。 コートと一緒に背中から回されたロイの腕に促されながら、店の入り口へと歩く。 頬が熱い――もちろん暑いのではなく、寒すぎるせいでもない。心臓が、が意識してしまうほどトクントクンと跳ねてしまうせいだ。 (こういう行動が自然にできるところが、大人って感じがする――) これほど安心できる場所を、は知らない。 (帰って来れて、本当によかった――) ロイの胸元に額を寄せて、は祈るようにそう思った。 |