澄み切った世界へ手を伸ばす 2
雪が舞い落ちる天候のせいか、あまり広いとはいえない店内は先日来たときよりも空いていた。
「あら、いらっしゃい。また来てくれたのね。嬉しいわ」 テーブルに残されていた食器を片付ける手を止め、夫人が出迎えてくれる。 「ちょうど奥が空いてるわよ。どうぞ――きょうは、冷えたでしょう?」 の両手を包むようにギュッと握手してきた彼女の手は、確かに暖かかった。この店に来るのはきょうを入れてもまだ三度目なのに、なぜだかひどく懐かしく思える。 温かな光、穏やかな空気――店内は特別飾り立てられているわけでも洒落た家具を使っているわけでもない。ありふれた椅子やテーブルが小奇麗に使われていることが、幸福な家庭を――がもう失ってしまったものを――思い起こさせるからかもしれなかった。 「コートはそこに掛けてね、軍人さん」 夫人がの背後に向かってそう言っていた。が振り向いた視線の先で、ロイは白い粉雪が水滴へと変わってまとわりつく厚手の黒いコートを脱ぎ、軽く振ってそれを払い落としていた。そしてドア脇の壁へと掛ける――ゆっくりと振り返ったロイと目が合って、そのとき初めては自分がロイの一挙一動を見つめていたことに気づいた。ただコートを脱いで壁に掛けただけの、なんてことのない仕草なのに、その背中に見惚れていただなんて。 (いくら久しぶりに会ったからってこんな――……。違う、久しぶりでもない。たった三日、会えなかっただけなのに――) 戸惑って目を伏せたから、はロイの手が伸びてきたことに気づかなかった。前髪に触れる指に気づき、目線だけ上へと向ける。 「濡れてしまったかな」 ロイがそんなふうに言いながら、の髪を撫でていた。 大丈夫の意味を込めて、は小さく首を振ったけれど――なぜだろう、恥ずかしくてたまらない。そうとは気づかないまま、は頬を赤く染めて俯いた。 「ほんと、綺麗な髪ね。短くなってしまったのが勿体無い気もするわ」 ふたりを見て夫人がそう評したけれど、俯いていたにはそれに気づかなかった。髪に触れていたロイの手が下りてきて、の注意を引くように目の前で振られた。が顔を上げると、ロイは夫人がの髪を綺麗だと褒めてくれたと伝えてくれた。慌てて夫人に向き直り、軽く頭を下げる。にとっては見慣れたものだし、特に手入れをしているわけでもないので褒められるほどのものではないと思うのだが、綺麗だと言われればやはり嬉しい。 「もう伸ばさないの?」 にちゃんと読み取れるようにだろう、夫人は正面から話しかけてくれた。イエス、ノーで答えられる質問だが、考えてしまう。特に理由があって伸ばしていたわけではなく、強いていえば、ひとつにまとめられるほうが給仕するときに邪魔にならなかったというくらいだろうか。 「長いの、似合っていたわよね?」 答えないの横に向かって、夫人が尋ねる。もつられてロイを見上げた。ロイはそのの瞳をしっかりと捕らえるように微笑みかけてから言った。 「……短いのも悪くはないが、長いのは印象的だった。初めて君を見たとき――その金色の髪をなびかせて走る姿は光のように見えた。わたしの前に光が舞い降りたのかと思ったよ。見惚れずにはいられなかったな」 一瞬にして、頬が熱くなった。 自分の顔が真っ赤になっているだろうことにも気づいて、俯いた。ロイが大げさに言うことがあるのはも知っていたけれど、これは褒めすぎだと思う。 夫人がクスクスと笑った声は俯いていたには聞こえなかったけれど、夫人の手がの腕に触れてきたので、顔を上げた。楽しそうに微笑んでいる夫人はそのままの腕を引いて奥の席に座るように促した。 「なににする? きょうのおすすめはキノコのシチューとミートパイよ」 席についたに夫人がそう勧めてくる。前の席に腰をおろしたロイに恐る恐る視線を合わせて、は頷いた。ロイはそんなを見て楽しそうに微笑むと、夫人に向かって告げた。 「ではそれを二人前」 ゆっくりと、はロイとともに取る食事の時間を楽しんだ。アームストロング家で出された食事もどれも美味しかったけれど、長く広いテーブルで給仕されながら食べるのはやはり緊張した。 今晩は客があまり多くなかったこともあって、夫人や店主とも会話ができた。ミートパイのレシピも書いてもらったし、ついでにと食料品を買うのにいいお店まで教えてくれた。また来ることを約束して、ふたりは店を出た。 まだ夜も早い時間ではあったし、雪もすでに降り止んでいたが、店内とはあまりにも違って冷たすぎる外気には思わず身体を震わせた。 「着ていなさい。車のなかも寒いはずだ」 背後から包むように掛けられたのはロイの黒いコートで。振り返ると間髪いれずにロイに言われる。 「わたしは鍛えているから平気だよ」 そう言われてしまえば返せる理由はなく、ではかろうじて裾を踏まずにすむ丈になってしまう大きなコートに袖を通した。視線を感じて顔を上げると、ロイがを嬉しげに見下ろしているのに気づく。 なにかおかしな着方でもしたのだろうか――視線で問いかけると、ロイがニヤリと笑った。 「初めて会ったときを思い出したよ。倒れたきみを、そのコートで包んで抱き上げたんだ。こんなふうにね――」 言うなり背中と膝裏に回されたロイの腕に、の身体はやすやすと持ち上げられてしまう。不意に横抱きにされた不安定さに、は慌ててロイの肩にしがみついた。 (び、びっくりした――倒れるかと思った……) 急に抱き上げられ驚かされたことを非難しようと顔を上げて――は本当に目の前にあるロイの顔に、別の意味でまた驚かされる。怒りなどすっかり忘れてしまった。 そんなに気づいているのかいないのか、ロイは微笑みながら告げた。 「このまま駐車場まで行こうか。おっと、雪で滑りやすくなっているから、暴れないでくれよ」 そんな言い方をされてしまえば、に抵抗する術はなく。 (でも、これってやっぱり……) にもようやくロイの思考が解ってきた気がする。 (わざと、やってる。たぶん、面白がって――) をからかっては、その反応を面白がっているのだ。 けれどそうと解っても、ロイに対する怒りも不満も湧いてはこなかった。ロイが――を大事にしてくれているというのは、そのすべての態度から伝わってくることだったから。 だからもあの日の夜のことを思い出して、ロイの首に腕を回した。恥ずかしさだけはどうしようもなかったから、ロイの肩口に顔を伏せたのだけれど。 その一瞬、背中に回されていたロイの腕が強くなったような気がした。けれど、恥ずかしさのせいでがはっきりと理解することはなかった。 駐車場まではそう長い距離ではなく、は助手席の前で降ろされた。長かったような気もしたけれど、やはり短かったような気もする。きっと赤くなっているであろう頬に冷たい外気が心地良かった。 ぼんやりとしている間にロイが開けてくれた扉から車内に乗り込む。車の中もやはり外と変わらない温度だった。だからといってしっかりと着こんでしまったロイのコートをいまさら返せるわけもなく。 運転席側に回りこんで乗り込むロイの姿をじっと見ていると、ロイはその視線に気づき、を見つめながら口を開いた。 「帰ろう」 それは当然の言葉だと思う。もともと、家に帰る前に夕食を取ろうということでこの店に来たのだから。けれど改めて言われて――は両親が亡くなってから自分が“帰る家”を持たなかったことに気づいた。両親の死後、広すぎる街外れの家を出て、姉とふたりで飲食店の二階に部屋を借りた。姉がセントラルへ行き、そして戻ってきてからはその部屋も引き払い、姉の病院の近くに部屋を借りた。確かに借りていた部屋へは帰ったけれど、それは“家”ではない。誰かと暮らし、誰かの待つ“家”では。 もちろんこれから向かう家が借家で、ロイにとっては仮住まいであることは承知している。でも、あの家はが“帰ってもいい家”なのだ。 いまさらながらに気づいた事実に目許が潤ませながら、は頷いた。薄明かりのなかだから、ロイに気づかれないといいと思いながら。 ロイはなにも言わず、車を発進させた。 は今度は、ロイではなく窓の外の景色を眺めていた。流れては現われる“帰る家”へと続く街並みを。 やがて景色は、記憶と寸分の違いもない家の前で止まる。助手席のドアを開け、の鞄を持ってくれたロイの後について歩いた。ポケットから鍵を取り出したロイが、玄関の扉を開ける。先に入ったロイが、玄関の灯りをつけて、の鞄を降ろした。続いて家のなかに入ったはトンッと胸のあたりを軽くロイの指先に押されて、顔を上げる。 「おかえり、」 ロイの唇がそう動いた。そしてその腕はへと伸ばされ、その背中をポンポンと軽く叩いた。 (あ――――) は今度こそ目許が熱くなるのを感じながら、少し屈んでくれているロイの背中に手を伸ばして、軽く叩き返した。 (ただい、ま――) ずっと言えなかった言葉。いまも口に出して言えたわけではないけれど、ロイにはきっと伝わっている。 (ただいま、ロイさん――) ギュッと閉じたことでの瞳から溢れてしまった涙は、ロイの軍服へと吸い込まれていった。 |