澄み切った世界へ手を伸ばす 3 




 窓から差し込んできた柔らかい朝の光で、は目を覚ました。
 昇り始めたばかりの朝日にはまだ熱はなく、整頓された室内は肌寒いくらいだったが、はベッドから足を下ろすと窓辺に近づいた。
 夕べ降った雪がうっすらと溶け残り、氷の粒となって光を反射してはキラキラと輝いている。思い切って窓を押し開けると、冷たいけれど澄み切って新鮮な風が、の頬を撫でていった。
 反射的に震わせてしまった身体を自分の両腕で抱きしめながら、改めては室内を見回した。
 初めて来たときと同じ、特になにもない部屋だ。あるのはさっきまで寝ていたベッドと小さな机、そして作り付けのクローゼットだけ。壁に絵などの装飾が掛かっているでもなく、ホテルより殺風景かもしれない。
 ロイにとっても来たばかりの借りの住まいで、しかも使用する予定の無かった部屋だ。物がなく、人の住んでいる気配もないこの部屋は冷たい空間に思えて当然のはずなのに、ひどく穏やかな気分だった。
 ベッドの足元のほうに置かれていたのトランクが目に入り、ベッドの上でそれを開くと、寝間着からシャツに着替える。ついクセで寝間着をたたんでトランクにしまおうとして、その必要がないのだと知る。
(これから、ここで暮らすんだ……)
 ずっとではないのは解っている。けれど、いままでのようにすぐに出て行けることを踏まえた生活ではなくなるのだ。
 は自然に笑みを浮かべながら、トランクのなかから姉の本を取り出し、小さな机の上にそっと置いた。のいちばん大切な物――それを置いただけで、部屋はいっそうに近しい存在になったようだった。次は服をしまってしまおうと、はクローゼットの扉を開けた。
(え――?)
 目に入ったのは、が想像していたなにもない空間ではなく、真新しいジャケットと淡い色のシャツだった。がここを出たとき、確かにこのクローゼットは空にしていったはずだ。
(ロイさん、の……?)
 ロイの部屋にも同じようなクローゼットがあったはずだが、入りきらなくてここに入れたのだろうか。
(でも……)
 は手を伸ばして、吊るされている淡いクリーム色のシャツを取り出した。
(やっぱりこれ、ロイさんのサイズよりも小さい――)
 そのときの視界の隅で、扉が動いた。
「お早う、。よく眠れたかい?」
 ドアノブに手を掛けたままのロイが、向けられたの視線に微笑む。ロイの目線はすぐに、の手元へと向けられた。
「ああ、それはのだよ。キミに似合う色だと思ったら、つい買ってしまった」
 苦笑を浮かべながら、ロイが部屋に入ってくる。ロイもすでにラフな私服に着替えていた。
が帰って来るかどうかも分からなかったのに、我慢ができなかったんだ。でもやはり――」
 ロイは手を伸ばしての手からシャツを取り上げると、広げてに当てる。
「――ん、よく似合うな」
 満足気に微笑むロイに、の頬が熱くなってくる。別に恥ずかしいことを言われたわけではないのだけれど、こんなふうに見つめられるのには、まだ慣れない。
「ジャケットもあっただろう? 軽くて柔らかい素材のものがあって――」
 ロイはクローゼットの扉をさらに引いて開けると、シャツと入れ替えてそれを取り出した。
「着て見せてくれないか?」
 袖を通しやすいようにと広げられては、断ることもできず、はゆっくりとロイにジャケットを着せてもらう。
(暖かい――とても軽いのに)
「どうだい着心地は? 気に入ったかな?」
 ロイの言葉に、は頷く。袖の丈もちょうどいい。はもう一度ロイを見上げて頷いた。感謝の気持ちを伝えたくて、声は出ないと知りながら『ありがとう』の言葉を形作ろうと唇を開いたのだが。
「礼ならココへどうぞ」
 悪戯っぽく瞳を輝かせたロイが、少し屈んで自分の頬を指差した。さすがにも、ロイのこの手の冗談には――少しだけだけれど――慣れた。だからロイの肩に手をかけて背伸びをすると、はロイの頬に触れるだけの軽いキスを贈った。
「どういたしまして」
 顔を離したを見下ろして、ロイが微笑む。その至近距離に、今度こその頬も紅く染まる。慌てて身体を引いて俯いたの、そのきゅっと握り締められた手を、ロイが取った。
「さぁ、朝食にしよう。といっても、買いに行かないとなにもないんだがね」
 繋いだ手を導くように引かれ、はまだ熱を頬に残したまま頷いて歩き出した。


 こうして再び、ロイとの共同生活が始まった。
 ロイはの作った朝食を食べ、司令部へと出勤する。は後片付けを済ませると、部屋の掃除や洗濯などをして過ごす。そして簡単に作った昼食をひとりで取ると、は会話のときに使うのとは別の、少し大きめのノートを持って、街へ出るのだ。
 一緒に暮らし始めた次の日、ロイはイーストシティの地図を持ち帰ってきた。軍で使用している精密なものだ。それを使ってに、この街の軍の施設や、あまり治安のよくない地域を説明してくれた。
「キミの行動を制限したいわけじゃないんだが――」
 ロイはいったん気まずそうに言葉を切って、そして続けた。
「ヒューズから聞いた。きみが少佐と再会したときのことは」
 ロイの言葉に、もそのときを思い出す。あのとき――背中に銃を突きつけられていたのに、はまったく気づけなかった。
「大総統が通りかかってくれなかったらと思うと、ゾッとするよ」
 それを告げたロイの顔に、いつもの笑みはない。それどころかひどく苦しそうで、はあのときの恐怖よりも、自分の軽率な行動でロイを苦しめていることのほうがつらくなった。
 確かにひとりでは、背後からの危険な物音に気づくこともできない。なにかに巻き込まれても、誤解だと叫ぶこともできないのだ。
「すまない。キミを責めているわけじゃないんだ。治安が悪いのは軍の――元はといえば我々の責任なのだからね。ただもう二度と、キミにケガをさせたくないんだ、
 ロイの手がの頬をすべり、耳にかかる髪を撫でた。前々から思っていたのだけれど、どうやらロイはの髪が短くなってしまったことにも責任を感じているらしい。理由があって伸ばしていたわけではなかったから、自身はまるで気にしていないのだけれど、ロイがこれ以上申し訳なく思わないように、再び髪を伸ばすことも決めた。
 ロイの指先が離れてから、はノートを取り出して記入する。
『近寄らないほうがいい場所が前もって分かるほうが助かります。街に出たときは充分に注意しますから、他にもロイさんの知っていることがあったら教えてください』
 の言葉にロイもそうだなと微笑んで、車通りの多い道などを教えてくれた。
 ロイの手によっていろいろ書き加えられた地図だが、さすがに外に持っていって広げるわけにもゆかず、はそれを別のノートに少しずつ書き写した。そして午後、夕食の買物ついでに、そのノートを持って出かけては、が実際に見た情報を書き加えてゆくのだ。それは大通りに立ち並ぶ店の種類だったり、道の角に生えている大きな樫の木のことだったりと様々だ。
 その日の午後も、はノートを持って街へ出た。雲は薄く伸びているだけで、雨の心配などまるでなさそうな気持ちの良い陽射しを浴びながら、はここ数日ですっかり歩きなれた路を進む。
(ちょっと遠いけど、きょうは、あそこに行ってみようかな……)
 こうして外に出るようになってから、はずっと行ってみたい店があった。それはロイと一緒にいったあの料理店の店主が教えてくれた、いい食材を扱っているという店だ。そこに向かう道順だけなら、すでに確認してある。大きな通り沿いに行けるから、車にさえ注意して行けばいい。ただ距離が――の足でだと、片道だけで一時間くらいかかってしまいそうだった。それだけ掛かるとなると、あまりたくさんの買物もできないだろう。
 けれど迷ったのは一瞬だった。
(でもきょうは天気もいいし、見てみるだけでもいいから、行ってみよう)
 そう決めて、は歩き出した。


(ここ、だ――)
 やはり一時間弱かかってたどり着いたその場所に、は圧倒された。
(これって……)
 目の前に広がるのは大きなアーケード。屋根のある大きな通路に足を踏み入れると、その両脇にいくつもの小さい店が軒を連ねている。
(店っていうから、一軒なのかと思ってたけど、市場だったんだ――)
 肉や野菜を扱っている店が並んでいたと思ったら、お茶や食器が小さな店に崩れそうなほど積み上げられている店がある。布が垂れ下がっている店も見えるし、奥に進むにつれていい香りがしてくるから、飲食店もあるのだろう。
(すごいな、ここ。一日中見ていても飽きなそうだ)
 野菜も新鮮そうで、札に書かれている値段もがいままでに行った店よりも安かった。通路にはたくさんの客がいて、見ていると同じ商品を大きな箱や袋に入れて大量に買っては、足早に去ってゆく。もしかするとここを紹介してくれた店主のように、料理店を経営している人たちが多く利用している市場なのかもしれない。
 もたくさん買いたかったけれど、さすがに持って帰ることを考えてそれは控えた。野菜をすこしと、お茶の葉だけ選んだ。
(せっかくだから、今度のお休みのとき、ロイさんを誘ってみようかな)
 そう思いながらそろそろ帰ろうと市場の入り口へ向かい始めたときだった。ドンッっと強い力がの背中を押した。突然の出来事にバランスを崩し、は突き飛ばされるまま、前のめりに倒れた。
 膝をついたの周囲に、オレンジがいくつも転がってくる。
 なにが起こったのか分からずにいたの脇に、重なったダンボールが置かれた。が見上げると、そのダンボールを抱えていたらしい青年が、を睨みつけた。そのくちびるがなにやら大きく動いていたが、横からで読み取れない。けれどたぶん、に対する文句だろう。
 青年は散らばったオレンジを拾い、ダンボールに戻し始めた。
 ようやくも、荷物を抱えていた彼がにぶつかったことで、落としてしまったのだと知る。きっと「どいて」と言っていたのに、が気づけなかったのだろう。
 申し訳なく思いながら、は自分の脇に落ちていたオレンジを手に取った。けれど次の瞬間、青年の手がの手にあったオレンジを奪うように引ったくり、再びを睨みつけた。
 ごめんなさいと伝えたくて、は胸のポケットに手を入れたが、そこにはいつもあるはずのものがなかった。
(え、どうして――?)
 持って出ないはずはない。にとっては財布よりも外出時の必需品なのだから。
(落とした――?)
 周囲を見回してもメモ帳らしきものは見当たらない。そうこうしているうちに、青年は三つのダンボールを重ね持ち、遅れを取り戻すかのように早足で去っていった。そのくちびるが動いているようだったから、さっきも「どいて、どいて!」とあんなふうに叫びながら走ってきたのかもしれない。
 地図を書き込んでいる大きなノートのほうは買物袋に入れてあったのだから、そちらを取り出して書き込めばよかったのだと気づいても、もう遅かった。
 さきほどまでの楽しい気持ちはすっかり消え、やりきれない思いを抱えて立ち上がろうとしたを、さらに困惑させる事態が起こった。
(痛――!)
 右足首に、鋭い痛みが走ったのだった。