第三話  沈黙と静寂の間にある思いの深さは




「まず――フルネームと年齢、住所、電話番号、連絡して欲しい家族の名前を書いてくれないか?」
 調書を取るためにハボックが持ってきていたファイルとペンを、ベッドの上にその半身を起している青年――へと渡し、ロイは尋ねた。
 は、ロイを見上げていた目を、なにかを考えるように逸らせたが、再びロイを見上げ頷くとペンを取った。サラサラとペンが紙の上を走る音が聞こえる。
「あー……だから、なんすかねー」
 ロイの背後で、不意にハボックが呟いた。
「なにがだ、少尉?」
 ロイは振り向いて問いかける。
「いえね、コイツあの騒ぎのなか、銃声に驚くことなく飛び出したじゃないすか。俺たち軍人だって聞きなれているとはいえ、どーしたってあの音には身体が反応しちまうし」
 聞きなれているからこそ、逆に防衛本能が働いてしまう。まず自分たちの安全を確保してから戦局を見極めるようにと。無駄死にするために働いているわけではないのだから。
「そうだな……」
 が飛び出してきたあの瞬間を思い出しながら、ロイは呟いた。あのとき一瞬、光のように見間違えたのは、の髪の色のせいもあるが、誰かが犯人の注意をひきつけてくれたらとロイが願っていた、まさにそのことを実行できる人間がいるとは思っていなかったからかもしれない。自分の身を犠牲にしても他人を助けようとする行為は、実際その場になってみると、そう簡単にできるものではないのだから。
 見ればの手はすでに止まっており、ロイはの手元のファイルを覗き込んだ。
 そこに書かれていたのはたったの二行。
。二十歳。家族はいません。これからセントラルへ向かうところでした』
 ロイを見上げている青年は、女性的というわけではないが、優しい顔立ちをしている。正直、十六、七くらいにしか見えなかったため、歳をごまかしているのではないかとロイは思ったが、自分自身がよく実年齢より下に見られているため、嘘をついていると決め付けることはできなかった。家族がいないというのが、さらに不審を煽っているとはいえ。
「――セントラルへは、なんの用で?」
 結局、ロイが口にしたのはそれだけだった。
 答えようと再びペン取ったの、その手からペンが落ちる。ペンを放した手はその胸元を叩くように探っている。の必死な姿に、ロイは遅れてその理由を察した。
「これ――か?」
 ベッドサイドに置いてあった小袋を取って差し出す。
 ロイの手からそれを取ったは、中身を確認するように袋を撫でると、大事そうにぎゅっと握り締めた。
「すまない、紐を――」
 傷を捜すときに紐を切ってしまったことを詫びようとして――袋を握り締めているの目が閉じられているのに気づく。これでは、なにを言ってもには伝わらないのだ。
 ロイは屈むと、そっとの肩に手を伸ばした。肩に置かれたロイの手に、が目を開け、見上げる。その瞳にしっかりと解るように、ロイは謝罪した。
「すまない、紐を切ってしまったんだ」
 ロイの言葉に、は確認するように手の中の紐をたどった。そして切れている部分を確認すると、ロイを見上げて首を左右に振って見せた。
 は切れている端と端を器用に結び合わせて、繋いで見せた。そして再び首にかけようと両手を上げ――顔を顰めた。わき腹の傷が痛んだのだろう。俯いてしまった彼の手から、ロイは小袋を取り、の首にかけてやる。かけられたその袋を握り締めながら、がゆっくりと顔を上げた。
 さらりと揺れた頬にかかる髪の先が、焼け焦げてしまっている。もともと肩にかかるくらいの長さのあったその金色の髪だが、左側だけが焼けてしまったこの状態では、全体的に短く切らなければならないだろう。
 ロイは右手を伸ばして、の金色の糸のような髪を指先ですくった。
「すまなかったな――」
 短くなってしまったその髪は、指先からすぐにするりと落ちてしまう。
 は首を軽く左右に振ると、ペンを取り『女の子が無事でよかった』と素早く記入し、ロイに見せた。
「ああ、君のおかげだ。ありがとう」
 ロイがそう言うと、は満足気に微笑んだ。
 ハボックは彼のことを単に『綺麗な顔』と評したが、こう間近で見てみると顔立ちが整っているという単純な印象ではない。彼のことを見ていた女性たち――と複数いて、それでも彼に声を掛けられずに眺めていたというのがよく解る。声を掛けにくいというのではない。ただ、見ているだけでなぜか安堵してしまうような、そんな穏やかな空気をまとっているのだ。
「えー、あー、中佐。雰囲気作ってるとこ申し訳ないんですが」
 コホンと背後で咳払いが聞こえ、ロイは仕方なく身体を起して振り返った。
「なんだハボック少尉。いたのか?」
 不機嫌そうに告げたその言葉は、もちろん冗談だったのだが。
「いたのか、はないでしょーが……」
 ハボックが情けない顔で呟く。それでも気を取り直したらしく、ハボックは続けた。
「とりあえず、ですね。コイツ、軍病院に転院させますかね? それともこのままここへ?」
「そうだな。まず、医者に容態を聞いてみないと――」
 ロイの背後で、カシャンと物が落ちる音がする。振り返るとに渡してあったペンが落ちていて、が布団を捲ってベッドから降りようとしている。ロイは咄嗟にの両肩を掴んでそれを押し留めた。
「どうした! なにかあったのか!」
 ロイが理由を聞き出そうとしても、首を振って全身で拒絶を表しているには届かない。
 ロイは肩を掴んでいた左手だけ外して、素早くの頬を包むように触れ、その動きを止めさせる。そして少しだけ力を入れて、に上を向かせた――ロイのほうを。
 見開いてロイを見返す瞳は、明らかに怯えていた。
「大丈夫だ。君の嫌がることはしない」
 落ち着かせるためにゆっくりとそう言い、触れている指でその頬を撫でた。
「うわ、なんかエロ……」
 背後で呟いたハボックを一瞥して黙らせると、ロイは続ける。
「なにが嫌だったんだ? 教えてくれ。もう一度言う、君の嫌なことはしない――」
 の瞳に平静さが戻ってきたのを覚って、ロイはその手を離す。床に落ちたペンと、足元のほうに投げ出されてしまったファイルを拾い、再びに渡した。
 は困惑したような表情でそれらを受け取ったが、やがてペンを取り、書き込んだ。
『病院は嫌いです。入院は嫌です』
 年齢もはっきりしない。家族もいない。住所もない。そして病院を嫌がる。不審なことだらけだというのに、どうしてそれがマイナスの印象に繋がらないのだろう。
「解った」
 ロイは安心させるようにの肩に手を置くと、ハボックを振り返った。
「ハボック少尉、彼の担当医を呼んできてくれ」
「はいはい――っと、ついでにタバコ吸ってきていいっすか?」
 なんかこの部屋暑いんすよねーと小声で付け足したハボックに、ロイは動じずにニヤリと笑って返す。
「仕方ないな。だが院内は禁煙だぞ」
「じゃあ、先に車に戻ってていいっすかね」
「ああ、そうしてくれ」
 病室を出て行こうとしたハボックが慌てて戻り、床に置いてあったトランクを持ち上げてに見せた。
「これ、アンタのか?」
 こくりとが頷いたのを見て、ハボックは「じゃあ」とベッド脇にそのトランクを置こうとしたが、それを遮るようにロイが手を伸ばした。ハボックは無言でロイにトランクを渡すと、にひらひらと手を振って見せて、病室を出て行った。
 ふたりきりになった病室で、ロイは椅子を引き寄せ、ベッド脇に座ると、へに事の次第を説明する。
「彼に医者を呼びに行かせた。君のケガの状態を聞く。なあに、こうやって起き上がれるくらいだ。絶対に安静で動かしちゃいけないなんて言われるはずはないさ」
 ロイが言うと、がほっとしたように軽く息をついた。
「そうそう。鞄なんだが、軍のほうで簡単に中を検めさせてもらっている。申し訳ないが、その際に鍵を壊してしまった。これも弁償させてもらう。すまないが確かめないと不審物扱いにされてしまうのでね。君のほうでもなにかなくなっているものがないか確認してくれないか?」
 ロイはハボックから受け取ったトランクを、開けやすいように鍵のついていたほうをへ向けて差し出した。はすぐに鞄を開けると、着替えの下から数冊の本を取り出して確認していた。すぐに戻してしまったのでよく見えなかったが、ロイには日記帳のようなものに見えた。そして鞄のふたを閉めると、大丈夫だというように、はロイを見て頷いた。
 確認したのが財布などではなく本だったことに、またしてもロイは疑問を抱いたのだが、それを聞くには早すぎるだろうと判断し、別の疑問を口にした。
「ところで、だ。差し支えないようだったら教えて欲しい。セントラルへは、なにをしに行くつもりだったんだ?」
 はベッド脇に置いていたペンとファイルを取って、簡潔に書き込んだ。
『人を捜しに』
「急ぐのか? なんだったら、軍の情報網を使ってもいい」
 そのロイの言葉に、は首を左右に振っただけで、それ以上態度で示すこともなかった。
 これ以上は聞くなということか――ロイは判断して、そして告げた。
「セントラルへの切符代やダメにしてしまった服の代金などは軍で出す。あと、多少だが謝礼金も出るだろう。ほんとうに多少だろうがな。だから君はまず、その傷を治すことだけを考えるんだ」
 再びペンを取ったが、先ほど書き込んだ『病院は嫌いです。入院は嫌です』という文字を丸で囲った。
「ああ、解っている。ここが嫌なら、代わりの宿を用意してもいいが――」
 ロイはの瞳を覗き込みながら、ゆっくり口を動かした。
……わたしの家に来ないか?」