一瞬の邂逅は甘く優しく、時は静かに




 いつもより重く、気だるく甘い余韻の残る身体を起こして、はベッドから降りた。
 熱いシャワーを浴びてキッチンへとやってきたのは、普段よりもかなり遅い時間だった。いつもならロイよりも早く起きて朝食を用意し、一緒にとる。いまはもう、ロイを見送ったあとの、掃除や洗濯をしているはずの時間だった。
 砂糖とミルクをいつもより多めにいれた紅茶を用意してテーブルにつくと時計を見上げる。
(この雨じゃあ洗濯もできないし、簡単に掃除を済ませれば、十分出勤にも間に合うよね……)
 はミルクティーを口にしながら、残りの時間でこれからの行動を考えていた。
 初めてロイに抱かれた朝は、腕を上げることすら億劫だったことを思い出す。初めての場所で受け入れた痛みもあったけれど、行為の間中ずっと、緊張で身体が強張ってしまって余計な力を使い続けたせいだった。力を抜くどころか、自分が力を入れていることすら気づいていなかったのだからどうしようもない。よくロイは呆れずに相手をしてくれたものだと思う。
 おかげで――というのも変な話なのかもしれないが――いまは少しの疲労感を残すくらいで、こうして仕事に行くこともできるようになった。
(これって……ぼくがちゃんと、ロイさんに相応しくなってきたってこと、かな?)
 ロイのために自分が変われることは嬉しい――そこまで考えて、はひとり自分の思考に赤面してしまう。慌てて飲み干した紅茶にミルクを入れていなければ、きっとやけどをしていただろう。
(明日の朝は一緒に食事しましょうね)
 いつもロイの座る向かいの席へ微笑みかけると、は立ち上がってカップを片づけた。
 簡単な掃除を終え、支度を済ませると、は街へ出た。雨はもう小降りになっていたが、傘はまだ必要そうだった。
 石畳は充分に雨水を吸い込んでいて、滑らないように気をつけながら、はいつもの道を通り、店へと向かう。
 店まではゆっくり歩いても二十分強といったところか。徒歩で通える圏内ではあるのだけれど、帰りはロイが迎えに来るか、店主に送ってもらうことになっていた。昼間はともかく、夜の一人歩きまでまったく安心というほど、この東方の治安はよくはない。ましてや、耳の聞こえないでは、背後から近づく危険な物音に気づくこともできないのだから。
 負担になっているのではないかと思うことは、もうやめた。相手が自分にしてくれるのなら、自分もそれ以上のことを相手にすればいいだけのこと。好きな相手になにかできるのは嬉しいことで、自分がそれを負担などと思っていないように、相手も自分のことを負担だと思っていないのだと、一緒に暮らす毎日の出来事のなかで、ロイが教えてくれた。
(ロイさんに、出会えてよかった――)
 あの日、あの時間に、お互い駅に居合わせなければ、なんの接点もないふたりが会うことはなかっただろう。セントラルへ向かうことを決意させてくれた姉に、姉を大切にしてくれたアームストロング少佐に、感謝している。残念ながら姉にしてあげられることはもうないから、少佐には、なにかできたらと思う。言葉だけなら、手紙で何度も送ってはいるけれど。
 ふたりだけではなく、ロイの代わりに時々運転手を務めてくれるハボックにも、助言をくれたヒューズにも、リザにも、店主にも、その奥さんにも、感謝している。姉が亡くなってひとりになってしまったけれど、大事な人はたくさんできた。
(それも全部、ロイさんのおかげ――)
 の思考は最終的にはいつもそこにたどり着く。
 誰よりも誰よりも、ロイが大事だということに。
(ロイさん……、好き――です)
 伝える言葉を持たないけれど、いつか伝えられたらいいとも思う。ロイはきっとそれを喜んでくれるだろうから。
 ふと視線を感じて、傘をあげたは足を止めてこちらを見ていた通行人と目が合った。ロイのことを思い浮かべていた自分は、きっと変な顔をしていたのだと思う。恥ずかしくて、は傘を深く握りなおして足早に歩き始めた。
 相手は、幸せそうに微笑んでいたに見惚れていたのだと、気づくこともなく。


 その日のランチに来た客から、時計塔近くの地下水道が陥没したことを知らされた。爆発があったとか、長雨で基礎が緩んだとか、はっきりとした原因を知るものはおらず、憶測だけが交わされていたのだけれど、死者は出ていないということだったので、は少しだけ安心した。もしロイが早朝呼ばれた原因がこれなのだとしたら、ロイにそう危険はないだろうと思ったからだ。
 やがてランチタイムも終わり、皿を洗っていたを手招きしたのは、片手に受話器を握って話中の店主だった。
「ああ、じゃあ今夜は俺が送っていこう」
 店主の唇がそう動いたので、話している相手がロイなのだと知る。
「……そう告げるだけでいいのか? ああ――分かったよ、休憩くらいやれるさ」
 それだけ言うと、店主は電話を切った。
、地下水道の陥没は爆発が原因らしいんだが、それを調べるのに今夜は残業になりそうだって連絡だよ。もちろん自分は傷ひとつ負ってないから、心配しなくていいとの伝言だ」
 数日前、テロリストによる列車乗っ取り事件が起こり、駅で爆破騒ぎがあったと聞いたがロイのことをずっと心配していたということがあったから、今回はわざわざロイは連絡を入れてくれたのだろう。
 ロイの無事と気遣いが嬉しくて、微笑みながらは店主に頷いた。
「それと、だな……」
 他にまだなにかあるのだろうか? は店主を見上げる。
「これからアームストロング少佐がエルリック兄弟と汽車に乗るから、よかったら駅に見送りにでも行ってくれ――だそうだ。伝えれば分かるといっていたが」
 少佐が――アームストロング少佐がこっちに来ていたなんて。
(――会いたい)
 行くか? という店主の言葉に、はコクコクと頷く。
「そうか、じゃあ行ってくるといい」
 店主は列車の発車時間とホームを教えてくれた。
「ああ、まだ少し時間がありそうだな。昼の残りでよかったら弁当にして持っていってやったらどうだ?」
 なにからなにまでお世話になって申し訳ないと思ったけれど、そのほうがきっと少佐も喜ぶだろうと、はありがたくその言葉に甘えさせてもらうことにした。


 やはりその巨体は列車の外からでも目立つ――ヒューズはお目当ての人物が座る座席を見つけ、コンコンと窓を叩いた。
「よ」
 片腕のエドワードに変わって、アームストロング少佐が手を伸ばしてその窓を上げた。
「司令部のヤツらやっぱり忙しくて来れないってよ。代わりに俺が見送りだ。もっとも――ロイのヤツには別の理由がありそうだけどな」
 その言葉の意味が判らず、エドがヒューズを見上げる。するとヒューズは、ホームのほうを振り返って「お、来た来た」と呟いた。
殿!」
 突然、エドの隣にぎちぎちに座っていたアームストロング少佐がそう叫ぶなり立ち上がって、駆け出していく。
「おい、少佐! もう発車するって――」
 エドの制止も聞かず、アームストロング少佐はホームへと降りてしまう。ヒューズは驚いた様子もなくニヤニヤと見つめているだけだった。なにが起こっているのか確認しようとエドも窓から身を乗り出して、ヒューズの視線の先を探る。
 少佐の前には、エドの髪よりももっと淡く、プラチナに近い金色の長い髪を揺らした細身の青年が立っていた。少佐の両目からは涙が溢れている。
「危ない! アイツ絞め殺されるぞ!」
 数時間前、自分が味あわされた衝撃を思い出して、エドは思わず叫んだ。
「まぁ、大丈夫だって」
 エドの心配を余所に、ヒューズは相変わらず楽しそうにしているだけだった。
 視線を戻すと、青年が抱えていた荷物を脇に降ろした。
「な――!」
 驚いたことに、抱きついたのは青年のほうだった。とても幸せそうに、少佐の巨体に手を伸ばしていた。
 少佐はというと――自分を相手にしていたときとはえらく違い――まるで壊れ物に触れるかのように、恐る恐る青年の背中に腕を回していた。
「中佐ぁ、一体なんなんだよ……」
「つまり、見送りに来れない原因ってヤツ? 独占欲強すぎだよなぁ」
「はぁ? さっきからワケわかんねぇことばっか言って――」
 問いただそうとすると、青年が手を離し、脇に置いていた荷物――ちょっと大きめのバスケットだった――を少佐に渡していた。少佐はそれを受け取ると、再び車内に戻ってきた。青年はというと――こちらに近づいてくる。
「よ、
 ヒューズが青年に声をかけ、青年がヒューズに頭を下げた。
「こいつがエドワード・エルリックだ。エド、こっちは。ロイの同居人だ」
「え、大佐の?」
 ますます訳が分からなくなってきたエドに、は頭を下げて微笑んだ。
(男、だよなっ?)
 そのの笑顔に見惚れてしまい、エドは焦る。
「そうそう、ロイから伝言預かってきた。『事後処理が面倒だからわたしの管轄内で死ぬことは許さん』以上」
 その傲慢な言葉に、エドは反射的にいつものペースを取り戻した。
「『了解。絶対でめーより先に死にません、クソ大佐』って伝えといて」
「あっはっは! 憎まれっ子世にはばかるってな! おめーもロイの野郎も長生きすんぜ!」
 ヒューズの言葉に、隣に立つも笑っていた。その様子に少しだけ違和感を覚えたのはそのときだ。
 やがて発車を告げるベルが鳴り響き、ヒューズと敬礼を交し合った。その後、アームストロング少佐がそっと手を伸ばす。少佐の大きく無骨な手では握り潰してしまいそうな細い手と、握手が交わされる。その手は、ゆっくりと走り出した列車によって離された。
 徐々に加速していく列車はどんどん駅から遠く離れてゆき、ホームの人影は見えなくなっていった。
殿からお弁当をいただいたぞ」
 再びエドの隣にぎっちりと座った少佐が、膝においたバスケットの蓋を開けた。
「うわ、美味そ!」
 パンや焙った肉、チーズや果物がぎっしり詰め込まれたバスケットは見るからに美味しそうだった。
 そういえば朝からろくに食べないまま街をうろついて、スカーと対峙して、その後司令部へ行って――とまったく余裕がなかったから、腹が減っているということすら忘れていた。
 早速、パンに肉とチーズを挟んで食べ始める。
「うめー! ちゃんと礼言えば良かった。つうか俺、ろくに挨拶もしなかったな。まぁ向こうもしなかったからオアイコだけどな」
「それは――」
 エドの言葉に、少佐が黙った。
「なんだよ?」
殿は、耳が不自由なのだ」
「え? それって――」
 エドはなんとなく感じた違和感の正体に気づいた。あのとき――は笑っていたのに、クスリとも声を上げていなかったということに。
「彼の亡くなった姉君が医者であり、錬金術師でもあった。殿の耳を治そうと熱心に研究を続けていたのだ。そのときに我輩が少し援助をしたことがあってな」
「ふうん……」
 亡くなったという言葉は、あっさりと口にされていたけれど、とても重いものを隠してのことだと、エドにも分かった。だからなぜその青年がロイと暮らしているのかまでは分からなかったけれど、それ以上聞く気にはなれなかった。
 ただひとつ、気づいたのは。
「なぁ、大佐が俺たちにいろいろ構うのって、ひょっとして――」
 ロイは自分たちに厄介ごとを押し付けたりもするけれど、便宜を図ってくれているのもちゃんと知っている。禁忌を犯した自分たちを告発することもなく、なぜ援助してくれるのだろうと疑問に思ったことは、幾度かあったけれど…………
「いや、なんでもない」
 エドは言葉を切った。ロイが話さないことならば自分たちには関係のないことで、必要のないことに構っている余裕は自分たちにはないのだから。
「ホント、美味いよ、これ。今度会ったら――だっけ? 礼言っといて」
 エドはそれだけ言って再び手にしたままだったパンにかぶり付いた。
「そうだな、また手紙を書くとしよう」
 少佐も、そう言ってその話を終わらせると、次のパンへと手を伸ばした。
「……リゼンブールというのはどんなところだ?」
「すっげー田舎。なんもないよ」
 ガタンガタンと陸橋を渡っていく列車の窓からは、大きく紅い夕陽が見えた。




*あとがき* 途中からエド視点になっちゃいますが、エドと主人公の一瞬だけの出会いの話、本編連載中からずーっと書いてみたかったのでした。特に、少佐に抱きつくあたりが(趣味丸出し) しかしロイ出てませんな……