追憶がもたらすのは後悔だけではなく
「そろそろ、列車が出た時間か……」
ロイは書類にサインする手を止めると呟いていた。 見送りにくらい来いという親友に、仕事が忙しいんだと断ったが、『そういうことにしておいてやるよ』と意味深に笑われた。ロイの心のうちはすっかりバレているらしい。 (どうしてのこととなると、こんなに狭量なんだかな……) と少佐の仲を疑う気など、これっぽっちもない。の心が自分にあることは、腕に抱き、触れ合うその温もりからも充分に伝わってくるのだから。でも、それでも。 ロイは深く息を吐くと、目を閉じた。 すぐに浮かんでくるのは、幸せそうに微笑むの姿。きっとその姿を、少佐へと見せたことだろう。いまごろは短い逢瀬のあとの別れに、哀しみを浮かべているのかもしれない。 睫を震わせ、涙をこらえているを想像し、ロイは思わず想像のを抱き寄せてしまいたくなった。自分の胸のなかへ抱き込んで、ロイのことしか見えなく、感じなくさせたい。自分の腕のなかだけにを閉じ込めておけたら、どんなにいいか。 「まったく、どうかしてるな……」 ロイは目を開くと、自嘲的な笑みを浮かべながら書類へと戻った。けれどロイの目は字を追うものの、その頭ではまだ別のことを考えていた。 なぜこんなにアームストロング少佐のことが気になるのか――その理由は、すでに自覚している。 (にとって、わたしといることが幸せとは限らない……) が自分を大切に思い、一緒にいたいと思ってくれていることは承知している。ロイとて、同じ気持ちだ。けれど―――― (を戦いの渦中に巻き込むわけには行かない。いつか――彼とは別れる日が来る) いくらヒューズに嫁さんをもらえと言われても同意できずにきたのは、そこまで思える相手が自分に現れるとは思えなかったからだ。これでも人並みに他人を愛したこともあった。だがその相手と結婚して家庭を築くとなると――とても想像がつかなかった。 ロイには目指すものがある。そのためには、自分を理解し支えてくれる相手は確かに必要だが、それはともに戦える仲間であって、家族ではないのだ。 (――……) 初めて見たときは、こんなにも大切に思える相手になるとは思ってもみなかった。最初はただ、その綺麗さに惹かれた。容姿もだが、その透き通るような瞳に見つめられることが、なんともロイを心地よくさせたから。言葉は悪いが、小さな子供や愛玩物(ペット)のような感覚だったのだと思う。 彼の傷が治るまでその生活を楽しんで、そしてまた日常へと戻るはずだったのに。がいなくなったと知った途端、理性などどこかへ吹き飛んで、感情のままに彼を捜していた。 ロイの元を飛び立った小鳥は、再びロイの元へと舞い戻ってきてくれ、それから四年――共に暮らしてきた。このままずっと、この幸福が続けばいいと思わないわけではない。 (だが、それは無理な話だ――) この国が、それを許さない。 そしてロイの運命はあの日、あの場所で、変わってしまった。 「イシュ、ヴァール……」 自分が人間兵器だと否応なしに自覚させられた。自分の錬金術が、戦場ではこの上なく有効だということを。 (大勢、殺したな……) それが軍令だった。 だが逆らう道もあった。事実、アームストロング少佐は背いて中央へと戻され、軍閥の出身でありながら昇進もままならない身となっている。 ロイとて、殺したくて殺したのではない。だがロイは知っていた。自分がこの戦場から退いても、代わりが送られてくるだけだと。目の前の命を奪うことでしか、この戦争が長く続けばもっと失われるであろう多くの命を救う術はないのだと。命の重さは数ではない――そんなことは承知の上で、ロイは実行することを選んだのだ。 (わたしの手は、多くの血に濡れている――) ペンを持つロイの手はすでに止まっていた。ロイの目に映る自分の手に、いまは錬成陣の書かれた白い手袋はない。けれど確かに、この手で人を殺してきたのだ。 「わたしが、幸せを求める資格など――」 苦々しく呟いた、そのときだった。 コンコンとノックの音がして、扉が開かれる。 「大佐――ちょっといいっすか?」 扉からひょいと顔を出したのはハボックだった。独り言を呟いていた気まずさを誤魔化すように、ロイは眉間に皺を寄せ、不機嫌そうに答えた。 「なんだ? 書類ならまだ終わってないぞ」 「偉そうに言う台詞ですかねぇ。まぁホークアイ中尉にもそうだろうと言われてきたから、いいんすけど」 「だから、なんだ? わたしは忙しいんだ。用がないなら――」 さっさと出て行けと手を振り上げたロイを遮って、ハボックが扉を押し開けた。 「休憩をどうぞ、って話だったんですがね。お忙しいなら連れて帰りますよ」 さらに大きく開かれた扉の、ハボックの横に立っていたのは。 「――ッ!」 振り払う仕草をするはずだった行き場のない手を机について、ロイは立ち上がる。はそんなロイを見て、困ったようにロイから目を逸らすとハボックを見上げた。 「大佐の仕事の邪魔をしたくないから帰ると言うのを、無理に連れてきたんすけど、迷惑でしたかねぇ」 「意地が悪いぞ、ハボック少尉……」 迷惑がっている姿をしっかりに見られてしまったらしい。 誤解だ――どうしてがここにいるのかは解らないが、を迷惑だなどと思う気持ちは欠片もない。それよりも、どうしていいか解らないというような困惑した表情のが見上げている相手が、ハボックだというのが気にいらない。 「ありがたく休憩を取らせてもらうとしようか」 ロイは机を回って扉へと近づいた。見ればはカップと小さな焼き菓子が盛られた皿の乗ったトレイを手にしている。が体勢を崩さないよう細心の注意を払って優しく腰に手を回して、執務室のなかへと招きいれた。 「その菓子はヒューズ中佐からだそうですよ。差し入れするようにってに金だけ押し付けてったそうで――」 ハボックがまだ喋っている途中だったが、構わずにロイは扉を閉めた。 (……アイツめ、気を回しすぎだ) ロイは別れたばかりのヒューズの顔を思い出しながら毒づいた。 室内へと入ったはロイの机の上に、手にしていたトレイを置いていた。そしてその胸のポケットからメモ帳とペンを取り出している。ロイが近づいていくと、やはり想像通り『お忙しいところにお邪魔してしまって――』と書き始めているところだった。 ロイはひょいとの手からそのペンを取り上げると、余白ではなく、わざとが書いた文字の上へ、その言葉を打ち消すように大きく文字を綴った。 『会いたかった』 驚いて顔を上げたに素早く顔を近づけ、軽くその唇を奪う。さらに驚いて硬直してしまったの手を取り、横長の机を回り込むとロイは自分の椅子へと腰を下ろす。そしてロイに腕を引かれるままついてきたの腰を抱き寄せ、自分の膝の上へと座らせると、背後から抱き込むように腕を回した。 『ヒューズに会った?』 メモ帳を持つの手を包むように押さえながら、再びロイはのメモ帳へと書き込んだ。その唇をの耳元に寄せ、囁くように。 ロイが書き込んだ言葉を読んで、もロイの手からペンを取り戻して、書き込み始めた。 『はい、駅で。みなさんのことを心配されていて、疲れているだろうから甘い物でも差し入れしてあげて欲しいと』 『迷惑をかけたね』 静かな室内に、お互いがペンを走らせていく音だけが続いてゆく。 『そんなことありません。ぼくこそ一般人なのに建物のなかにまで入ってしまってすみません』 『門の警備兵にでも渡して帰るつもりだった?』 ロイの言葉に、はペンは取らずに、こくりと頷いて返してきた。サラリの揺れる金髪が、ロイの頬に心地いい。 ロイは余白のなくなったメモ帳を捲ると、新たな白いページのいちばん上に、こう書き込んだ。 『ひどいな。はわたしに会いたくなかったのかい?』 その言葉を読み取ったがピクリと身体を震わせる。そのあと、慌てて首を振って、そんなことあるわけないでしょうと怒ったように、そして拗ねたようにロイを睨むのではないかと思っていたのに。 「……?」 身体を強張らせて俯いてしまったに、ロイは聞こえないと解っていても呼びかけた。これだけ身体を触れ合わせていれば、声を発した振動はへと伝わるだろうし――それになにより、呼びたかったからだ。 ロイの声に気付いたが、首を傾けるようにしてゆっくりロイへと振り返った。その瞳からは、いまにも涙が零れそうだった。 いつもの冗談のつもりだったのだが、疑われたとでも、責められたとでもは感じたのだろうか。 「すまない、意地の悪いことを聞いたね」 に見やすいように少しだけ身体を離してロイは言った。その言葉を読み取ったが激しく首を振る。違う、そうではないとでも言いたげなの仕草だったが、そのままは俯いてしまう。 その細い身体は確かにこの腕のなかにあるのに、の心が見えない。本当にロイに会いたくなく、アームストロング少佐と一緒に行きたかったのだろうかという考えが頭を掠めたが、そんなはずはないのだ。 ロイはの視界に入るようにメモ帳を引き寄せ、ペンで白い部分をトントンと叩いてみせた。 (書いて欲しい――その心のうちを、教えて欲しい) ロイの指が示すものを覚って、がそのペンを取る。躊躇うように揺れていたペン先は、やがてゆっくりとと文字を綴った。 『ごめんなさい。ぼくにできるのは本当に簡単なことばかりで、あなたの仕事の役に立てない自分が、悔しいんです』 「……」 事件が起きなければそう忙しくはない司令部も、いまはスカーによって破壊された市内の復旧と、その捜索とで慌しい。この部屋へ来るまでに大勢の人間が忙しく働いているのを見て、圧倒されたのかもしれない。にとって軍という組織は未知の世界なのだろうから。 確かにの耳では、軍人になることは難しい。けれどもしの耳が聞こえていたとしても、ロイはに軍人になって欲しくはない。それはが無力だからではなく。 『もしきみが望むなら、わたしは軍を辞めてきみと料理店を開いてもいいと言ったら、どうする?』 ロイがペンを取り書き込むと、が奪うようにそのペンを取り上げた。 『ダメです、そんなの! あなたがぼくのためにやりたいことを曲げるなんて』 そこまで書いて、のペンは止まった。どうやらロイの言いたいことを察したらしい。は身体の向きを変えると、ロイを見上げた。その驚きを浮かべている瞳に、ロイは告げる。 「わたしはきみに、わたしの仕事を手伝って欲しいとは思わないよ。申し訳ないが、わたしもいまはきみの望みを叶えることはできない」 から店を開きたいと聞いたことはない。けれどの興味の対象が料理にあることは解っている。いつか自分の店を出したいと望むのは自然なことだ。まだそこまではっきりとした思いではないかもしれないが、ロイの家に居候していると――本人はそう思っているいまの生活では、夢であれロイにそのことを打ち明けられないのではないかと思う。 の夢をかなえるための力になりたいとは思うけれど、いまはまだ、その時期ではない。 「だがいつまでも、この国は軍人を必要としないはずだ。いや、そういう国にするために、わたしはここにいる。そうなればもちろんわたしも失業するわけだが――そのときは、の店で雇ってくれるかい? 火を熾すのは得意だよ」 発火布の手袋をつけていない右手を掲げ、その指をの目の前でパチンと鳴らしてみせる。いまはまだ欠片も見えない未来の約束――けれどの顔に笑みが戻る。その笑顔を見て、ロイは思う。 (ああ――……) 自分の家族を持つということは、守らなければいけないものが増えるということで、負担や弱点が増えるものだと思っていた。 (逆だったとはな……) を守りたいと思う気持ち――の傍へ帰りたいと、の笑顔が見たいと思う気持ち――それこそがロイを強くする。生きたいという強い願いは、もう動けないという状況のなかで、一歩を踏み出す、突破口を見出す力となるのだ。 ロイはの手からメモ帳とペンを取り上げると、スラスラとそこへ書き込んだ。 『ロイ・マスタングは将来・の店で働くことをここに誓う』 きょうの日付と、丁寧にサインまで入れて、へと渡す。それを見てさらに優しい笑顔を見せたへとロイは指を伸ばし、その頬を捉えて上向かせた。 「さぁ、。契約が成立なら、誓いのキスをしてくれないか?」 の頬がうっすらと赤く染まったのを目にしてから、ロイは瞳を閉じて待った。 やがて訪れた優しい感触を、この先何度でもロイは思い出すことだろう。 *あとがき* ロイの膝の上でいちゃいちゃするような展開になぜならんのかと自分でも思います。これでも甘い話を目指しているはず、なのに……。でもロイの葛藤とかを捏造&妄想するの、ホント楽しいです、すみません。 |