澄み切った世界へ手を伸ばす 4
「あら、あなた……」
足の痛みに再びその場に膝をついてしまったに、そう声を掛けてきた女性がいた。 もちろんはその声に気づくことはできなかったのだけれど、肩に手をかけられた感触に顔をあげると、心配そうに覗き込んでいたのは、あの料理店の夫人だった。 「やっぱりあなただったのね。どうかしたの? 気分でも悪くなった?」 は軽く首を振って、地図を書き込んでいたほうのノートを取り出して『足を痛めてしまったみたいです』と素早く記入した。 「そう――手当てをしたいけれど、ここは人が多いわ。わたしに掴まって立ち上がれる? 無理なら主人を呼んでくるわ」 動けないほどひどくはないだろう――は夫人の手を借りることにし、手を伸ばした。夫人はが立ち上がるのを支えてくれる。 「大丈夫そう? 車まで歩けるかしら? お店に行って手当てしましょう」 夫人に肩を借りて、車が停めてあるという場所まで歩いた。車には食材を積み込んでいる店主がいて、「狭くて悪いな」と言いながらを乗せてくれた。 ほどなくしてたどり着いた店の客席で、は夫人に手当てをしてもらった。履いていたブーツを脱ぐのに苦労するほど腫れあがってしまった足首では、歩いて帰ることなど無理そうだった。 「送っていってあげたいんだけど、わたしは運転できないし、主人は準備があるしねえ……」 夫婦は急に近所のお得意さんに宴会料理を頼まれ、それを作るためにちょうどあの市場に足りない食材の買足しに来ていたのだということを、車のなかで聞いていた。 「――あの軍人さんに連絡しましょうか?」 夫人がそう言い出したのは、もっともだろう。こんな場合、が連絡できるのは、この街にはロイしかいない。けれどは頷くことができずに目を伏せた。 連絡をしても、ロイはきっと怒らないだろう。彼自身の仕事が忙しくても、誰か他の人間を手配して迎えにきてくれるはずだ。けれど、こんなことくらいで仕事中のロイの手を煩わしていいのだろうかという思いが拭えない。このままここにいても、この夫婦に迷惑をかけるだけだと解っていても。 答えられずにいたの肩を夫人が軽く叩いた。が顔を上げると、彼女はにっこりと微笑んで、ひと段落ついたら送っていかせるから、ここで待っていてくれるかしら?と言ったのだった。 きっとの迷いを理解してくれてのことだろう。は頷き、じゃあと厨房に戻りかけた夫人の腕を、は慌てて掴んで止めた。 怪訝そうに振り返った夫人に、はメモを開いて書き込む。 『ぼくにできることがあれば、なんでもお手伝いします』 「そうね……みんなでやれば、早く終わるかもしれないわね」 の申し出を聞いて、夫人は厨房にいる店主になにやら声を掛けていた。そして戻ってきた夫人は、洗ったばかりのジャガイモがたくさん入った籠を持っていた。 「お言葉に甘えてこき使わせてもらうわよ。皮むき、お願いね」 は喜んで、夫人が差し出した包丁を受け取った。 以前に厨房で働いた経験もあったし、もともと料理は好きなだ。皮むきのキレイさと速さに店主も驚いていたが、すぐに他の野菜もと頼まれる。その後、その野菜を細かく刻み、肉と混ぜ合わせ、できた具材を渡されたパイ生地で包んだりと、座りながらできることだけだったが、は言われるままに手伝いをこなしていった。それは随分と役に立ったらしく、思ったよりも早く料理の準備はでき、は店主の車で送ってもらえることになった。しかも、手伝った料理の一部を包んでもらうというお土産つきで。 おかげで、が家に戻ってきたのはいつもよりかなり遅い時間だったのだけれど、ロイの帰宅に間に合うように夕食を支度することができた。 ロイが帰ってきたのに気づいても、“おかえり”をするために駆け寄ることができず、ロイもそのの引き摺っている足にすぐに気づいた。 「どうしたんだ?」 ロイのほうが駆け寄って、に尋ねる。ポケットから紙とペンを取りだそうとしたを制し、ロイは先にソファへとを座らせた。 ノートから切り取ってポケットへ入れていた紙片を広げ、ごめんなさいとはまず謝罪の言葉を記入した。市場で転んで足をくじいたこと、料理店の夫婦に偶然出会って手当てしてもらい、送ってもらったことを筆談する。 事情を把握したロイは、見せてもらってもいいかとに尋ねたので、は頷いた。ロイはの足元に跪くと、包帯の巻かれている右足にそっと触れた。 「痛みは?」 ロイの問いに、は首を振る。確かに動かそうとすれば痛むが、普通にしている分には痛みはすでにない。ただ少し熱っぽく、血液が脈打っているような感覚があるだけだ。 壊れ物を扱うかのように、とても慎重にロイは包帯を解いていった。すべて取り去ると、足首を覆うように貼られた湿布薬が現れる。 「すこし触るよ、いいね?」 が頷くと、ロイの指先が湿布薬の上から触れる。の視界にそれは見えているのだけれど、触れられている感触はほとんどなかった。確認するように触れていくロイの指が、湿布薬の隙間からの肌に直に触れる。いつもなら温かく感じられる指先が冷たいのに、は驚いた。けれどすぐに、自分の足のほうが熱を持っているのだと気づく。 「骨に異常はなさそうだ。専門ではないが、三日もすれば腫れも引くだろう」 ロイの言葉に、も微笑んで頷いた。そして解いたときと同じように、足首を無理に動かさないように慎重に包帯を巻いて固定してくれる。その手際のよさには感心すると同時に――ロイもケガをすることが多いのではと不安になった。 「できたよ、。きつくないかい?」 不意に問われて、は驚きつつコクコクと頷いた。確かに先ほどよりしっかりと巻かれていたが、安定している感じだ。 「夕食は――」 立ち上がって、ロイがキッチンを見る。パンと肉のパイ包みを店主からもらったので、が作ったのはスープだけなのだが、よそいさえすればすぐにでも食べられる。ロイもそれが解ったようだった。 「――できているようだね。だが無理はいけない。明日の夜は、お礼がてらあの店で食べよう」 ロイの提案に異議を唱える気はまったくなく、も笑顔で頷いた。 事情もすべてロイに話し終えたのだ。夕食の用意をしようとソファから立ち上がろうとしたの背に、ロイの腕が回される。 「無理はダメだと言っただろう?」 そのまま――流れるような動作で、ロイに横抱きにされていた。ソファからキッチンのダイニングテーブルへは、三メートルも離れていない距離だというのに、はロイによって運ばれてしまう。そしてテーブル脇で降ろされ、椅子を引かれた。 「よそうくらいわたしにもできる。は座っていなさい」 確かにロイは普段でも座ったままではなく、を手伝ってくれていたから、ロイにもできるだろうことはにも解る。けれどただが座っていて、ロイがすべてやってくれるというのはいままでになかったことで――やはり落ち着かないというのが正直な感情だった。 「のようにうまくは入れられないが、我慢してくれ」 食事を済ませ、再びソファへ連れて行かれたの元へ、ロイがお茶を入れて運んできた。うまく入れられないとロイは言ったが、市場で買ってきた新しいお茶は美味しかった。ロイも、わたしが入れたにしては美味いなと言って飲んでいる。 嬉しかった――こうして気遣ってくれることは。けれど後片付けもすべてロイにさせてしまったのだ。家のことをするという条件で一緒に住んでいるのに、この状態では申し訳なく思う。 「どうした、? 痛むのか?」 手のなかのカップを見つめて動かなくなってしまったの注意を引くように、ロイが目の前で手を振ってからそう言った。慌てては首を振る。そして――カップをテーブルに置くと、紙片を取り出して、ちゃんと家事ができなくて、ごめんなさいと記入した。 それを読み取ったロイも、カップを戻すと、複雑な――困ったような、それでいて哀しいような――表情を見せた。 「――きみが悪いわけじゃない。謝らないでくれ。でないと、わたしも謝らなくてはいけない。きみを助けにいけなかった」 ロイの言葉に驚いて、は首を振った。これはの不注意で、ロイが責任を感じる必要はないのだ。 「――きみを守れなくてすまなかった。きみが必要としているときに、傍にいられなくてすまなかった」 (違う、ロイさんのせいではないのに――) ロイの腕に手をかけ、は何度も首を振る。ロイのせいではないのだ。 振り続けていたの頬へ、もう片方のロイの手が伸ばされる。驚いてが顔の動きを止めると、ロイはそのまま上向かせるようにして、の頬をゆっくりと撫でた。 「――わたしはきみに家事をしてもらうためだけに、一緒に住もうと提案したのではないよ。それは、解ってるかい?」 忘れてはいない。 『その答えはとても簡単で単純なのだが――わたしが教えるよりきみが自分で見つけないと意味がないな』 の問いに、ロイがそう答えたことは。 でも、その、それは――どうしたら見つけられるものなのだろう。 答えられずにいたに笑みを見せて、ロイはその指で優しくの髪へと触れていく。 どうしたらいいのか――目を伏せてしまいそうになったの視界で、不意にロイが誰かに呼ばれでもしたように振り向いた。 「誰か来たようだ。待っていてくれ」 ロイはそう言うと立ち上がり、を居間に残して玄関へ向かってしまった。チャイムが鳴ったかノックがあったかしたのだろう。どうしたらいいのか困っていたというのに、目の前からロイがいなくなってしまったことに、ひどい喪失感を覚えた。 ロイがのことを大切に扱ってくれているのは知っている。にとっても、ロイは会ったばかりだというのにすでに大事な人になっていた。好きだ――とも思う。でもそれは……ロイがに、親切にしてくれているからではないのだろうか? の目から見て、ロイは完璧だ。男らしくて、頼もしくて、仕事もできて――それでいてユーモアもある。“大人の男性”として尊敬するのと同時に、時に見せる笑顔は子供のようで、その純粋さにも憧れる。 そんなどこにも欠点と呼べるものが見当たらない人が、自分に優しくしてくれるのだ。好きになるのは当然のことで、嫌いになどなれるはずもない。でも、だからそれが不思議なのだ――どうしてロイがこんなにも自分に親切にしてくれるのか。 不意に視界に入った影に気づき顔を上げると、ロイが戻ってきていた。けれどソファに座るでなく、ロイは言った。 「、わたしの首に腕を回してくれないか?」 なにがあったのか解らないが、言われたとおり屈んだロイに手を伸ばすと、横抱きに抱き上げられた。どこに行くのだろうとロイを見るが、ロイは微笑んだだけでなにも答えなかった。 そのまま――ロイに連れていかれたのは玄関だった。開けられた、その扉に立っていたのは。 は驚いて、ロイを見上げた。 「、きみを突き飛ばしたのは、この青年かい?」 ロイの言葉に、再び玄関へと視線を戻す。立っていた青年は、の姿を見て深々と頭を下げた。 確かに見覚えがある――市場でオレンジをぶちまけてしまったあの青年だろう。 このケガのことは、ただ市場で転んだとしか言わなかったのに、どうしてロイが彼のことを知っているのか。それよりも――どうして彼がこの家まで来たのだろう? 驚いているに、彼は折りたたまれた紙と、そして小さなメモ帳を差し出した。それは、いつものポケットに入っているはずのものとよく似ていた。 どうしたらいいのか解らずに、はロイへと目を向けた。 「受け取って、手紙を読むといい」 ロイはそう言って、をゆっくりと降ろし、立たせた。けれどロイの腕は離れることなく、の背中にしっかりと回されたままで、足に負担がかからないよう、支えてくれている。 は手を伸ばして、手紙とメモ帳を受け取った。恐る恐る開いた手紙には、一生懸命書いたのが伝わってくるような字で謝罪の言葉が綴られていた。転んだときにのポケットから落ちたメモ帳は、急いでオレンジを拾い集めた彼の荷物に紛れ込んでしまっていたのだ。なんだろうと思った彼がそれを開き、が耳が聞こえなかったことを知ったらしい。このメモ帳のいちばん最初のページには『わたしは耳が聞こえません』と書いてあったから。 後ろからぶつかった上に文句を言ったことを謝りたくて、このメモ帳に書かれていた住所に来たとその手紙には書かれていた。外出するようになって、路に迷ったときのためにと、メモ帳の最後のページにここの住所を書き加えておいたのだけれど、それがこんなふうに役立つとは思ってなかった。 読み終わったが顔を上げると、心配そうにを見つめていた彼と目が合った。 「ほんとに、ごめん! しかもケガさせてたなんて、俺、知らなくて……」 そこまで言って、彼は再び頭を下げた。 はポケットからペンを取り、返してもらったばかりのメモ帳に記入する。そして彼の肩を叩くと、そのメモを見せた。 『わたしの不注意ですから、あなたのせいじゃありませんよ。ケガも大したことないですし、気にしないでください』 「あんた、いい人だな……」 青年が驚いたようにを見つめてそう呟いたから、は恥ずかしくなる。そこまで言われるようなことはしていない――ぼうっと立っていた自分も悪いのだし、それにわざわざここまで返しに来てくれたこの青年のほうがいい人なのではないだろうか。 「なぁ、侘びにはなんないかもしれないけど、その足じゃ買い物に行くのに不自由だろう? 頼んでくれれば俺が代わりに買ってくるよ。俺の仕事、配達屋なんだ。だからそのついでって言っちゃなんだけど、簡単にできるし。あ、もちろん無料だよ! ……どうかな?」 頼み込むように見つめられ、は困惑する。確かに悪い申し出ではないとは思うのだけれど、の一存では決めかねる。 は隣に立つロイを見上げた。ロイは明確にの思いを理解してくれたようだ。 「の自由を奪う気はないけれど、ケガが治るまでは閉じ込めたいね」 ロイらしい言葉を受けて、は彼に向きなおると、頷いた。 「じゃあ、毎朝寄るよ。俺はクリフ。よろしく、」 差し出された彼の手を、はおずおずと握り返した。 |