澄み切った世界へ手を伸ばす 5
ケガをした次の日の夕食は、ロイが言い出したとおり、あの料理店へ行った。
「昨日はありがとうございました」 の腰を支える手はそのままに、ロイが夫人へと頭を下げる。 「お役に立てて嬉しいわ、さぁ座って」 の足を気遣って、夫人は近くのテーブルの椅子を引いてくれる。ロイに支えられながら、はその椅子に座った。けれどロイはその向かいには座らず、奥の厨房へ行くと店主にも頭を下げ、礼を言っているようだった。 改めて、この夫婦がいなかったらどうなっていたのかを思い、は自分の軽率さを悔やんだ。俯いたの肩が優しく叩かれる。顔を上げると、夫人が微笑んでいた。 「あなたが悪いわけじゃないんだから、そう落ち込むことはないわよ。それにしても――彼はとてもあなたのことを心配しているみたいね。だからあまり遠慮をするのは、かえってよくないと思うわ」 その言葉は、戻ってきたロイにも聞こえてしまったらしい。 「――どうかしましたか?」 ロイは腰掛ける前に、夫人に尋ねた。黙っていて欲しいとが伝えられる時間はなく。 「昨日ね、あなたのところに連絡したほうがいいかと思ったのだけど、この子が、あなたの仕事の邪魔はできないからって。でも……知りたいでしょう?」 そう言ってロイを見た夫人の目に、なにかを確認するかのような色が含まれている気がしたのは、の気のせいだろうか。けれどそれに「ええ」と答えたロイが、唇の端を上げて頷いたのを見て、やはりなにか、ふたりの間で言葉以上の意味が取り交わされているようだった。でも、それがなんなのか、には検討がつかない。 「今後も、なにかとお世話になることもあるかもしれません」 ロイはメモを取り出し、司令部の電話番号とロイの部署への内線番号ですと言いながらペンを動かし、切り取って夫人に渡した。そしてロイは――立ったまま、テーブルの上に置かれていたの手にその掌を重ねて言った。 「、なにかあったら、必ず誰かに電話してもらって、わたしに知らせて欲しい。いいね?」 座っているを見下ろしながら告げられた言葉は、ロイにしては珍しく、一方的なものだった。 「仕事のことは心配しなくていい。わたしが出られなくても、ハボックもいるから」 イエス以外の答えは受け付けないとでも言いたげな強いロイの視線に、は戸惑った。 確かにロイととでは身長差があるのだから、ロイがを見下ろすことになるのは当然で、いままでにもこんな位置で会話をしたことはあったと思う。けれどこんなふうに――言葉遣いは決して命令形ではないのだが――威圧感を感じたのは初めてだった。 (ロイさん、怒ってる……?) そんなつもりはなかったのに――は哀しくなって、ロイの言葉に頷いたものの、そのまま顔を上げることができなくなった。いままでにも、耳が聞こえない不自由を感じたことがなかったわけではない。でもそれを辛いと思ったことはなかった。にとっては、当たり前のことだったから。けれどいま、そのせいで、周囲に――ロイやこの会ったばかりの夫婦に――迷惑をかけてしまったことを思うと、哀しくて、辛かった。 ふと、頬に温かい指先が触れる。その指に促されて、は顔を上げた。 「……」 名前を呼ぶロイの瞳は、先ほどとは打って変わって優しかった。 「すまない、わたしのワガママが過ぎたようだ。きみを責めたわけでも、怒っているわけでもないよ。きみが助けを必要としているときに、手助けできなかったことが悔しくてね――悪かった」 の頬を撫でるロイの親指も、その瞳と同じく優しかった。初めて会った――あの病院のベッドの上でも、こんなふうに頬に触れられたことを思い出す。突然の接触に驚きはしたものの、その温もりはとても心地よかった――そう、いまと同じように。 「きみのことはなんでも知りたいと言ったら、呆れるかい? きみの自由を奪うつもりはないんだが……、わたしがイヤになったかな?」 反射的に、は小さく首を降っていた。そんなこと、考えるまでもないことだからだ。 否定してから、ロイの言葉を噛みしめる。大げさだけれど軽く――冗談でも言うかのように告げられた言葉だったけれど、そこにロイの本心があるのはにも解った。を助けられなかったことをロイが悔しいと思っている――それがつまり、先ほど夫人に言われたことなのだ。 (迷惑をかけたくないと思ったことで、返って心配させてしまったんだ……) はノートを入れてあるポケットへ手を伸ばす。がなにか書こうとしているのを察して、ロイの手が離れていった。温もりがなくなったことで、いっそうその温かさを実感する。それを、なくさないためにも。 『今度なにかあったら、すぐ連絡します。でも、なにもないようにも心がけます』 走り書きしたそのノートを、ロイのほうへ向けて顔を上げる。書かれた文字を読み取ったロイが「ああ、そうだな」と笑顔で答え、の肩に手を置いた。まるで『よくできたな』と励ますようなその仕草に、も照れた笑みを返した――次の瞬間。 の額に柔らかい感触が触れ、そして離れていった。の視線の先で、ニヤリと笑ったロイが、の向いの席へゆっくりと腰を降ろす。 額にキスされたのだと気づいたのは、夫人と、そして少なからずいたほかの客からの――なんともい言えない視線を感じたせいだ。もちろんロイにキスされるのはこれが初めてではなかったけれど、こんな人前でされるとは思っておらず――は頬を真っ赤にして俯いた。 程なくして、夫人の手によって目の前に湯気の立つ熱々のプレートが置かれる。恐る恐る顔を上げると、の目線に気づいたロイが「熱いうちにいただこうじゃないか」と微笑んだ。 その微笑にすらなぜか頬が熱くなるのを自覚しながら、振り払うように頷いて、はフォークへと手を伸ばしたのだった。 手当てが早かったのが幸いしたのか、のケガは順調に回復した。腫れも徐々に引いていき、痛みも薄れていった。 あれから――配達屋の青年、クリフは、本当に毎日家まで来てくれた。仕事が配達だと言うだけあって、いろいろな食材や店を知っていて、が頼んだ食料品のほかに、いまが旬の野菜だとか、おすすめのソーセージだとかを持ってきてくれるのだ。 彼が薦めてくれる食材は確かに美味しかったが、その日、クリフが持ってきてくれた東部の名産だという野菜は、が見たことも調理したことのないものだった。 が調理法を尋ねると、口で説明するよりやって見せたほうが早いんじゃないかなと答えられる。正直、ロイの家にロイの許可なく他人を入れることにためらいはあったが、クリフの誠実さはここ数日で身を持って知っていたし、彼が持ってきてくれた食材はその日の夕飯の食卓に並ぶので、自然とロイとの会話のなかで彼の名前を出していたのだ、ロイにとってもまったく知らない相手ではない。それにやはり、目の前で実際に見せてもらえるほうが覚えやすいのは事実だった。 は頷いて、クリフをキッチンへと招き入れた。 クリフの仕事は配達屋だというのに、調理するその手際はなかなかのものだった。切り方や煮るときのコツなどを教えてもらったあと、がそのことを指摘すると「実は俺、自分の飲食店開くのが夢なんだ。いまの仕事なら金貯めながら、いろんな食材捜せるしね」とクリフは照れながら教えてくれた。 「はシンの料理、食ったことある?」 クリフの問いに驚いて、は首を振った。 「まぁ、俺が食ったのも、ちゃんとしたシン料理ってわけじゃなくて、シンのスパイス使ったヤツだったんだけど、かなり美味くてさ。この国の人間にも合うと思うんだよなー。あとさ、スパイスっていったら、イシュヴァールにも、かなり独特なのがあってさ――」 楽しそうに話していたはずのクリフが、急に言葉を切って目を伏せた。 「戦争がなかったら、もっといろいろな物が食えたり、手に入ったりするんだろうな……」 九年前、イシュヴァールで勃発した戦争が終結してから、二年が経った――かの地に、もうイシュヴァール人はいない。年寄りや子供などの弱者だけが、難民として町外れなどに小さな集落をつくり、ひっそりと寄り添って暮らしているそうだ。 クリフの話によると、戦争中でも二年前までは一部の部族と交易があったらしい。シンの国の交易商も密かに入国しており、シン国のものがこの国で手に入るというのも、は知らないことだった。 この軍事国家では珍しいことかもしれないが、イーストシティに来るまで、の身近に軍人はいなかった。もちろん、暮らしていた街でも軍人の姿は見たし、近所に住んでいた青年が軍隊に入ったという話を何度も聞きはしたが、の両親も姉も、軍と直接関わりあうような仕事ではなかったからだ。 だからには、戦争というものが身近に感じられずにいた。イシュヴァールの存在は知っていても、いまだにイシュヴァール人を見たこともないのだ。 でも、いまは違う。相変わらず戦争かどういうものなのかにはイメージしがたいものではあったけれど、もしなにかあったとき、戦場へ行くのは他ならぬロイなのだから。 「なんで戦争なんかするんだろうな……」 戦争なんて、いいことひとつもねぇと思うんだけどなと、クリフは呟いた。 「他の国にも美味いモンあるしさ、もちろんこのアメストリスだって美味いもんたくさんあるし! そーゆーの、お互いに知り合えばさ、楽しく暮らしていけんじゃねーかって思うよ。単純だってのは解ってるけど、食って寝て、んでそれ一緒に楽しめる相手が傍にいたら、それだけでいいんじゃねーかな」 へへっとクリフは照れた笑いを見せた。けれどは、笑顔を返すことができなかった。 クリフの言ったようなことを、は考えたことがなかった。 戦争がどういうものか理解しないまま、この国で暮らしていけるのは、軍が戦って人々の生活を守ってくれているからだと、それでいいのだとしか思っていなかった。 ロイが軍人で、しかも国家錬金術師であることも知っている。二年前の戦争の終結は、国家錬金術師が大勢投入されたからだというのも、新聞で読んで知っていた。 直接尋ねたことはないが、若くして中佐という地位にいるロイが、その場に行っていないはずはないだろう。そして戦場に行ったということは、人を殺しているということだ。ロイが誰かを殺しているということよりも、にとって重要なことは、ロイが誰かに殺されるかもしれないということだった。 (戦争なんて、ないほうがいいんだ……) がいままで会った軍人に、悪い人はいなかった。勘違いで打たれそうにはなったけれど、あのとき助けてくれたのも、軍の最高責任者である大総統なのだ。ハボック、リザ、ヒューズに、アームストロング――そして、ロイ。自分の知らないところで、彼らが危険な目に合うかもしれないなんて。 急に腕を掴まれ、驚いたは反射的に手を引こうとした――が、の腕はクリフの手にしっかりと掴まれていて動かせなかった。 顔を上げたを見下ろしていたのは、真剣な顔をしたクリフだった。 「あの…さ、あのロイって人とは、親戚か?」 なぜ突然、クリフがそんなことを尋ねてきたのかには解らなかった。けれど説明するのは難しい。行くところのない自分が、ここで世話になっていると答えるのが正しいのかもしれないが、片手を掴まれた状態では、メモを取り出して書くのも困難だった。とりあえずは軽く首を振って否定した。 「だったら……恋人?」 続けられたその単語に、驚いては何度も首を振った。 確かに、キスはした――けれどロイは、最初からあんなふうだったのだ。ロイから言われたのは、嫌なことは言うようにということだけで……好きだとか、そんな言葉を言われたわけでもない。 不意に、一層強く腕を握られ、痛みを感じたは顔を上げた。驚くほど近くに、クリフの顔があった。その瞳は、怖いほど真っ直ぐにを見下ろしていた。 「じゃあ、俺にもチャンスある? 俺――のこと、好きだ」 なにを言われたのか、解らなかった。 クリフの唇が動くのを、はただ見ていることしかできなかった。 「男同士でこんなこと言い出すのは変だって解ってるんだけど、でも俺、と一緒にいたい。もっと、ずっと――一緒にいられたら、楽しいと思う。だから俺……のこと守りたいって思う」 クリフに告げられた言葉はすべて拾えたけれど、訳がわからない。どうしてそんなこと言われるのか。 こんなことを言われたのは初めてだった。だから――どうしたらいいのかも、には解らなかった。 「ごめんな、突然。でも、考えてくれないか?」 すぐに返事を聞かせて欲しいと言われたら、さらにパニックになっただろう。状況すらよく理解できないけれど“考える”ことならにもできるはずだと思って――頷いた。 「よかった……」 ほっとしたかのように、クリフが呟いて、そしてようやく、掴まれていたの腕も解放される。 「じゃあ、俺、帰る――から。また、明日……」 よく解らないながらも、玄関まで見送りにいったは、足を止めて振り返り、再び真剣なまなざしを見せたクリフに、思わず後ずさってしまう。 「……ちょっと、抱きしめてもいい?」 どうやって断ったらいいのか解らず、動けなかったを見て、承諾したと思ったのか、クリフの腕がふわりと優しくを優しく抱きしめて、そしてすぐに離れていった。 扉が閉められ、いつもの部屋に戻ったというのに、そのあとしばらくの身体から緊張は解けなかった。 |